だってずっと焦がれていた、あなたの背中に、眸に、その笑みに。
扉を開けた途端、出迎えてくれた無邪気な笑顔に、仕事の疲れがほんの少し飛んでいった。
「おかえりなさい、みずきさん」
「─…ただいま、楓ちゃん」
もう何度も交わした挨拶に自然、頬がゆるんでいく。帰りを待ってくれている人がいるだけでこんなにも気分が弾むだなんて、思っていたよりも私は安い女のようだ。いつまでも楓ちゃんの優しさに新鮮さを感じていられるのなら、どれだけ安くたって構わないけれど。
立ったままブーツを片足ずつ脱ぎ捨てれば、すとんと、慣れた身長差に帰っていく。途端、にへらと相好を崩した楓ちゃんの考えていることなんて全部お見通しだ。小さいみずきさんの方がかわいいとか、背伸びしたがるこどもみたいだとか、きっとそんなところ。
帰宅してすぐに感じた癒しはどこかへ隠れて、代わりに顔を覗かせた不満に頬をふくらませそうになる。けれどその笑みのまま、はい、と手を差し出してきたものだから、それ以上拗ねることもできなくて大人しく指を伸ばした。素早く絡まってきたそれが孕んだ熱に、ともすればとかされてしまいそう。
楓ちゃんは指先もつま先も、いつだってひんやりと冷たい。無駄に縦に長いから末端にまで血が巡らないみたいで、とは彼女の言。末端まで待ったん、なんて続いた洒落には反応を返さなかったけれど。そこが熱いということは、たくさんお酒を空けた証拠。冷蔵庫にビールやらワインやら日本酒やらをいくつか常備してはいる。けれども楓ちゃんのご機嫌なこの調子を見るに果たして、私の疲れを沈めてくれるほどのお酒が残っているかどうか。
こどものように手を引かれ、リビングへと通じる廊下を連れ立って歩く。自分の部屋なのに、まるで案内してもらうみたいに引っ張られているのは、なんだか奇妙な感覚だ。
そっと、視線を持ち上げる。わずか先で、くるりと丸まった毛先が動きに合わせて跳ねている。
──こんなに近くにきたんだなあ
ふと、浮かんだのは感慨。
腕を目いっぱい伸ばしても、かかとをうんと持ち上げても触れられなかった髪が、背中が、彼女が、すぐ傍にいて。離れてしまわないように、私の指をかたく握っていて。事務所やライブの喧騒の中ではなりを潜めていたことが、こうしてフローリングを打つふたり分の足音に耳を澄ませていればどんどんと湧き上がってくる。いつの間にか、おかえりなさいとただいまを交わす仲になっていた、なんて。
そんなことをぼうっと考えていたからか、目の前の動きを止めた髪にも気付かず、まともに首筋に顔をうずめる体勢になってしまった。それまで見つめていた髪にもふりと受け止められる。
鼻頭を押さえた私を、振り返った楓ちゃんが見つけて、ふふ、と。洒落を口にした後みたいに。
「前が見えなかったせいよ」
照れ隠しに、暗に私よりも背の高いその人のせいにして、フローリングに直接腰を下ろした。自ら離したのにもう、楓ちゃんの体温を恋しがるなんて、身勝手が過ぎるのよ。
テーブルの上には案の定、いろんな種類の缶やホドルが並び、そのどれもが中身を飲み干されてしまっていた。一体いつからひとりで杯を傾けていたのだろう。お邪魔しています、とメールがあったのは夕方を少し回ったころ。隙間のないスケジュールを気に留めたプロデューサーの働きかけで、早く上がらせてもらえたのだという。まさかその時間から飲んでいたなんてこと、まさか。
そのまさかも、機嫌よく手でリモコンを弄ぶ楓ちゃんを見れば信じざるをえないのだけれど。
空き缶の山からどうにかプルタブの引かれていないビールを探し出し、小気味よい音を立て開封する。まずは一口、身体の中へと流れこんでいく感覚に思わずのどを鳴らしそうになった。
「みずきさんにぜひ見てもらいたいものがあるんですよ」
酔いのせいか、どこか舌足らずに笑った楓ちゃんは、DVDプレイヤーを起動させなにかを再生しはじめた。缶に口づけたまま、テレビに顔を向ける。ぱ、と画面に映ったのは、ニュースだろうか。お天気コーナーで示している地方は、覚えのある地元のもの。
まさか、と。再び浮かんだその言葉はすぐに肯定された。
テレビの中でニュースを読み上げはじめたアナウンサーは、誰であろう、私だったのだ。
ビールを思わず吹き出しそうになって、慌てて遠ざけ咳きこむ。
「ちょ、ちょっと楓ちゃんっ、これって、」
「実家の録画リストにたまたま残ってて、つい」
「つい。じゃなくて」
母にダビングしたものを送ってもらったんです、なんて、両手を重ねのほほんと言ってのける楓ちゃんと一緒に笑えるほど、私は成長していなかった。
画面の向こう側で、与えられた原稿をただ音にするだけの私はちっとも、輝いてはいないから。自分自身を表現したいのだと願いつつもなにひとつだって叶えられていない、小さなちいさな、ただのアナウンサーだったから。後悔するばかりの過去ではない、でも、笑い話として振り返れるほど、強くはなかった。
すぐに切り替わったカメラがスタジオを映し出す。政界の面々とともに半円のテーブルに座っているのは、当時局で一番人気だったアナウンサーだ。本当は私がこのコーナーを担当したかったのに、なんていう昔の悔しさが沸々と煮えていく。
「えーい」
けれど、なんとも軽い一言によってあっさりと時が戻される。チャプターでもつけているのだろうか、わずかなノイズの後、また現れた私が同じ内容を伝え始めた。隣で同じように足を崩している楓ちゃんに視線を向けてみても、このみずきさんとっても初々しいですよね、と。もう一度、場面を戻して。
「何回見るつもりよ」
もしやこの子は、私が帰ってくるまでずっと、この映像を肴に飲んでいたのだろうか。テレビを前にひとりで缶を傾けている楓ちゃんを想像すると、まだひとつだって飲み干していないのに顔中が火照ってくる。
私の問いには答えず画面に食い入る、その横顔はけれどどこかやわらかくて。
「すき、だったんです、この頃のみずきさん」
この時はいつも下ろしていましたよね。そんな言葉を携え、腕を伸ばしてくる。頬を掠めたそれに首を竦めた、少し、くすぐったい。後頭部を抱えるように触れて、ふと、与えられた軽さに首を傾げる。引っこめた楓ちゃんの手には普段使いの髪留め。髪を下ろされたのだと気付くには充分だ。
テレビの中では、いまここにいる川島瑞樹とそっくりそのままの姿をしたアナウンサーがまだニュースを紡いでいる。
「─…とても、似ていたから、わたしと」
「楓ちゃん、と?」
「そう、鬱屈としていた、モデル時代の高垣楓と」
楓ちゃんがモデルとして活動していた頃の話を、私から聞き出したことはない。事務所に黙ってオーディションを受け、アイドルになったのだと、それだけ。けれどそれは、現状に満足していなかったという証で。アナウンサーの道を捨て、アイドルの世界に飛びこんだ私と一緒だということで。
「だから、この人が高みにのぼったとき、きっとわたしも、同じ目線のところにいられるんじゃないかった。もう少しだけ、本当の高垣楓に近付けているんじゃないかって。…根拠は、なかったんですけど」
髪をさらって、くるくると指先に絡めて、どうでしょう、と。わたしはあなたに近付けましたか、なんて。
背中を追いかけていたのは私だけだと思っていた。他の人よりも高い位置の眸が見据えるその先を、同じ未来を、見ていたかったのは私だけなのだと、そう。
すっかり忘れていた缶を取り上げられ、代わりにくちづけを与えられる。アルコールの香りと、それから熱を持ったくちびるの感触。ほんの少し先にあるたがい違いの眸は、私をとかしこんだまま細められた。
「ね、楓ちゃん」
「はい」
「…私は、あなたと同じ場所に立てているのかしら」
惹きこまれてしまいそうなほど深い眸がまたたいて、笑みをかたち作って。私が一番、焦がれた表情。
「──それはわたしの台詞ですよ、みずきさん」
憧れた眸は、目の前に。
(でも。このDVDは没収ね)
(えー、なんでですか、かわいいですよ、みずきさん)
(その言葉が理由だって、わかってて言ってるでしょ、楓ちゃん)
(わかっちゃいます?)
(わかっちゃいます)
アナウンサー時代の川島さんは髪を下ろしてるといい。
2017.1.29