つまりはつま先から頭のてっぺんまで、
たとえば潮の満ち引きみたいに。
彼女の足元から少しずつ少しずつ、ひたしてしまっている自分に気付いてしまって。ならば彼女がそれと勘付いてしまう前に、そのくちびるまで濡らしてしまう前に少しずつ少しずつ引いていこうと、身も想いも、なにもかも。いつか濡れていた痕跡さえかわいて見えなくなってしまえばいいと。
だってにがいばかりの海水なんて誰だって口にしたくはないでしょう、それと同じ。
彼女が私を満たしていないいまならまだ遠ざかることができる、グローリア・デ・モードの生み出すファッションアートにだけ興味を持っていたあのころに戻れるはず。
「つまりすきなんでしょ、私のこと」
「………そうね、きらいじゃないわ」
だから、この直球すぎる言葉は想定外。
動揺に跳ねた鼓動を悟られないようようやく取り出した返事はきっといつも通り、大丈夫。
一体全体どうして彼女がそんな結論に至ったのかと会話をたどってみるものの、これといって思い当たるものはない。私のなにもかもを透かすみたいにじいと見つめてくる水槽色の眸にともすれば沈められてしまいそうで、それでも逸らしてしまえば自身の言葉の頼りなさを肯定してしまうようでもあって。
逃れる代わりにカップを傾け、けれど苦味が強いはずの私好みのコーヒーはちっとも舌に残らず、冷めきっていない熱が刺激してくるばかり。
「うそつき」
平静を保とうとする私の努力を無情にもその一言で斬り落としていく。
幼い妹のいたずらを見つけた姉のように、そうでしょ、と。確信を乗せ眉を上げてみせて。
「友人として、って意味じゃないわよ、もちろん」
「…随分と過剰な自信だこと」
「あら、そんなこと、」
ふ、と。頬に伸ばされた指に思わず身を固める、それさえももはや向けられた自信の正しさを認めてしまう行為に他ならないけれど、身に染みついた反射はどうすることもできない。
ふれられることに慣れていなかった、だってふれるのはいつも私からだった。呼吸を整え、適切な距離をはかり、手を伸べる、そうすれば一切を遮断できるから、彼女が私をひたすことはないから。
こらえきれず一緒に閉じてしまっていたまぶたの裏で、見ていればわかるわ、と。
「だって同じなんだもの、私と」
言葉に誘われ視界を開いて、ああ、また、いとおしむみたいに細められた水槽の内に沈んでいく、ぶくぶく、気泡がこぼれて、気配もなく割れて、
「視界に映るだけで胸が高鳴って、視線が重なるだけで吐息が熱をふくんで、ふれられるだけで呼吸がとまって。どうしてそうなるのかぜんぜんわからなかったけど、でも、あなたも同じ表情をしていたから、」
だからね、気付いちゃったの、
「──すきよ、カルロッタ、あなたのこと、だいすきなの」
春の陽射しにも負けないまぶしい笑みをひとつ、どこか得心したようにすっきりと晴れ渡ったそれに、否定の言葉もなにもかもがとかされていく。
どうしてそんなに微笑んでいられるの、だって私の想いはもうあなたの口元まで濡らしているのに、きっと間もなくその呼吸さえ奪ってしまうのに、どうしてあなたはまだ、まっすぐ私を映してくれるの──そのどれもが、音になる前に泡と化していく。
頬をつつんでいる手のひらがたしかな熱を持って撫で、あなたは、と。私の心を問う、暴くよりももっとやさしく、もっと深く、うずくまっているそれを拾い上げるみたいに。
私は。
口にした声が存外震えていて、息をひとつ、こぽり、泡となってあふれた気がして。
「─…あいしてるに、決まってるじゃない」
(ああきっと、想いにひたっていたのは、)
気付けばあなたでいっぱいだった。
2018.5.7