わがままを一つ、くちづけはたくさん。
琥珀にも似た眸が、じい、と。すぐ近くにあるそれに、表情の乏しいわたしが映りこんでいる、まるで本当に囚われてしまったかのよう。きっとわたしはこの人にはじめて出逢ったその瞬間から、琥珀色にとかしこまれたままなのだろうけれど。
抜け出そうなんて思わない、だってずぶずぶと、やわらかに沈んでいくばかりだから。間近に迫っただけでこんなにも鼓動が騒いで仕方のないほど、好きでたまらないのだから。
「みずきさん」
「んー?」
「みずきさん、」
「やっぱり綺麗ねえ、あなたの眸」
むにむに、両頬を揉みこまれ、中央に寄せられ、左右に引っ張って。狭まった視界に見えた表情は楽しそうに笑っていたから、きっと面白がっているに違いない。頬を包みこむ手のひらは、常であればあたためてくれるはずなのだけれど、いまばかりは乳液の冷たさに侵食されてしまっていた。加えてわたしの毛先からこぼれる水滴が、みずきさんの手の甲を濡らしている。ひんやりとした感触が、湯上りの肌に心地よく染み渡った。
髪も乾かさず脱衣所から出てきたわたしを捕まえた彼女は、ソファに座らせ、化粧水から丁寧に塗ってくれていた。曰く、楓ちゃんってば放っておくと雑なスキンケアしかしないからと。最近はみずきさんを見習って真面目にケアしてるんですよ、とは、言わないでおいた。だってこうして触れてほしくて、みずきさんといる夜はわざとなんのお手入れもしていないのだから。まったく楓ちゃんは、なんて文句を吐きつつ口元を綻ばせている彼女には、もうとっくの昔にばれている気がするけれど。
片膝だけを軽くソファに乗せた体勢のみずきさんが、少しばかり離れた位置から見下ろしてくる。彼女の乾かしたばかりの毛先が肩を流れて、わたしの首筋をくすぐっていく。
照明を背負った彼女がまぶしくて視界を閉ざせば、こっち見てよと、なんだか拗ねた口調で。そんな彼女がかわいくてわざと眸を隠し続けていたら、むにり、強めの力で頬を引っ張られた。少し意地悪が過ぎたかもしれない。
「いひゃいでふ」
「薄いほっぺたね、もうちょっとおにくをつけなさい」
これでも以前に比べれば随分と食べているのに。みずきさんとごはんを共にするようになってからは、特に。彼女の振る舞ってくれる料理はいつだって、なんだって、ほっぺたが落ちるほどおいしいのだから。そういう意味では、頬が薄くなっているのかもしれない。
みずきさんが仕事や強化合宿で留守にしているときは、寂しくて食べる気がしないからお酒とおつまみで済ましてしまうこともままあるけれど。ひとりきりの食卓の広さを知ってしまったわたしはもう、ひとり分の料理しか並ばないそこに耐えられなくなってしまったのだ。
「私がいないときもきちんと食べなきゃだめでしょ」
「あ、わかっちゃいました?」
「わかっちゃいました」
はい終了、と。いつの間にかクリームまで塗り終えてしまったみずきさんの手が離れていく。まどろみにも似たこの感触をもう少しだけ味わっていたい、なんてわたしの願いも虚しく、距離を空けてしまって。
この瞬間は、何度迎えても慣れそうになかった。さっきまで存分に手のひらのやわらかさを堪能していたはずなのに、わたしはいつから、こんなにも欲張りになってしまったのだろう。いまだってそう、依然見つめてくるその琥珀色がずっとわたしだけを映してくれていたらいいのにだとか、名前を紡ぐそのくちびるがわたしだけに重ねられたらいいのにだとか。自分勝手な願いがぐるぐると渦を巻き、どうにも耐えられなくなって世界を閉ざす。
「かえでちゃん、」
彼女だけが生み出すことのできる音が、くちびるに消えていく。自身のそこに体温を感じて眸を現せば、さっきよりも距離を詰めた眸が、わたしだけをとかしこんでいて。それまでの浅ましい欲も忘れぽかんと間抜けに見つめ返してくるわたしがそこにいて。
間近に迫った眸がぱちり、またたいた後、音を立てる勢いで赤く染まっていった。どうしてだか焦ったみたいに顔の前で両手を振りはじめたみずきさんが、ちがうの、と。
「だ、だって楓ちゃん、その、ちゅー、したそうな顔、してた、から、」
「…そんな顔、してましたか、わたし」
わたしはわたしで、頬から鎖骨にかけて熱が走っていく、きっと目の前のその人と同じ色。察されるほど物ほしそうな顔をしていたなんて。真正面からまともに見つめ合うことなんてできなくて視線を外し、ああでも、もう一回、あのふわふわなくちびるを重ねてほしい、だなんて。できることなら一回なんて言わず、みずきさんさえよければ何度でも、だけれど。
かえでちゃん、と。不安のにじんだその音にちらりと視線を戻せば、いまだ朱を塗りこんだままのみずきさんが珍しくも歯切れ悪く、その、と。おそるおそる頬を撫でてくる手はもう、いつも以上の熱を取り戻していく。
「…間違って、た?」
「─…間違ってない、です」
だからもう一度、と。音にする前にくちびるが触れ合って、願いがころころとのどを転がり落ちていった。両頬がぬくもりに包まれる。わずかに反ったせいか後頭部がソファの背に当たって、ぐぐと、押されるままに沈みこんでいく。くちびるを割って歯列をなぞれば、待ってましたとばかりに熱い舌が現れ、すぐさま絡め取られていった。わたしの鼓膜を支配するのはうるさすぎる自身の心音と、身体をつたう水音と、時折洩れるみずきさんの息づかいばかり。
ふ、と。小さなリップ音を立てて離れたくちびるがゆるゆると、笑みのかたちに綻んでいく。わたしとしてはもう少しくちづけていたかったのだけれど。そんな恨みがましい色をこめて視線を上げれば、ほどなくして出逢った眸がわたしをとかす、琥珀色に。今度はわかるわ、と。少しの自信を含んで。
「だって顔に書いてあるもの、もっとほしい、って」
間違ってるかしらと、かわいらしく小首まで傾げて投げかけられた問いに、間違ってないです、と。答える代わりに首に両腕を回し、距離を詰めた。
髪はもう、とっくの昔に乾いてしまっていた。
(あなたを、たくさん)
楓さんの表情を見ただけで思っていることがわかる川島さんと、そんな川島さんが大好きな楓さん。
2017.2.27