あなたの手でこがして。

 のびのびと、草原を駆け抜ける姿に心が奪われる。  幼少の頃とまったく変わらない太陽のような笑顔を、影の存在であるはずの私に向けて。思わず頬が綻んでしまっていることくらい、水面を覗きこまなくたって分かっている。笑みなんてもう浮かぶことはないと思っていたけれど、少女はいとも簡単に引き出してしまう。奥底に仕舞って見えないふりをしていた感情を、表情を、私の知り得ないなにもかもを掻っ攫っていってしまう。感じるのは戸惑いと、それを上回るほどの喜び。少女と同じ世界に触れているのだという事実にいつも、心が震える。  或いは少女もまた翼を持っているのではないか、と。行き着く結果はいつもそこだ。私の漆黒の翼よりももっと大きく、自由な翼。何者にももがれることのない、純白の翼を携え、世界を自由に飛び回っているのではないか、と。 「ね、マレフィセント!」  鈴が跳ねるような軽やかな声が落ちてくる。いつの間に近付いてきていたのだろうか、両膝に手を突いた少女が大木の根元に腰を下ろす私の顔を覗いていた。  太陽が重なる。眩しさにつと目をすがめれば、ごめんなさいと謝罪を一言、すぐ隣に気配が降ってきた。  マレフィセント、だなんて。さっきの元気の良さに甘さまで含んで、名前をもう一度。その音で発せられる名前にはいまだに慣れない。それは少女も同じようで、私の名前を紡ぐたびにほんのりと頬を染め、なんだか恥ずかしいわとはにかむのだ。恥ずかしいのならば今まで通りゴッドマザーでもいいのに、頑なに譲ろうとしない。曰く、せっかく知ったんだからちゃんと名前で呼びたいの、だそうだ。そう言われてしまえば無理に止めさせることなど出来なくて、若干の気恥ずかしさを覚えつつも律儀に返事だけはしている。  なあにみにくい子。  染み付いた応答に、なぜだか少女は笑顔を深める。 「昨日のお話の続き、してちょうだい」  お伽噺をねだる幼子のように、輝かせた眸を寄せてきて。  少女はどうやら私の面白くもない話がお好みのようだった。例えばこの国の歴史だとか、妖精の種類だとか、私の過去であったりだとか。なんとも退屈な話を興味津々に聞き入ってくれるものだから、饒舌とは言い難い私もついつい口に乗せてしまう。  今日もいつもの流れなのだろう、語り聞かせているうちにきっと陽が沈んでしまうのだ。少女が十六になる前ならば、太陽が姿を隠すよりも先にあの古びた小屋に帰していたけれど、呪いが解けた今はその必要もない。同じ場所へ連れ立って帰り、夢を共にする。まだ話し足りないわと寝かせてくれない日も多いけれど。 「なんの話をしていたかしら」 「ええと、妖精が嫌いなもの、だったわ」  あごに手を添え、記憶を辿るその仕草に目を留める。尋ねなくたって覚えていたことに、少女は気付いていないはず。 「嫌いなもの…と言っても、妖精によって様々だけれど、そうね、苦手なものなら共通しているわ」 「苦手なもの」 「鉄よ。私たち妖精は鉄に触れることが出来ないの。やけどしてしまうから」 「鉄」  確認するように単語を転がして、少女はふうむと腕を組んだ。なら鉄製の指輪ははめられないのね、などとこぼされた意味の分からない呟きよりも、かわいい顔に不似合いなその恰好に笑い出してしまいそうになる。  自然な流れで口元を覆ったはずなのに、目聡く見つけた少女はむうと頬をふくらませた。拗ねたような表情もまたかわいらしさを引き立てているということを自覚しているのかいないのか、恐らくは後者だろう。 「いま笑ったでしょ」 「いいえ、あなたの錯覚よ」 「うそ。その証拠にほら、」  立ち上がった少女が陽の光を遮る。口元に当てていた手をやんわりと掴んで、それからおもむろに指を重ねて、組み合わせた。昔からなかなかにボディタッチの多い子だとは思っていたけれど、成長するにつれ回数が増えたのは気のせいだろうか。嫌かと問われればそうではないけれど。  空をそのままとかしこんだかのような眸に映りこんだ私はもう笑ってはいなくて、代わりに見惚れてでもいるみたいに動きを止めてしまっていた。  ねえマレフィセント、と。ひそやかに向けられた名前にはただただ甘やかさしか混ざっていなくて。  もう片方の手のひらが私の頬を包みこむ。ふうわりと、私の知らない大人びた笑みを浮かべて、 「わたしが触っても、やけどしちゃう?」  ああ、この少女はなんてずるい子に育ってしまったのだろう。知っているくせに、分かっているくせに、それでも私の言葉を求めるだなんて。きっとあの三人の妖精が育て方を間違えたのね、などと恨みをぶつけても後の祭りもいいところ。  近付いてくる空の色に答えを返すことも出来なくて、そのうちこつりと額が合わさる。  眸が隠れて、現れて。 「わたしはね、もうずっと小さいころから、大やけどを負っていたみたいなの」  あなたにこがされてしまってたみたいなの、マレフィセント、だなんて。  言葉を先に取られて他になにも思いつかなくなってしまった私はただ、やけどしたみたいに頬が熱を持ったことを認める以外になかった。 (ああ、なんて小憎たらしく育ってしまったの)
 マレ様がかっこよすぎました。  2014.7.7