だって愛など知りませんでした。

 見下ろされたのは随分と久しぶりだった。 「─…あら、」  身長ばかりが上へ上へと目指してしまったわたしは、特に女性相手では見下ろす側に立つことが多かった。だからだろうか、気付けば背を丸めていることが増えて。目線は近いのに、どこか距離があるような気がして。  顔を上げる、なんていう慣れない動作の後にようやく、わたしを呼んだその人の笑顔を探し当てることができた。ああそうだ、ここは階段だったと、思い出したのは川島さんが一段こちらへ近付いてきたから。 「どうしたの? 鳩が豆鉄砲喰らったような顔をして」  一段上の川島さんと、一段下のわたし。視線の高さが重なって、薄く細められた眸がすぐ目の前に迫ってきていた。言葉を忘れてしまったのどをこじ開け、いいえ、と。 「ごめんなさい、ぼうっとしていて」  謝罪を口にすれば、じゃあもう一回お誘いするけど、と前置きが返ってきて。  きれいな眸だと、わたしの頭は性懲りもなくまた別のことを考え始めた。まっすぐ、ただわたしだけを、その宝石みたいな眸に映しこんでくれる。浮かんだ感想をそのまま伝えたら、果たしてこの人はどんな反応をするのか。知り合ったばかりのわたしからの突拍子もない賛辞に戸惑ってしまうのか、それとも、 「お酒、飲みに行きましょうよ、一緒に」 「─…え、」  *** 「っあー、生き返るわねぇ!」  おおよそアイドルには似つかわしくない声が個室に響く。それはわたしも同じようなもので、アルコールを流しこんだのどから自然と熱い息が洩れていた。  川島さんに誘われるまま足を運んだのは、下町にひっそりと店を構えている居酒屋だった。個室に案内され、最初に選んだのはビール。  以前は──モデルとして働いていたときは、カクテルやワインばかりを取り揃えた店に連れて行かれていた、楓さんに似合うだろうと。もちろん嫌いなわけではない、そうだけれど、わたしという人間を勝手に判断されたようで。外見だけで、まとうべきなにもかもを決めつけられたようで。  だからこそ、川島さんがそれとは正反対の店を選んだことに驚きを隠せなかった。腰を下ろしてすぐビールを注文した彼女に思わず追随して。  誰かと一緒にビールを飲むのはいつ以来だろう。モデルをしていたころは片手で数えきれるほど、アイドルとして活動し始めてからはきっと、川島さんがはじめて。  あっという間に空になってしまったジョッキを置けば、向かいに座った川島さんもちょうど飲み干したところだった。泡の残ったジョッキからわたしへと視線を移し、にこり、浮かんだ微笑みに酔いが奪われていく。 「お気に召したかしら」 「…ええ、すごく」 「よかった。ここね、私のお気に入りだから、楓ちゃんにも教えてあげたくて」  かえでちゃん、かえでちゃん。彼女の音は、他の誰が口にしたものとは違う響きを持ってわたしに届いた。かえでちゃん、だなんて。たしかめるようにもう一度、名前を落とした川島さんは口元をゆるやかに綻ばせる。 「ずっと、ね、呼んでみたかったの。いい名前だなって思って」 「あら、嬉しいです。でも川島さんだって、きれいな名前ですよね」 「みずみずしくてフレッシュな名前でしょ」  声を二度ほど高く、腰を捻ってピースサインをするものだからつい、くすくすと笑みをこぼしてしまっていた。  みずき、川島瑞樹。まるで静かに流れる水のように清廉で、けれど力強さを感じる名前。彼女にぴったりだと、よく知りもしないのになぜだかそう思えた。  みずきさん、と。音にしてみたかった、わたしののどから取り出したそれはどんな色をしているのか、知りたかった。一杯しか口にしていないアルコールのせいにしてしまえば、いいえきっとそうではなくても、彼女は笑って呼び名を許してくれると、そんな確信があったから。わたしの方はまだ、その勇気が顔を出してくれなかったけれど。 「やっと笑ってくれた」  ジョッキを手離したところで放たれた川島さんの言葉にふと、首を傾げる。私ね、と。その姿はどこか、とっておきの秘密を打ち明ける子供のようにも見えて。 「一緒にお酒を飲みたかった、っていうのももちろんなんだけど。一番は、あなたの笑顔が見たくて」 「わたしの、えがお」 「そ。まだ見たことがない気がしたから」  わたしののどがまた、音を発さなくなってしまう。いままでだって何度も笑顔を浮かべている、つもりだったのに。果たして自分の思いえがくアイドルになれるのか、モデル時代のように虚像のわたししか見てもらえないのではないか。そんなわたしの不安が全部ぜんぶ、見透かされているみたいで。  そうして川島さんは笑う、思った通りねと、どこか嬉しそうに。 「楓ちゃんの笑顔、とっても素敵だわ!」  ──なにかが落ちる、音がした。  音はたしかに耳に届いた、けれどどんな名前の音であるのかわからなくて。心を震わすその正体を、わたしはまだ、知らなくて。ただ、ひとりぼっちで不安ばかりを抱えていたわたしの心が、彼女にすくわれたのはたしかで。川島瑞樹という女性に惹かれ始めたことは、はっきりと感じ取れて。  ようやく顔を覗かせた勇気の促すまま、指を伸ばす。さっきまでジョッキに触れていた川島さんの指は少しだけ濡れていて、けれどぬくもりが残っていて。  川島さん、と。名前を紡ぐだけで自然、笑顔が浮かんだ。 「わたし、もっと知りたいです、あなたのこと」  きらきら輝く川島さんの眸がぱちり、またたいた。 (だってあなたがはじめてだったから)
 アイドルに転向したばかりの楓さん。  2017.1.21