思うに芸術というものは、

 居心地のよさに気付いたのは随分と前だった。  それは誰でもない、いままさに目の前でカップを口元に運んでいるカルロッタ・マリポーサそのひとがもたらしてくれているものだということにも、グローリアはとうに勘付いている。けれどなぜ。疑問はやまない。なぜ彼女の傍はこんなにも落ち着くのだろう。  ソーサーを引き寄せるふりをして、グローリアはこっそりカルロッタを見つめた。  最近のグローリアは、人付き合いというものにほとほと疲れ果てていた。というのも彼女の周りには、アートのアの字も知らない男ばかりが寄ってくるからだ。  百歩譲って、ところ構わずスケッチブックを取り出す彼女にも非はあるとしよう。けれど男たちはそんな彼女の性分を疎ましく思い、なんとか自分にだけ気を向けさせようと躍起になった。そんなの後でいいじゃないか、ほらポットローストだよ、君の好物だって聞いたんだ。頻りに料理を進める男に、彼女は内心鼻を鳴らす。ポットローストがなんだっていうのよ、わたくしにとってはアートとイマジネーションこそすべてだというのに。  憤慨した彼女が逢瀬を途中で蹴ってサロンに舞い戻り、母親に嫌味ったらしい小言を向けられるまでが一連の流れとなっていた。縁談なんてもう諦めてくださればいいのに、とはさすがに言えずにいるものの、うっかり口を滑らせてしまうのも時間の問題だ。  さて、積もりに積もった無礼な男たちをさっさと消化すべく、たまたま用事でやって来たのだというカルロッタと落ち合い、馴染みのカフェで話に花を咲かせていた。  一昨日のポットロースト男に始まり、二週間前のやたらとレースグローブに触れてこようとする男、その前は、と。尽きない話に耳を傾けるカルロッタは時折おかしそうに微笑も織り交ぜる。あなたを射止めようだなんて度胸のある男がそんなにいるとはね。一見失礼な物言いでさえ、カルロッタとなら愉快な談笑に取って変わる。一体なぜだろう。再びの疑問は深まるばかり。  解明しようと視線をゆっくり持ち上げたグローリアはやがて、カルロッタがいままさに手にしているカップの持ち手に行き着いた。ここのカップには花の意匠があしらわれている。飲み物を口にすれば、ちょうど人差し指に花が咲くようなかたちになるのだ。それが、グローリアがこの店を懇意にしている理由でもある。  人差し指に花が芽吹いたカルロッタを前に、次々と構想が浮かんでいく。それが消えてしまう前にと、グローリアは急いでスケッチブックを開いた。ペンを取り、けれどわずかに戻った理性でちらりと視線を上げる。  果たして対面の席で珈琲を味わっていたはずのカルロッタもまた、グローリアと同様にスケッチブックを膝に広げていた。我に返ったように一瞬だけ顔を向けたカルロッタがふと笑う。 「ごめんなさいね、どうしても書き留めておきたくて」  弁解はそれきり。ペンが自在に踊り出す。  ああそう、これが居心地のよさの正体なんだわ。グローリアは唐突に理解した。別段カルロッタは、グローリアの特異な性格に合わせてくれているわけではない。ただ、合っているのだ。会いたいと乞うタイミングが、珈琲の好みが、アートにさらわれる瞬間が。 「まるで運命だわ」  ぽつり、思わずこぼれた呟きさえ、目の前の芸術家の耳には入らない。喜びに突き動かされるまま、まっさらなキャンバスに世界を広げた。 (ふたりでなくちゃ生まれないものもあるのね)
 「もう運命のひとと出逢っていたの。だから諦めてくださるかしら、お母様」  2021.4.21