わたしのねむりひめ。
足が触れる先から花が綻んで、息をはき出せば木々が色づいて、くるりとターンすれば花弁が勢いよく舞った。わたしのすべてに反応するように世界が色を持ち始める様子はいつ見ても幻想的で、そしてどこか懐かしい。
まるで妖精にでもなったみたいとひとり、笑う。草木を、大気を、空を操る、そう、まるで彼女のような。
お目当てであるその彼女に会いにこうして散策しているわけだけど、こうも綺麗な景色だとつい目的を忘れてしまいそうになるから困りものね。この調子だと辿りつく前に陽が暮れてしまいそうだから、名残惜しいけど少し足を速める。わたしを追いかけるように光が散って、道筋を残して。
そうしていつものしだれた大木に行き着けば思った通り、持ち上げた視線のはるか先、太い枝の上に影が横たわっていた。まばゆい太陽の光でさえ遮ってしまう漆黒の翼はまだ見慣れない。けどその大きな相棒が、彼女にはよく似合っていた。
するするとわたしを導くように下りてきた蔦をたぐり寄せ、彼女の元へと足を運ぶ。最初は木登りの要領がわからなくて悪戦苦闘したけど、いまでは難なく登り切ることができるようになった。彼女がこんな姿を見ようものなら眉をひそめて、はしたないと怒りそうだけど。
あっという間に枝に腰を落ち着けて一呼吸、身体をすっぽりと覆ってしまっている翼をそ、とかき分ける。
最初に覗いたのは真っ白な首筋、続いて熟れた果実を思わせる赤いくちびるに、伏せられた長いまつげ。これだけ近付いているというのに、浅緑色の眸が現れる気配はない。なにか物語をとせがむあなたのせいでいつも寝不足よ、とは彼女の言だからきっと、疲れがたまっていたのね。
わたしが全面的に悪いわけだからもちろん申し訳なく思うのだけど、少しだけ、うれしい。いつもは常に注意を配っていて、隙を突いて抱きつくことさえできないのに、いまばかりはこうして至近距離にいることができるんだから。気を許してくれているんだと、そう考えてもいいのかしら。
眠れないのだ、と。彼女がいつか語った昔話の途中、ぽつりと落とした言葉を覚えている。信頼していた、あいしていた男に裏切られたのは眠っている間だったからだと。その男こそ、誰であろうわたしの父だったことを知ったのはつい最近のこと。
下ろされた髪にそ、と。手を伸ばして。
きつく結い上げた髪の拘束をといてからというもの、彼女の雰囲気がほんの少しやわらいだのは気のせいだろうか。
まず、笑顔を見せてくれる機会が増えた。ゴッドマザーは笑うと幼くなるのね、なんて言ったら途端にふて腐れてしまうけど。
何度も名前を呼んでくれるようになった。オーロラ、と。気恥ずかしいのかなんなのか、口の中で小さく転がされている言葉をわたしが聞き逃すはずがない。みにくい子、そんな耳に覚えのある呼び方ももちろん好きなんだけど。
かといって忠実に仕えている烏への雑な対応が変わったわけではないから、彼の苦労が偲ばれる。
髪を下へ下へと辿っていって、真っ白な頬に手を添えた。前は心配になるくらい青白かったそこも、あたたかな陽気のおかげかほんのり染まっている。ともすれば息をしていないのではと不安に駆られそうになるけど、手のひらから伝わる熱だけが唯一、彼女が眠っているだけだということを教えてくれていた。
誰であろう彼女の呪いによって、一時は覚めない夢に沈んでいたわたしを人は眠り姫と称したけど、いままさに目の前で世界を閉ざしている彼女こそそうではないのかとひとり、笑みを深める。
それならどうか、彼女にとっての王子様はわたしでありますようにと。落とした口づけはなぜだかくちびるへ。本当は額にこぼすつもりだったのに、赤く彩られたくちびるについ引き寄せられてしまっていた、いわゆる不可抗力というものだ。
果たしてわたしの願いが届いたのか、細いまつげがふるりとゆれて、そうして待ち望んでいた浅葱色が眠たそうに覗いた。王子を夢見た少女が映ったその眸に、向ける言葉は決まっている。
「おはよう、ゴッドマザー」
わたしのねむりひめ、なんて。
まだ夢から醒めていない眠り姫はひとつ、ふたつ、またたきをした。
(どうかいい夢を、いとしいひと)
わたしにとってのねむりひめは、
2014.10.20