きっとなにより甘い、あなたの、

 おいしそう、だったんだ、すごく。 「法子」  いつもは風になびかせている髪を、あたしみたいにひとまとめにして高い位置で結んで。  腕を勢いよく振り上げるたび、足がダンスフロアの床を鳴らすたび、動きに遅れてついていって。 「法子、」  見え隠れするそこが、照明をめいっぱい浴びてきらきらと、まるで砂糖をたくさんまぶしたドーナツみたいで、 「おい、法子!」  呼ばれた名前に急いで隣を見れば、体操座りを崩した晴ちゃんがじとりとあたしを見つめていた。胸のずっと深くまで探ってくるような視線から逃げたくて、顔の前で両手を振る。 「ちがうよ! かっこいいなって、そう思ってただけだからね!」 「まだなにも言ってねえよ」  晴ちゃんはため息を、あたしは安堵の息をそれぞれ洩らす。晴ちゃんの夕闇に似た眸はもうあたしではなく、響く曲に合わせ踊っている時子さんに向いていた。  他のアイドルのレッスンを見て勉強するといい、って言ったのはプロデューサー。三ヶ月後に控えたイベントの特別企画としてペアを組むことになった晴ちゃんと息を合わせるために、そしてなにより自分自身を伸ばすために、とかなんとか。  その助言に従って、あたしたちの前にダンスレッスンを受けることになっていた時子さんに、見学させてほしいとお願いしてみたらあっさりオッケー。てっきり断られると思っていたから、いまこうしてダンスフロアの隅っこで時子さんの練習を見ている状況が信じられなかった。  晴ちゃんを追って視線はまた、中心へ。  時子さんの細い右腕がしなやかに上がり、輪郭をたどるように落ちて。そうしてターンするのと同時、ポニーテールがふわりと浮いて、ほら、また、そのことしか考えられなくなっちゃう。 「やっぱ綺麗だよな、時子のダンス」 「…うん、すごく」  きっともう、あたしと晴ちゃんは同じところを見てはいない。それがわかってしまって、せめて知られてしまわないよう顔を膝の間にうずめた。  どうしちゃったんだろう、あたし。いっぱい動けるようにお昼ごはんはたくさん食べてきたのに。甘いものだって、いまはドーナツしか欲しくないはずなのに。頭の中がぐるぐる回ってるみたい。いろんな言い訳が浮かんでは消えて、結局たどり着いたのは時子さんの、 「──法子」  晴ちゃんよりも低くて鋭い声が、ぐちゃぐちゃになりそうなあたしの意識を引き上げた。あごをすくい取られた錯覚に、顔を上げる。気付けばフロアいっぱいの音楽は止まっていた。  名前を呼んだその人は、あたしめがけてまっすぐ歩いてくる。時子さんが自分から近付いてきてくれることは少ないから、いつものあたしだったら喜ぶはずなのに、こないで、と。叫びそうになった口を慌てて押さえた。この反応はあんまりよくなかったみたい、だって時子さんの細い眉が寄っていってしまったから。  隣の晴ちゃんが興奮ぎみに感想を伝えて、すぐに表情を戻した時子さんは当然よと返して。 「レッスンの後。空けておきなさい」  その言葉は間違いなく、あたしに向けられていて。  ばれてしまったんだ、きっと。あたしの隠した気持ちが、あたしの視線の先が。あたしが、 「─…うん、」  時子さんのうなじを、たべてしまいたい、なんて。  ***  事務所内の自動販売機の前。そこが待ち合わせ場所だった。  晴ちゃんと別れてすぐ、走って向かえば、目的の人はソファに身体を沈めて本を掲げていた。一本だったはずの髪はとっくに下ろされていて、髪留めの跡ひとつ残らないまま左肩に流れている。いつもは背中に垂らしているのにどうして今日に限って、なんていう問いは届かない。  あたしの切らした息づかいに気付いたのか、顔を上げて、早かったわね、と。 「ちゃんと水分補給したの、あなた」  差し出されたのはスポーツドリンク。なんであたしが今日、たまたま飲み物を忘れていたことを知っているんだろう。いや、きっと知るはずもないんだけど。 「私の隣に座ることを許可してあげるわ、特別にね」  そう言って時子さんは、空いている右隣をあごで示す。促されるままおずおずと腰を下ろして、ペットボトルの中身をのどに流しこんで。さわやかな冷たさが口いっぱいに広がって、突かれた全身に染み渡っていく感覚。  なんだか今日の時子さんはやさしい、やさしすぎる。いつもだったら自分の隣になんて絶対座らせてくれないし、ライブ以外での差し入れはもらったことがない。第一、こうしてあたしを舞っていてくれたことなんて一度もないのに。  中身を半分ほど空にしたところで息をつき、静かな隣に視線を移す。目に入ったのはいつもより近い時子さんの綺麗な顔と、しゅっと細いあごと、そしてさらされたまっしろな首に、鎖骨に、 「ねえ、法子」 「はっ、はいっ!」  突然の呼びかけに飛び出した敬語と、裏返った声。すぐそばにある眉が、見覚えのあるふうに寄っていってしまう。  あんまりにも失礼な態度だってことは、自分が一番わかってる。だけど、そんなあたしが一番動揺しているんだから仕方がない。だめだって思ってもいつの間にか視線は、目の前の無防備な首元を映してしまう。おいしそうだとか、きっと甘いんだろうアンとか。人にいだくべきではない期待ばかりがふくらんでしまう。  あたしは一体どうしちゃったんだろう、いま、こんなにも、時子さんをたべてしまいたい。 「なにか私に、言いたいことでもあるのかしら」 「いいたい、こと」 「挙動が不自然すぎることは、自分でもわかっているでしょ」 「そんな、あたし、」  ぐい、と。顔がまぶしい白が、距離を縮めてくる。ちょっと身体を寄せればくちびるが触れてしまうところに、時子さんの首筋があって思わず、のどを鳴らした、ごくりと。  もしかすると今日の時子さんなら許してくれるかもしれない、そんな気がした。こんなに接し方がやわらかいんだから、ほんの少しだけ味見させてもらうくらいなら、仕方ないわねって言ってくれるかもしれない。あたしのこの、大きくなりすぎた期待を伝えれば。 「あの、ね、」  ちらり、首筋に視線を這わせて。くちびるを寄せる自分を想像して、胸の奥が小さく震える。 「─…ええ、っと。今日、は、ありがとう、…見せてくれて」 「……それだけ?」 「そう、それだけ、あはは」  眸を、逸らした、気付かれないよう少しだけ。時子さんは勘が鋭いから、そんなことでは誤魔化せないんだろうけど。  しばらく言葉を発さなかった時子さんは、やがて長いため息をついた、ああそう、と。あんまり興味のないふうに。ひとまずお咎めはないみたいで、あたしも安心だ。時子さんと別れてひと晩ぐっすり寝れば、明日にはこの気持ちもすっかり忘れ、ドーナツが大好きないつものあたしに戻ってるだろうから。  もう帰りましょ、そう立ち上がり目の前を通りすぎた時子さんに続いて慌てて腰を上げる。かばんを背負い直して、ぴんと伸びた背中を追いかけて。  暖房の風にあおられた髪が浮かぶ、ふわり、ゆっくりと流れて。  また覗いたうなじから視線が離せない、だってあたしはやっぱり、 「──ときこ、さん、」  いつかあなたをたべてしまいたいの。 (なんて、言えるはずもないけど)
 時子さんをたべてしまいたい法子ちゃん。  2017.1.18