You spring into my heart!

 うららかな春先をつんざく悲鳴に、だれもかれもが作業の手を止め上階を振り仰いだ。  発生源を確かめるよりも早く、階段を駆け下りてくる気配。間を置かずに部屋に飛びこんできたのは、その場にいただれもが予想したとおり、この店の主であるグローリアそのひとだった。  注目を集めていることを気に留める様子もなく、布地を漁り書類を散らし衣装をひっかき回している。常であれば綺麗に波打つ髪は乱れ、ブラウスの襟は折れ、おまけに柄の異なるパンプスを履いている。彼女の動揺に気付くにはそれで充分だ。  声をかけることさえ憚られる形相に、さてだれが事の次第を尋ねようかと貧乏くじの押しつけ合いをしているところへ、グローリアの秘書を務める彼が現れ、モノクルの奥の目を丸めた。 「どうなさったのですか、お嬢。そんなに血相を変えられて」 「─…ないのよ、」  ようやくぴたりと動きを止めた彼女が小さくこぼす。皆が聞き耳を立てるなか、勢いよく顔を上げた彼女は、泣き出すように叫んだ。 「あの子がいないのよ、どこにも!」  ***  ぴ、ぴ、ぴ。規則正しい声ははるか下方から。 「やあ。これは小さなお客さんだな」  右、左、上、下と順に視線を移したヒューゴーは、そうしてまみえた日向色の毛並みに相好を崩す。足首あたりに縋るようにして見上げてくる彼は、最近よくグローリアのもとで憩っているのだという子に違いない。それというのも彼女から届く手紙には毎回彼のことがスケッチ付きで綴られているのだ、初対面でもすぐそれと察しはつく。  両翼に指を差し入れ、そっと抱え上げる。ぴいよ。彼が何事か訴えかける。生憎彼の言葉を解することができないヒューゴーは困ったように首を傾げるばかり。  小さな手が一生懸命なにかを指し示す。 「ああ、もしかしてこれが欲しいのか」  思い当たったのは、胸ポケットに突っ込んだままの歯車を象った装飾。取り出して目の前に掲げれば途端、眸がきらきらと輝く。あげるのは一向に構わないが一体どうして。ヒューゴーの疑問に答えるように、机に飛び乗った彼は、転がる紙とペンで拙いながらも説明をする。ああそういうことかと、彼の思いやりにヒューゴーはやわく笑んだ。 「喜んでくれるといいな」  ぴよよ、と。歯車を受け取った彼は、上機嫌にのどを鳴らした。  *** 「だーかーら! それとこれ、交換しようって言ってるのにさあ」  ぴやよよよ。大人げなくも懇願する声と、頑として譲らない甲高い鳴き声。かれこれ三十分も続くやり取りに、オーシャンはもはや頭を抱えるしかなかった。  水泡のなかに浮かぶ大小いくつもの気泡が、陽光を受けて七色に輝いている。ひと目で魅入られてしまった彼は、オーシャンの手からその装飾を奪取し抱え込んでしまったのだ。小さな子からまさか無理に取り返すこともできず、かといって交換に応じもせず、製作者は成す術なくしゃがみこむ。  頭を抱えたオーシャンがちらと視線を上げた先、日向色の彼は、小さなちいさな手で大事にそれを抱きしめている。そんな姿に、まあいっか、と苦笑した。最後の仕上げを今から考え直さなければならないのは痛手ではあるものの、だれかに喜びをあげることに変わりはないのだから。  ずい、と顔を寄せる。耳がぴんと天を向き、やわらかな身体が警戒するように逆立つ。 「じゃあ交換条件。絶対に笑顔にしてくること。いいね?」  澄んだ眸がオーシャンを見上げ、やがて応えるように飛び跳ねた。  これで貸しひとつだなあ。頭を掻いたオーシャンは、お礼とばかりにすり寄ってくる彼の毛並みをひっそり楽しみながらくしゃりと笑った。  ***  日向色に包帯が巻きつけられていく様が痛々しい。 「その行動力は買うけれど」  呆れと心配を織り交ぜたカルロッタの手当てに、ぴゆう、と気落ちした声がひとつ。まあ私が叱ることじゃないわね。包帯の端を結んだカルロッタはひっそり嘆息する。  彼を発見するのがあと一歩でも遅ければ、鷲に連れ去られていたところだった。だれを供につけるでもなく森を突っ切ろうとしていた彼はどうやらカルロッタを訪ねてきたらしい。目立つ毛並みは格好の餌食だというのに。また小言を向けたくなったものの、彼の語る理由を前にぐっと堪える。  とつとつと説明を終えた彼が、耳をしゅんと垂らしてカルロッタを見上げる。どこで覚えてきたのか、眉尻の下がった表情はグローリアそっくりだった。  ため息をもうひとつ。 「─…わかったわよ。私も手を貸してあげるわ」  カルロッタの言葉に途端、嬉しそうに両耳を立て目を輝かせるのだから現金なものだ。素直すぎる反応に、けれどもう呆れなど浮かぶはずもない。  引き出しから一本のリボンを取り出した彼女はやさしく微笑みかける。 「さ、あの子の驚いた顔でも拝みに行きましょうか」  果たしてグローリアは泣き腫らした目元を隠すことなく肩を震わせていた。 「わたくしが…っ、どれだけ、心配したと思って…!」  小言のひとつやふたつ喰らうであろうことは覚悟していたもののまさかここまでとは思わず、矛先である彼はカルロッタのつむじあたりで身体を丸める。そんな彼を捕まえようと飛び跳ね、指を伸ばすグローリア。 「ヒューゴーやオーシャンから連絡をもらっていたから、行き先は知ってたわ。でも、それでもね、あなたが無事に帰ってきてくれる保証なんてどこにもなかったから…」  声が段々湿っていく。そっと目を開けた彼がカルロッタの頭から覗きこめば、水槽色の眸を再びおぼれさせたグローリアが不安そうに見上げてきていた。  行き場をなくしたグローリアの指を、カルロッタの両手がやさしく包みこむ。 「ねえグローリア。この子に聞いたんだけどあなた、最近ろくに休んでないみたいね」 「そ、それは…、少し、仕事が立て込んでいて」  唐突に話を振られたグローリアは、ばつが悪そうに押し黙る。赤く腫れた目の下には徹夜の痕が居座っていた。そういえば数ヶ月前に会ったときより全体的にやつれている気がする。カルロッタは小さく嘆息する。熱中すると自身のことなど構わなくなる性格だと重々承知しているものの、彼にまで心配をかけているとあらば見過ごせなかった。  カルロッタは諭すように続ける。曰く、彼は休む間もなく連日作業に打ちこんでいるグローリアの体調を案じているのだと。曰く、最近笑うことが少なくなったと。だから、 「続きは本人から聞いてちょうだい」  微笑んだカルロッタの肩をつたい下りる日向色。なにかを背中に隠し持っているふうの彼は、いまだ繋がれたままのグローリアの腕まで足を進め、おずおずと見上げる。  意を決したようにぎゅうと両目を閉じて。  差し出したのはとりどりの花と、それを囲むように施された三つの装飾だった。丹念に磨かれ光を反射する歯車。七色に輝く水泡。そしていまにも飛び立ちそうな躍動感を宿した蝶たち。モチーフがてんでバラバラであるにも関わらず心を奪ってやまないそれを前に、グローリアは言葉を発することができずただ呆気に取られた。  ぴいよ、よ。春を思わせる花束の横から窺うように顔を覗かせる日向色。 「笑顔になってほしかったんですって、あなたに」 「わたくし、に、」  言葉を向けられる先からぽろぽろ涙がこぼれていく。戸惑う彼ごと花束を抱きしめたグローリアは、雫をあふれさせながらも春の陽射しのように笑う。 「ああもう! あなたのおかげで、わたくしはいま、だれよりも幸せよ!」 (あなたにとっておきの笑顔を)
 D系WEBオンリー「Clap Your Hands!」内で頒布した春本。  2021.3.14