指にも音にも眸にも、残るはあなたの姿だけ。

『待ってます』  その一言を見たのは、雑誌の撮影を終え衣裳部屋に戻りコートを羽織ってさあ帰ろうという、まさにそのときだった。  電車の乗り換えを確認しようと携帯電話の電源を入れて最初に目についたそれに、またかとため息をひとつ。送ってきた相手が誰か、なんて、名前を見なくたってひとりしかいないのだから。  メッセージの送信時刻はちょうど三時間前、私がスタッフと打ち合わせをしていたときだろうか。まさかまだ迎えを待っているなんてことは、と。以前はそう笑っていたけれど、そのまさかが半年も続けばため息のひとつやふたつ吐きたくもなる。 『まだ間に合うかしら』  放っておけは、しないけれど  ***  教えられた場所はやっぱり、いつもと同じ居酒屋だった。今日と同じ目的で何度も足を運んでいるからか、一度もここのお酒を飲んだことがないというのに店主とは顔馴染み。最寄駅からのルートも、日本酒の品ぞろえだって覚えてしまっている。  私にも一杯ちょうだい、とは、まだ口にできていない。  暖簾をくぐるやいなや、私の姿を見とめた老年の店主は苦笑を浮かべる、あんたも大変だねえ、と。同じ表情を返しつつ店の奥へと足を進めれば、彼女の定位置、カウンター席の端に目的のその人が突っ伏していた。見慣れた光景に、ため息は止まらない。 「あなたのご希望通り迎えに来たわよ、楓ちゃん」  重力に従って無造作に落ちている髪に指を通し、地肌をやさしく撫でる、これも彼女のご所望。はじめてこの子を引き取りに来たとき──つまり半年前、こうしてテーブルと仲良くなっていた楓ちゃんの肩を揺るれば、もう少しやさしく起こしてくれなきゃいやです、なんて、まるで駄々をこねる子供みたいに。まるで、ではなく、そのものでしかなかったけれど。  それからはここを訪れるたび、腕を軽く叩いたり、背中をさすってみたりと色々試してみれば、髪を手櫛で梳くこの方法が一番顔を上げた際の機嫌がいいことに気付いた。  今夜だってそう、ううんと小さく声が上がったと同時、流れた髪の隙間から薄氷にも似た色素の少ない眸が覗いて。みずきさん、と。酔いの回った口調はどこか嬉しそうだ。 「お仕事終わったんですね」 「随分待たせちゃったけど」 「いいえ、ずっと飲んでいましたから」  テーブルには、彼女の言葉を裏付けるように四合分の徳利が並べられていた。また胃に食べ物を入れないまま酒を流しこんでいたのだろう。私が迎えに来るときは決まって健康に悪いひとり酒をしているのだ、この子は。  後頭部に触れたままだった手を離し、椅子にかかっている楓ちゃんの鞄から財布を取り出し勘定を済ませる。離れる直前、不満そうに頬がふくらんだ気がしたけれど、きっと見間違いだろう。  最近一緒に飲んでいないなと、お釣りを受け取りながら思ったのはそんなこと。  店主の見送りの声を背中に店を後にした途端、暖房であたたまった肌をさらわれた。  はじめて呼びつけられた夜から季節はめぐり、もう風さえも冬をまとってしまっていた。月に二、三度の迎えに私を選ぶ、その理由がわからなくて。尋ねようにも彼女はいつも酔っ払っているものだから、そのまま訊けず仕舞いになっていて。 「寒いですねえ」  肩が触れて、腕が絡んで。いつもの距離、いつもの体温。アルコールのおかげか幾分熱を持った楓ちゃんの身体が、私をゆっくりとあたためていく。寒いなら風邪を引いてしまう前にコートを羽織ってしまえばいいのに依然、反対の腕にかけたまま。 「瑞樹さんは飲んでないんですか、お酒」 「素面に決まってるでしょ、現場から直行してきたんだから」 「直行だなんて、ちょこっと、申し訳ないです」 「ギャグが冴えてないわよ、楓ちゃん」  もちろん普段が冴え渡っているわけではないけれど。本当にちょこっとだけの申し訳なさをこめてうふふと笑った彼女の声が街灯に吸いこまれていく。  こうして連れ立って夜道を歩くのももう何度目か、両手で足りないことはたしかだった。仕事の話題だとか、さっきまで飲んでいたお酒の銘柄だとか、そんな他愛もない会話を交わすうちに駅へたどり着いて、それぞれの電車に乗りこむべく別れを告げる。これがたとえば別の駅であればもう少し、帰り道をともにできるのに。  そうして今夜も駅の表札が近付いてくる、このぬくもりとももうすぐお別れ、さみしくはない、だっていつものことだから。  改札を抜け、じゃあまたねと挨拶を送り別れる、私は左、彼女は右へ。  数歩足を進めた先で立ち止まり、振り返ってその後ろ姿を見送るのが常。きちんと階段の影へと消えたことを確認して、私もまた階段を上っていくのだ。ふらふら危なっかしい足取りに毎回、大丈夫だろうかと不安を抱いて。  けれども振り向いてみれば、乗り場へと続く階段のすぐそばで立ち止まった楓ちゃんと視線が合ってしまった。彼女はいつだって、こちらを一度も振り返ることなく行ってしまうのに。  ふわり、浮かんだ笑みが彼女の印象的な眸を隠す。 「──そういう瑞樹さん、すきですよ」  すき、なんですよ。そう、繰り返す彼女に一瞬、返す言葉が見つからなくて、 「─…はいはい、気をつけて帰るのよ」  ついに眸を現すことのないまま階段を上っていった彼女にひらひらと手を振った、これが私の精一杯。  その場から彼女の余韻が消えても、私はまだ、足を動かせなくて。 (あなたは一体、どれだけ私をかき乱せば、)
 すきなひとの前では素直になれない系大人組。  2017.1.17