私の知らない貴女色。

 人違い、だと思った。  だってその横顔は、私が記憶しているものより随分とかけ離れていたから。  たとえばゆるやかなポニーテールを尻尾みたいに振って駆け寄ってくる姿だとか、たとえばまぶしい眸をさらに輝かせている表情だとか。椎名法子として浮かぶのはいつも、面倒くさいほどに明るくて溌剌としたものばかりだった。だからいまみたいに、凍らんばかりの冬空の下、ベンチでひとりぼんやり宙を見つめているその子がどうしても、私の知る椎名法子と同一人物とは思えなくて。  わずか数歩。たったそれだけの距離の先にいる、法子と思わしきその少女は、たたずむ私に気付く気配も見せない。普段であればどれだけ離れていても視界に入るやいなや犬みたいに近付いて、ときこさんときこさんとうるさく呼んでくるはずなのに。存在を見とめるのはいつだって、彼女の方だったはずなのに。  白い軌跡が立ちのぼる。景色にとけていこうとするそれを、まるで取り戻そうとでもいうように手が追いかけて、けれど途中で見失ってしまったみたいに落ちていく。膝の上の力無い手のひらを見つめるその眸が一体なにを映しているのか、果たしてなにかを捕まえたのか、こんなに近くにいるというのに、なにひとつ知り得なくて。 「──法子、」  知らないままでいるのは、嫌、だった。何故嫌だと感じてしまったのか、きっと豚の管理はきっちりしておきたかったからだ、と。妙に言い訳染みていることくらい、自分が一番わかっている。  名前を呼ばれた少女は勢いよく顔を上げ、視線を向けてくる、その見た目はやはり椎名法子に間違いなくて。ときこさん、と。ひとりごとのように落とされたその音は、聞き覚えのない色を持っていたけれど。  一歩、二歩、三歩。たった三回、靴音を響かせるだけで、見下ろせる位置にまで近付けた。眼下に見える相手は同じであるはずなのに、見上げてくるその子は揺れる眸をまたたかせる、まるで知らない少女の仕草みたいに。 「どきなさい」 「…え、」 「横にずれなさいと言っているの、聞こえなかった? 私のためにベンチをあたためていたんでしょう?」 「あ、え、うん、そう、そうだね、どうぞ」  やけに言葉を詰まらせる少女がようやく浮かべた笑顔さえぎこちない。これもまた、はじめて目にする表情。  慌てて移動した少女の右隣に腰を下ろす。よほど外気に冷やされていたのか、ベンチは少しもぬくもっていなかった。どれだけここで空を見上げていたのか、なんて。尋ねなくとも、哀れなほど紅に染まった頬と鼻頭が答えも同然だ。  私が隣にいるというのに、少女は俯いたまま口を開こうとしない。無駄なおしゃべりばかりを繰り出すそのくちびるが沈黙を作り出したことはなかった、いままでに一度だって。 「…馬鹿は風邪を引かないって言うけれど、なにも寒さを感じないわけじゃないでしょ」  自分から話題を切り出すのは、苦手だ。私では到底、笑顔なんて引き出せないとわかっているから。  法子はいつだって、どんな者にでも笑顔を与えている。彼女のたとえを借りるならそう、ドーナツの空洞部分。彼女を中心に、笑顔の輪が広がっているのだ。それがくだらない日常会話でも、興味もないドーナツの話題であったとしても、法子が口にすれば私の頬さえゆるませてしまう。彼女が見ている前でかどうかは別として。  けれど私は。私は、相手を威圧する言葉しか吐けない。優しい言葉がどんなものであるかが、わからない。これまでの人生で必要としてこなかったかr。あだというのにいまばかりは、尖った音を吐き出す自分に苛立ちが募る。かけたい言葉はそれではないのに、ならばどう話しかければいいのか、その答えがどうしたって出ないのだ。  少女の返事はない。あんまりにも気配がたどれないものだから、果たして本当に隣に座っているのかと横目で窺ってみれば、自身の足元からベンチに置いた私の指先へと視線を移していた。 「無視とはいい度胸ね」  違う、苛立ちをぶつけたいわけではないのに。  それに対してさえ返答のないまま、ときこさんはさ、と。また、ひとりごとみたいに。 「胸がぎゅ、って、苦しくなっちゃうこと、とか、」  不意に。左の薬指の先がやわらかさに包まれる。触れたものが外気と同じ温度であったから、それが少女の右手であることに気付くのが遅れてしまった。気安く触れないで、だとか、豚のくせに生意気な、だとか。そんな文句がいまは喉元にさえのぼらなくて、遠慮がちに伸ばされた指が、恐らく寒さとは別の震えを持っていたから、だと思う。 「だれかを触ったとき、心臓がばくばくしちゃうこと、とか、」  口を挟めないでいる私を、ようやく持ち上がった少女の眸が捉える。私が知らない、少女の色。水を張ったそれはどこか怯えているようにも、救いを求めているようにも見えて。 「──こうして見つめ合って、息がとまっちゃいそうになること、とか、ある?」  問いかけに合わせて空にのぼっていた軌跡が、消える。  きっと逸らしたいだろうにそれでもひたむきに見つめてくる視線から、いっそ逃れてしまいたかった。指を振り払って顔を背けて、全身で拒絶を示せばよかった。少女の指すその誰かが、分かってしまったから。私の知らない温度が、見たことのない眸が、聞いたことのない音が、教えてくれたから。  だというのにその透き通った眸にとかされたまま、動くことも声を発することもできなかった。椎名法子に浴びせる言葉は嫌というほど見つかるのに、見知らぬ少女に返す言葉はなにひとつ浮かんでこなくて。  薬指に力がこめられる、まるで返事を促すみたいに。 「…私、は、」  胸が苦しくなること、鼓動が速まること、息が止まってしまいそうなこと。そのすべてがいままさに私に襲いかかってきている。耳元にまで響く心拍が重なった指先から伝わってしまうのではないかと、息を呑みこむ音が届いてしまうのではないかと、そればかりが気がかりで。  少女が訴えかけてきたものと、私が感じているそれらは、果たして同じ名前なのだろうか。少しでも意識を逸らしたくて探してみるけれど、一向に答えらしきものが浮かんでくるはずもなくて。 「あ、そっか」  ふ、と。妙にあっけらかんとした声とともに指が離れていく。解放された薬指が途端に風を受け、意思に反して寂しく震えた。  少女はといえば晴れやかな笑顔を浮かべ、どこか納得したように何度も頷いている。そっかそっかと繰り返し、先ほどまで繋がっていた右手をもう片方の手で大切そうに包みこんで。 「これが恋、ってものなんだ!」  こい、こい、恋。  顔いっぱいに広がった表情はもう、私の知っている法子のものであるはずなのに、口にされた単語はあまりに似つかわしくなくて、変換するのにしばらく時間を要してしまった。恋、と。何度台詞を反復してみても、耳にしたのはたしかにそれで。胸が苦しくなること、鼓動が速まること、息が止まってしまいそうなこと。そのすべての現象をひっくるめて、少女は、恋であるのだと。名前を、つけて。  では、私は。ひとりきりになった薬指を、椎名法子に戻った少女をただ眸に収めるしかない私は。見つけてしまった胸の、痛みは。 「ねえ時子さん、そろそろ事務所にかえろ。こんなところにいたら風邪引いちゃうし!」 「ちょ、ちょっと待ちなさい、」  それまでの憂いた表情はどこへやら、すっかり元の調子を取り戻した法子は私の両手をぐいぐい惹き、無理やり立ち上がらせる。無遠慮に握られた手が、先ほどと打って変わって熱いほどの体温を与えてくる。それとも熱を上げているのは私の方だろうか、なんて。考えたくなくて、頬の熱さえ知らないふりをした。 「─…のり、こ」  口から出た名前は、知らない少女が洩らした音と同じ色、だった。 (けれど薬指はもう、さみしくなくて)
 恋に気付いた少女と恋に気付かされた彼女と、  2017.1.15