花吐き乙女はかく語りき。
"それ"は唐突に襲い来る。
ぐぐ、と。胃からなにかがせり上がってくる。胃液とも吐物とも違うその感覚を、私はもう、嫌というほど体験していた。喉を押し広げ外界に出ようとするそれをなんとか呑みこみ、口を押さえる。こんなところで吐き出すわけにはいかない、この病は絶対他人に──あの子に、知られてはならないから。
ふ、と。顔を上げてしまったのは無意識。あの子の姿を遠くに捉えたと同時、なりを潜めたはずの吐き気がまたこみ上げてきた。こんなに距離が空いているのに。その事実は、たしかな症状の悪化を伝えていた。
世界がそのかたちを無くしていく。自分自身の身体であるはずなのに、私の意思に反して喉を、呼吸を、視界を、圧迫する。浅い呼吸を繰り返すなんていう豚みたいな真似をしなくてはならないなんてと、考える余裕さえすぐに散っていってしまう。ああほら、私を見とめたあの子がお節介にも近付いてくる。きっと要らない心配でもしているのだろう、歪みゆく視界に映ったその表情にはいつもの無駄な明るさはなくて。早く離れなくては。逃げるなどという真似はしたくないけれど、無様な姿を晒すよりはよほどましに思えた。立ち上がり踵を返して早く、はやくどこかへ、あの子のいないところへ、
「──時子さん、」
声が、落ちてきた。
***
はじめてその症状が現れたのは、もう半年も前のことだった。
「はい、時子さんのぶん!」
「…はぁ?」
低く反応を示してみせても、面倒なほど明るい笑顔は変わらぬまま。差し出されたそれと表情とを見比べ、眉間に皺を寄せる。
「これはなに」
「ん? ドーナツだよ」
「そうじゃなくて。なんの真似かって訊いてるのよ」
法子の大好物がドーナツということはもはや周知の事実だった。三度の飯よりドーナツとは彼女の言葉で、見かけるたびに砂糖をまぶしたそれを携えている。大勢に勧めているそれはもちろん、私の前に幾度となく差し出されたけれど、その都度拒否してきた、極彩色のそれを口に含む気になれないと。
だというのにこの子は今日も、しぶとく目の前にかざしてくる。甘さ控えめだからだとか、いつもより小さいものだからだとかと迫ってきて。他の誰かに擦りつけようにも事務所内には運悪く私と法子だけであるし、今回は何故かなかなか折れる気配を見せないし、なによりもう言葉を重ねるのも面倒だ。
半ば奪うように受け取った途端、ぱあと眸を輝かせる。文句のひとつでも投げてやろうと思っていたのに、そんな明らかに嬉しそうな表情を前にしてはさすがの私も言葉を呑みこむしかなかった。
手近のソファに腰かければ、後を追うように隣に座ってくる。許可した覚えはないけれど、それよりも指先を汚すこの極彩色を早く食べてしまわなければ。
口元に運び、ひとくち。じゃり、と砂糖が音を立て、鼻につくほどの甘さを運んでくる。甘さ控えめ、だなんて、どこが控えめだというのか。塗りこめられた砂糖も、染みついた油も、普段法子が食べているそれとなんら変わりがないように思えた。
「ねえ、おいしい? おいしい?」
「まずくはないわ」
それでも小さいということだけは本当のようで、あっという間にかたちが無くなったいま、口の中の甘ったるさと指先の砂糖だけが残された。せめて紙ナプキンで掴んでおくべきだったと、数分前の自分に舌打ちをひとつ。先ほどまでドーナツをつまんでいた左手を伸ばす、紙ナプキンを渡しなさいと、その意味をこめて。
それまでドーナツを食す私をにこにこと見つめていた法子は、差し出した手にまたたきを繰り返す。指先と私の顔に交互に注ぐ視線はどこか、窺っているように見えて。
いつまで経っても動こうとしない彼女に苛立ちが増す。ただでさえ気乗りしないドーナツを食べた後だから、余計に気が立ってしまいそうだった。
「愚図は嫌いよ、早く、」
急かしたところへ、なまあたたかさが左手の指先を包みこむ。理解できなくてまたたきをひとつ、ふたつ。
法子が、私の指を、口に含んでいた。
まるで食べきったアイスの棒を舐めているみたいに、おずおずと舌を這わせ、指先に吸いつき、爪の間に入りこんだ砂糖をも呑みこむように。軽く食まれて、瞬間、電流にも似た刺激が指先から全身へと伝播していく。背筋を駆け抜けたそれに身体を震わせて。ちろり、指を含んだまま見上げてきた彼女の眸が、見たことのない色に映って。
「っ、あ、ご、ごめんなさい! あの、そんなつもりじゃなくてえっと、お砂糖! もったいないなって、思って…」
我に返ったように離れた法子は顔の前で両手を振りながら言い訳を重ねていく。その声も徐々に勢いを失くし、遂には俯いた。
おいしそうに見えたのだと、法子は呟く、たべてしまいたくなったのだと。時子さんの指を見ていたら我慢できなくなっちゃって、いけないことだってわかってるんだけど止められなくて、と。
落とされていく言葉たちをせき止めたかった、いますぐにでもその口を塞いで、でないと思い出してしまうから、指の付け根を舐める舌の感触を、指先を包んだぬくもりを、やわく立てられた歯を。
「えっと、…時子、さん?」
ぶわ、と、全身が逆立っていく。
足先から這い上がってきたそれが寒気のように身体を襲い、心臓を締めつける、ぎゅ、と。あまりの気持ちの悪さに体勢を保っていられなくて、その場で背を丸めた。突然体調を崩したふうの私に戸惑ったように、法子が声をかけてくる。その音を合図と言わんばかりに、異物感が胃から喉へとせり上がってきた。
ああきっと、先ほど口にしたドーナツのせいだ、慣れないものなんて食べるから。少しでも意識を逸らそうと、胃の中へと消えていった砂糖と油の塊に恨みをぶつけるけれど、そういった類のものでないことにはうっすら気付いていた。
「時子さんっ、ねえ、気持ち悪いの?」
声をかけないで、背中をさすらないで、名前を呼ばないで。そのどれもが言葉になってくれなくて。口を開けばすぐにでも、"それ"が顔を覗かせてしまいそうで。
どうにか法子を押しのけ、部屋の外へと駆け出していく。時子さん、と。部屋にひとり取り残した少女の切羽詰まった声が追いかけてくるも振り返れるはずがなかった。泣き出す手前みたいに、喉がえずき始める。限界が近い、早く、はやく、あの子に見つからない場所へ。
結局トイレしか行き場がなく、個室に鍵をかけしゃがみこむ。
「うぐ、っ、ぁ、」
途端、堪えていた"それ"があふれた。
極彩色の、花弁たち。見紛うことなく花であるそれらが手のひらを満たし、すべてを受け止めきれなくてはらりはらりとこぼれていく。おおよそ人の口から出るはずのないものが、えずくたび、心臓が震えるたび、吐き出されていく、ぱらぱらと。
個室に広がる花の香りが、胃に収めたはずの甘さを上書きしていく。砂糖の甘さも、指先に触れた感覚もなにもかもが匂いと眩暈にさらわれおぼろになった頃には、嘔吐は治まっていた。思わずその場にへたりこめた、床いっぱいに散らばった花弁がかさりと音を立て、存在を主張する、幻なんかではないのだと、これはたしかに私の口から現れたものなのだと。
「─…うそ、よ、」
この病の名を、私は知っていた。
***
『嘔吐中枢系花被性疾患、通称花吐き病。口から花を吐き出す奇病で、根本的な治療法は未だ見つかっていない』
大学の図書館で借りた本から探し得た情報はこれだけ。そのどれもがすでに広く知られたものだったから、新しく得られた情報は皆無だった。
私が知りたかったのは治療法と、花を吐く原因。けれどどんな書物を漁ってみても、同じ文面が示されるばかり。
「…チッ」
閉じた本を乱雑に放り、ソファに身体を沈めた。
花を吐き出す原因は、片想いの拗れ、だと。私が一体、誰に想いを寄せているというのか。思考を巡らせても、浮かぶのはたったひとりしかいなくて、苦々しくくちびるを噛み締める。あの子を他の者より好意的に想っているのはたしかだけれど、あくまで同僚としてだ。それはすり寄ってくる小動物を愛玩する行為にも似ている。だというのに、どうして。どうして私は、両手ですくい取れないほどの花を吐いてしまったのか。
ソファに背を預け、見慣れた家の天井を見つめる。
あの日以来、法子とは顔を合わせていなかった。もしまたもう一度同じ症状が起こってしまったら、今度こそ絶え切れない。法子に知られてしまうことだけは避けなければならない、私自身に理解できないことを、あの子が受け入れられるはずないのだから。
その代わり、というわけでもないけれど、毎日欠かさずメールが送られてくる。最初の一日は機嫌を窺うように。謝罪のあふれた文面には、突拍子もない行動で私を怒らせたのではないかと、そんな気持ちがこめられていて。怒ったわけではないから気にしないで、とだけ返せば、それからというもの毎日同じ時間に届くようになったのだ。あの子が綴る文章は、話しかけてくる時のそれのように無駄に元気に満ち、生き生きとしていた。
あんまりにもおかしくて、どこか微笑ましくて。そうして送信しようと彼女の名前を打つといつも、花たちが現れる。本来それを通すようにはできていない喉を無理にこじ開け、はらはらと、またたく間に床を彩っていく。かといって返信もせず放っておけば、それ以上の花が落ちて止まらなくなってしまう。
どうしてアドレスなど教えてしまったのか、そうは思う者の後の祭り。今更メールを送るなと言ったところであの法子のことだ、心配して見舞いにでも来てしまうかもしれない。
そして今夜も携帯電話が震える、通知画面を見ずとも相手はわかっていた。
綴られていたのは今日の仕事のこと、ユニットを組んでいる子たちのこと、それから、私の心配。もうドーナツを食べてほしいなんて駄々をこねないからただ、会いたいのだと、毎日、毎日。彼女らしい文面に吐き気がこみ上げて、もう見慣れたそれらをひとり、あふれさせていく。
ノルマのように吐き出し終えた花を抱え、ベランダへと足を運ぶ。病が発症した頃から季節は移り、気付けば夜風に身を震わせる時期になっていた。吹き抜けていく風に飛ばされないようしゃがみこみ、腕いっぱいの花をばら撒く。色とりどりのそれらは毎回、私の目を潰そうとする。それらはどこか、あの子がいつもおいしそうに食べているドーナツのようで。
頭を振り、思考を逃がす。あの子のことを考えればまた、花が増えてしまうから。
灯したライターを近付ければ、一瞬のうちに燃え広がり、そうして跡形もなく花たちは燃えていく、まるではじめからそこに存在していなかったかのように。
『もう、会えないかもしれないわ』
画面に、たった一言、打ちこんでいく。
花吐き病は感染力が高い。吐き出したその花に触れるだけで感染し、自身が胸に秘めた想いを強くするだけで発症してしまうのだ。もし目の前で吐いた花に、あの子が触れてしまったら。法子に、いつだって眩しいばかりの笑顔を向けてくれるあの子に、同じ苦しみを味わわせるわけにはいかないから。想いが必ず報われるとは限らないのだから。
会えるわけ、なかった、もう、二度と。
それでもメールを拒否することも、アドレスを消すこともできない馬鹿な私は、打った一文を今日も送ることができず消去した。
***
「──時子さん、」
はじめて花を吐いたあの日も、呼ばれた名前が引き金だったと、ぐらぐら揺れる頭が思ったのはそんなこと。
廊下を曲がって、最初に視界に入ったのは揺れるポニーテール。
レッスン室の前に佇んでいた彼女は、立ち止まった靴音を聞きつけたのか顔を上げ、私を捉えて。きっと私のレッスン予定を調べ上げ、待ち伏せていたのだろう。きらきら輝いた眸が、それを物語っていた。けれど私に叱責する余裕も、逃げ出せる暇もなく。
倒れてしまいそうなほどの吐き気が襲いかかる。立っていられなくて早々に膝をつき、口元を押さえた。まぶたを閉ざして、音を遮断して、そうすればやり過ごせるから。
だというのに、間抜けな私はつい、視線を持ち上げてしまった。久しぶりに目にしたあの子をもう一度、視界に収めたかったのかもしれない。あるいは表情を窺いたかったのかもしれない。どちらの理由にせよ、無意識に顔を上げたのは失敗だった。
青ざめた法子が駆け寄ってくる、名前を落としながら、手が伸びる、その瞬間。
花が、花たちが、あふれた。
我慢しようと口を塞ぐも後から後から押し寄せ、すぐに口内をいっぱいにして呼吸を圧迫してくるものだからそれも叶わない。ただひたすら、目に刺さる色合いの花を吐き出していくばかり。
「とき、こ、さん…?」
「っ、みな、い、っ、で、」
みないで、ふれないで、どこかへいって。そのどれもが、あふれ出てくる花に遮られてかたちになってくれない。
心が、想いが、はがれ落ちていくようだった。あれほど隠していたのに、見えないように、知られないように、自分ひとりで抱えていくと決めていたのに。こうして彼女の前で吐き出しているものが花なのか涙なのか心なのか、わからない、私はどうして、ここまで拗らせてしまったのか、どうして想いを溜めてしまったのか、なにひとつ。
法子が極彩色へと手を伸ばす、それを止める術さえ、いまの私は持ち合わせていなくて。
すくい取った手のひらいっぱいの花弁を見つめ、それから私に視線を向けてくる。彼女だってきっと、この病を知っているだろうに。すぐに感染して、私みたいになってしまうことを、知らないはずがないのに。
「のり、こ、」
なにより、見たくなかった、彼女が誰かを思って花を吐き出す姿を。私以外の誰かに心を痛めて色を散らすその様を。なんて私らしい身勝手な理由。想われないことははじめからわかっているから、せめてこの子の花の色など目にしたくないと。それくらいの願い、叶ってくれてもいいはずなのに。
心臓が握り締められたような痛みを覚える。花を吐き続けた者の末路はどの本にも記されていなかったけれど、きっとみんな、消えていってしまったのだろう、昨夜燃やした花たちみたいに。見えないふりをしてきた想いをあふれさせて、届かない相手の目に触れて。いっそ消えることができるのなら、どんなにか楽だろうかと。
法子がおもむろに口を押さえて、苦しそうに咳きこむ。
ほら、やっぱり。少女の色を見てしまう前に早く、はやく私という存在を散らして。願いを唱え眸を隠し、止まらない花を吐き続けて。
「ねえ、時子さん、」
名前を呼ばないで、
「時子さん、見て、」
私の心を見ないで。
「時子さん、ほら、みてよ」
たったひとつの切実な願いさえ叶わなくて、それでも声に促されるまま、視界を開いて。
最初に映ったのは透き通るような白銀。抱えた彼女の手のひらさえ透けて見えてしまうほどのそれはたしかに、百合の花のかたちをしていて。
本にはたしか、こんな一文もあった。治療法は見つかっていないが、両想いになれば完治するのだと。その時に吐き出す百合の花の色は、
「時子さん」
法子が紡ぐ、ときこさん、と、私の名前を落として。
「これがあたしの想い、時子さんへの、心、だよ」
会いたかったのだと、彼女はこぼす、誰よりも会いたかったのだと。指を舐め取ったあの時も、メールを送り続けた日々も、私の吐いた花たちを目にしたいまこの瞬間も、想いは同じなのだと。
「すきだから。──時子さんのこと、あたし、だいすきだから!」
まっすぐすぎる心が私のそれに刺さって、ぎゅ、と締めつけてくる。もう一度、喉が圧迫され、堪えることもできずまた吐き出したそれは、彼女と同じ、まっさらな銀色の百合だった。なんの色も持たない一輪の花は、最後に残った私の純粋な想いにも見えて。
顔を上げれば、私を映した眸と視線が絡む。涙さえにじませた眸が揺らぐ、私の姿をとかしこんだまま。
見られてもよかった、隠し通さなくてもよかった、だってこの子は受け止めてくれたから。私の歪んだ想いをこんなにもまっさらな色に変えてくれたから。
極彩色は見えない、もうどこにも。
「──わたし、も、」
痛みはない、もう、どこにも。
(この白銀の百合が、なによりも正直な私の心だったから)
素直な心のありか。
2017.1.23