かくて恋慕の芽を摘んで。
内容はてんで記憶にないけれど、感涙にむせぶ隣人の泣き顔がひとつの作品のように美しかったことだけはよく覚えている。
「──それから王女のあのセリフ。『連理の枝のように寄り添っていた私とあなたは、けれどあの星々のように遠く離れて、いまはもう眸の色さえ見えないわ』、…ああ、これほどまでに愛と憂愁に満ちた言葉があるなんて」
「一回観ただけなのによく覚えてるわね、あなた」
劇場にほど近いこのカフェは、私たちと同様、観劇帰りの客でごった返していた。腰を下ろすやいなや、まだ泣き腫らした跡の残る目を輝かせたグローリアが感想を語り始めて早や数十分。いまだ口をつけられていないグラスの中で、からりと氷がへそを曲げる。
なんでもいま一番人気の演目だったらしい。すでに上演延長が決定しているのだというそれの主演女優はなんという名だったか。駆け出しながらその美貌と演技力で数々の賞を欲しいままにしている彼女はここアメリカンウォーターフロントが誇る大女優になるはずだと、開演前に誇らしげに説明されたことを思い出す。
この舞台の衣裳原案はグローリアが担当した。だからこそ、立ち見さえ出る人気舞台の特等席チケットを用意してもらえたのだという。そんな彼女はともかくなぜ無関係である私も関係者に混ざって観劇したかといえば答えは簡単、グローリアがなんやかんやと理由をつけてもう一席分確保しただけのこと。恋愛劇なんて興味はないと散々断りの手紙をしたためたのに折れないものだからとうとう根負けして今に至る。
十四世紀が舞台だという程度の事前情報はあった。先鋭的な彼女が前時代の衣裳をどうデザインしたのか、内心息を詰めていれば、果たして古典と自身の現代的スタイルを見事に融和させた出来となっていた。これには舌を巻くしかない。彼女の手がけたデザインはいい刺激になったから、それだけでも収穫としよう。
当の原案者は、自身の衣裳の完成度はもちろんのこと、どうやらそのストーリーにも心打たれたらしい。次々と取り替えられる装いを観察するのに夢中になっていた私は、どんな話だったかもはやさっぱり覚えていないというのに。
「あなたは興味がおありでないようですわね」
ハンカチで目元を拭ったグローリアは、すん、と鼻をすすりながら口を尖らせる。
「恋愛なんてこの仕事になんの関係もないもの」
「そうかしら。歴史をご覧になって。芸術はいつだって、愛を源に発展を遂げてきましたわ」
目の前でミルクが注ぎ入れられていく。黒と白がゆっくり混ざり合う様子をなんとはなしに眺めながら、そんな綺麗なものばかりじゃないわよ、と。反論するのは心の中でだけ。
彼女の言う通りたしかに芸術は感情の機微に左右される部分もある。それによって生まれた作品も数知れない。けれど恋によって身を滅ぼしてきたひとを、愛のためにすべてを諦めたひとを、私は嫌というほど見てきた。身勝手な感情を向けてくるひとも大勢いた。恋愛感情は才能の芽を潰しかねないし、他者はいつだって自分という存在を揺るがす不穏分子でしかないのだ。
などと不用意に発言したところで彼女のこと、過去について根掘り葉掘り尋ねてくるに違いないから、コーヒーとともに飲み下し代わりにため息をひとつ。
「そもそも芸術を大成させるための手段として愛だの恋だのを利用することが冒涜なのよ。芸術はもっと高尚であるべきだし、恋愛はもっと純粋であるはずよ」
「あら、あなたって意外とロマンチストですのね」
ストローから離れたくちびるが楽しそうに弧をえがく。続く言葉はなんとなく予想がついた。
「あなたもわたくしに恋をしてくださったら、先達の気持ちも理解できるかもしれませんわよ」
「お断りよ」
「強情ですこと」
さして気にした風もなくまた喉を潤していく。グローリアが私に向ける一見無邪気な恋情が果たしてふたりにどう作用するのか。悪い方向に働かなければいい、と。願ったのは、そう、保身のため、それだけでしかないのだ。
からり。あっという間に空になったグラスで、氷が不満をこぼした気がした。
(そんな感情を私に対して抱かないほうがいいのだと、いつかきっとあなたも、)
あなたが根付いてしまわないように。
2021.8.9