これからたくさん、愛を紡いで。
随分と急ぎ足な春だった。
まだ肌寒さが残っている季節だというのに、その並木道は薄桃の春色で彩られていた。いつも車での移動だったから気付かなかったけれど、まさかこんな場所があっただなんて。今日という日に相応しいわね、だなんて、柄にもないことをひとつ。
風に舞う花弁に背中を押され、足を速める。
水曜の朝は、情報番組のとあるコーナーを任されていた。『時子様のお叱り部屋』なんていうふざけた名前だけれど、要は視聴者の悩みにアドバイスするだけのものだ。これがなにやら好評のようで、来年度も継続することが既に決定している。番組のプロデューサー曰く、ばっさり切り捨てながらも的確なアドバイスが人気なのだとかなんとか。
別に彼や視聴者にどう評価されようが気にすることではないけれど、これで毎週時子さんが見れるんだねと、あの子が嬉しそうに笑うから。続ける理由なんて、たったそれだけでよかった。
そういえば今朝のコーナーに送られてきた悩みにこんなものがあった。
『あたしの大切な人が今日来てくれるかどうか不安です、時子さん、そんなあたしに一言お願いします!』なんて。それはまるで、あの子が送ってきたみたいで。あの子はきっとこんな文面を書くのだろうなと、難くない想像を浮かべるだけで、我知らず微笑みがのぼってきてしまって。
時子様とお呼び、と前置きをひとつ、カメラの向こう側を見つめて。『約束を守らないような人が、あなたの大切な人なのかしら?』それで充分だった。水曜だけは欠かさず見ているのだという律儀なあの子にも、きっと。
そうして収録を終え、車を出そうかと声をかけてきた豚、もといプロデューサーの提案を断り、そのままの足で目的の地へと向かっている。そこそこ顔が売れているのに、車で横付けしようものなら余計目立ってしまう。今日は私が主役ではないのだから。歩くにしては少しばかり距離があるけれど、こうして知らない春に出逢えたのだから良しとしよう。
朝と呼ぶには遅い時間帯だからか、行き過ぎる人はまばらだ。腕時計で時間を確認し、地面を打つ間隔を短くしていく。私から迎えに行くのは、これで最後。だってこれまでずっと待っていたから。
六年、だ。あの子とはじめて出逢ってもう六度目の季節が訪れようとしていた。
それまで他人との間に敷いていた一定の距離を易々と飛び越えてきたあの子の、砂糖をまぶしたみたいにきらきら光る眸に見つめられ続けて。まっすぐ向けられる想いなんて、どうせ少女期によくある一過性のものだと誤魔化し続けて。
それでも好きだと食い下がるあの子にひとつの条件を出した、高校を卒業するまで待ちなさい、と。待ちきれないのは誰であろう私であるというのに、釘を刺すことで自らを戒めた、あの子はまだ、ほんの子供だったから。
六年という時間は、あの子がアイドルの道を進んでいくには充分すぎた。はじめて曲を歌えるのだと喜んでいたあの日が遠い昔に思えるほどに私の部屋に並ぶCDが増え、ラジオにテレビにライブにと精力的に活動の幅を広めている。この一年は大学受験の為に活動を少し抑えていたみたいだけれど、五月からは新曲を引き連れたライブツアーだって控えているのだ。
私の方も漫然と過ごしていたわけではなく、レギュラー番組は増えコマーシャルの契約も数多く結んでいる。暇つぶしに始めたアイドルではあるけれど、それでも、あの子が憧れた私でい続けられるようにと。
けれどこれからは──今日からは、あの子の前を歩くのではなく、あの子と、
「─…急がなくちゃ」
先をえがくのは後回しだ。もう一度時計に視線を送り、ヒールも構わず駆けた。
***
この校舎からは二種類の桜が見える。校門の外の並木道に植えられた早咲きの桜と、学校内の桜。まだ蕾さえ実っていない学校の桜の代わりに、外は満開の春だった。
お花見したいねと、いつだか誘ってみたら、まだ春には早いでしょ、なんて返したその人はきっと、この急ぎ足な春を知らない。もし今日、来てくれたら教えてあげよう、もう一緒にお花見できるんだよ、って。
そう、今日は卒業式だった。だったというのはつまり、長い長い式が無事終了したというわけで。
教室に戻った生徒たちがひとりずつ言葉を述べて、証書の入った筒を片手に立ち上がり、このクラス最後の礼。笑顔だったり泣き顔だったりとそれぞれの表情を浮かべているクラスメイトとは昨日までにたくさん話をしておいたから、もう思い残すことはなにもなかった。
六年、だ。あの人と出逢ってもう六回目の季節がやって来ていた。
おいしいおいしいドーナツを食べたときみたいな、あの日の衝撃をいまでも覚えている。笑顔が不器用で、放つ言葉が少しとがっていて、でも誰よりもやさしい人。誰よりも、あたしを見てくれている人。
すきですって、感情をそのまま口にするのは簡単で、伝えるのは難しくて。なかなか信じてくれないその人は条件を出した、高校を卒業するまで待ちなさい、と。それはつまり、卒業すればようやく隣を歩いてもいいってことで。いままで追いかけ続けていた背中に触れて、手を取って、すきだよって、たくさんたくさん音にしてもいいってことで。
この日のために、あたしはいっぱい頑張ってきた。毎週水曜日の朝、あの人のコーナーを見るたびに、あたしなんてまだまだだなって思うけど、それでもいつか並び立っても恥ずかしくないくらいになろうと。
その頑張りが報われたのか、五月からのツアーをふたりで回れることになった。六年間アイドルとして過ごしてきて、はじめてのユニット。隣に立つことをやっと許されたような気がして、その決定を聞いたときは思わず手を握って喜びそうになったけど、まだだめよと相変わらずかたい反応。
だけどそのほっぺが少しだけやわらかく見えたのは、あたしの気のせいではないはず。嬉しいのはあたしだけじゃないんだって、この人もきっと、あたしのことを。
そう思うといても立ってもいられなくなって、かばんを背負い教室をそっと抜け出す。
六年も待ったんだ、ここから校門までなんて大したことない、と。そんなふうに考えられるはずもなくて、廊下は―、階段は一段飛ばしで駆け下りていく。
果たして本当に来てくれているのか、そもそも今日の約束を覚えてくれているのか──あたしらしくない不安は大きくふくらんでいくばかり。だけど今朝、毎週欠かさず見ているあの番組で、あたしの悩みを読み上げたコーナーの主はだいすきな表情で言った。約束を守らないような人が、あなたの大切な人なのかしら、と。自惚れてもいいのなら、あれはきっと、あたしに向けてくれた言葉だ。
いろんなお仕事を抱えて忙しいはずのあの人が、あたしのためだけに時間を割いてくれるなんて。六年前では考えられなかったけど、今日ならきっと。
祈りをこめて最後の一段を飛び降りる。靴を履き替えるのもそこそこに、陽射しのまぶしい外へと駆けて。
「──法子、」
ざあ、と、舞った花弁が一瞬、あたしの視界を遮る。
風に乗って届いた声はよく知った音。促されるみたいに目を開けば、門のすぐそばに佇んでいた。目的の人が、あたしが今日までずっとずっと想っていたその人が。
「ときこ、さん、」
まだうんと距離はあるはずなのに、どうして声が届いたんだろう。そんなのんびりした疑問を首を傾げて解き明かそうとするあたしを見とめた時子さんがふと、あのやわらかな微笑みを浮かべて。両手を伸ばす、まるであたしを待っているみたいに。
高校を卒業するまで待ちなさい、なんて。あの日の言葉が唐突に蘇る。早く時間が経たないものか、早く大人になれないものかと待ち望んでいたけど、それはきっと、時子さんも同じだったんだ。時子さんも、早くあたしが大人になりますようにって、そう願ってくれていたんだと、あの笑顔を見て、なぜだかそう確信できた。待っていたのは、あたしだけじゃなかった。
足が自然とまた動き出して、いままでのどんなときよりも早く、はやく。距離がぐんぐん近付いて、時子さんがにじむ、うれしくて、いとおしくて、だいすきで。
「時子さん!」
はじめて抱きついた身体は、勢いづいたあたしをあたたかく受け止めてくれた。ぎゅうと抱きしめるあたしの背中におそるおそる、でもたしかに腕が回される。
これからはもう、この背中を追いかけるばかりじゃない。触れて、手を取って、一緒に歩いて。それからだいすきだよって、たくさんたくさん、伝えるの。恥ずかしがり屋なこの人はそっぽを向いて静かにしなさいなんて口をとがらせるかもしれないけど、それでもあたしは何度だって言うんだ、だってあたしは、時子さんのことが世界でいちばん、
「卒業おめでとう、法子」
「ありがとう時子さん! だいすきだよ!」
「─…ええ、私も、」
間近に感じた時子さんは、春のにおいがした。
(世界でいちばん、だいすきだから)
2017年3月、椎名法子18歳の春。
2017.3.24