PORTO PARADISO NIGHT.
PROLOGO.
壁に映るは異形の影。炎に揺られて踊るそれが十ばかり。
この屋敷の主である姉妹が三人と、招かれた七人の男女はそれぞれ、陸に存在しないいきものを模した装いをまとっていた。
円形に座した真ん中でゆらめくランタン。
居並ぶ面々をとくと見渡した彼女は満足そうに口の端をゆるめ、そうして語り始める。
「紳士淑女の皆々様。わざわざお集まりいただいたのは、なんてことはございません、一年二一度の祝祭日を皆様と楽しく迎えたい、ただそれだけのこと。
趣旨は簡単。おひとりにつきおひとつ、海にまつわるお話をしていただきます。ええ、だからこど皆様には海の者の装いでお越しいただいたのですよ。きらめく鱗にたなびく胸びれ。どれも背筋が震えるほど素敵な衣装ですわね。
私たち姉妹は、──鎧をまとったそこの貴方、そのとおり。この港に住まうものならだれしも耳にしたことのある伝説をもとにしております。歌を操り人を惑わす海棲の者。…いまさら説明は不要でしょう。あまりにもこの地に馴染んでおりますから。もちろんただのお伽噺ですけれど。
順番は、そうですね、私がひとりずつご指名いたしますので、どうぞおひとりずつご披露くださいな。ひれが美しい貴女、焦らなくても大丈夫。夜は逃げはしませんもの。貴女の番もいずれやって参ります。
…そうそう。もし仮に得体の知れないなにかが訪れても、私は責任を取れませんのであしからず。そう恐れずとも、来訪者がなにも悪しき者とは限りませんわ。
さて。心の準備はよろしいでしょうか。話し始めたらもう後戻りはできませんよ。
季節の最後が、皆様にとって素晴らしいものとなりますように」
***
10.KRAKEN
主催者が口を閉ざすと奇妙なほどの静寂が場を支配した。
彼女が隣に座す男にやわらかな視線を注ぐ。口火を切れ、と。深海を灯した彼女の眸はそう促していた。
九つの意識が集中する。意図を汲み取った彼がほのかに緊張した面持ちで居住まいを正す。
触手を模したドレープがまるで生きているように舞った。
「さて一番手を仰せつかったので早速お話するといたしましょう。
昔々のその昔、まだ海が神聖な者が棲む場所として恐れられていたそのころ。人々は、近海に出没しては船を沈める巨大な蛸に頭を悩ませていたのだとか。
めっきり増えた被害にさてどうしたものかと途方に暮れる中、ひとりの勇敢な漁師が名乗りを挙げたのです。俺が打ち倒してやろう。そう宣言した男は海へ漕ぎ出しました。
陸地が遠く水平線となったあたりでにわかに海が騒がしくなり、やがて姿を現したのは件の蛸。帆の五倍はあろうかという巨体に、けれど男は怯むことなく見上げます。
『噂に違わぬ巨躯だが、お前は船を沈めることしか能がないと見える』
男の物言いに、蛸は怒り狂いました。我に出来ぬことなどない、疑うのならば証拠を見せよう。豪語する怪物に、ならば逆に小さくなってみよ、と男は命じました。身体を伸縮させることのできる怪物にとってそれは朝飯前。すぐさま身を縮めた蛸は、櫂の先に乗ってみせました。この機を失せず捕まえた男はただの蛸と化した怪物を手早く捌き、腹の内に収めてしまったのです。
見事海の怪物を討伐した男の帰還に、港の住民は大喜び。一体どんな怪物だったんだ。人々の質問に、男は酒を呷りながら答えました。
『まったく骨のない奴だったよ』」
***
9.KARKINOS
ふ、と。ランタンがほんのわずかにその灯火を落とす。風の揺らぎにも似たそれを七人が気に留めるはずもない。
話を終えた男は息を継ぐ。皆が感心して称える中、企画者である彼女はまたその隣へ目配せした。次は彼の番らしい。
仰せつかった彼は、鋏に寄せて棘をあしらった指を、顔の前で交差してみせた。
「じゃあ僕は心優しい男の話をひとつ。
とある港で網にかかった蟹がいたんだ。近海では見たことのない、上等なものだったから、競りにかければかなりの価格になったものを、あまりに悲しい目で海を見つめる彼を憐れに思った漁師が逃がしてやったんだって。
『助けてくれたお礼に私が拾った財宝を贈りましょう』
網から逃れた蟹が、なんと自分の甲羅から金塊を取り出したんだ。なんでも沈没船に積まれてる金銀財宝を、甲羅の中に蓄えていたんだとか。
病気の妻を持つ男は大喜びで受け取ったんだけど、待てよ、と考えた。この港の人々は自分と同じように貧困にあえいでる、ならばこの蟹の持つ財宝をみんなで分け合えば暮らしが楽になるんじゃないか、って。
隙を突いて再び蟹を捕まえた男は勢いよく甲羅を引っぺがした。中に詰まってたのは、他の蟹と違って金塊に宝石、それもたくさん。手にしたことのないほどの財宝を前に、だけど男は惑わされることもなく、港のみんなに平等に配って回ったんだ。
以来、彼は聖人と呼び湛えられて、発展を遂げた港のシンボルには蟹があしらわれたんだってさ。
月夜の蟹とはよく言うけど、この蟹には身の代わりに幸運が詰まっていたんだね」
***
8.DELFINO
彼の話を聞き遂げた皆は口々に感想を述べる。その口振りや振る舞いはまるで、今しがた語り終えた話の時代に生きる人間のようでもあった。
さて、と場をまとめた進行役が指すよりも早く、一人の女性が身を乗り出す。時計回りで行けば次は彼女の番。
海獣に似せたまっさらな腹部が、灯りに照らし出された。
「わたくしがお話いたしますのは、海の遣いにすくわれた女性の物語ですわ。
とある国の侍女が、航海中にうっかり黄金の首飾りを落としてしまいましたの。お気に入りの首飾りが無くなったことを知った女王の怒りようといったら、海神でさえ裸足で逃げ出してしまうほど。海の底までさらって見つけ出してきなさい、とついにはその侍女を海のただなかへ突き落してしまう始末。
さらに不幸なことに彼女は泳げなかったんですの。どれだけもがこうと海面から遠ざかるばかり。絶体絶命の彼女の前に颯爽と現れたのは、なんと海豚。無我夢中で背びれにしがみつけば、しなやかに身を翻した海豚は彼女を港まで連れていきましたわ。
助かったと安堵の息をついたのも束の間、同じ港に女王の船も停泊していましたの。見つかればきっとまた海底へ逆戻り。焦った彼女の目にふと留まったのは、いましがた彼女を岸へ運んだ海豚のおなか。きらきらと光るそれにもしやと思った彼女は、携えていた短刀で海豚のおなかを割いて、それはもう驚きましたわ。だって彼の胃には黄金の首飾りが収められていたんですもの。どうやら彼女が落とした首飾りを飲みこんでいたみたいですわね。
彼の胃袋ごと女王へ差し出した彼女は、すべては海豚の悪戯だったことにしましたの。海豚のおかげで、彼女はなんのお咎めもなく側仕えへ戻れたというわけですわ」
***
7.ZARATAN
海はいつだって人間に寄り添っているんだな。
誰かが確信を持って呟けば、他の者も賛同を込めて頷いた。
ランタンがまた少し灯りを落とす。夜が深まってきたのだろうと、皆は特に気にかけない。
微笑む彼女の隣で、待ってましたとばかりに男が片膝を立てる。
重厚な甲羅を想起させる甲冑が始まりを告げた。
「これは九死に一生を得たばかりか、富と名誉、すべてを手にした賢き男の話だ。
男は絶望していた。ここは海のただなか。そう、彼は遭難したんだ。じりじりと陽に焼かれ喉はカラカラ。それだけならまだよかったが、ここはただの島じゃない。草木が生い茂る巨大な亀の甲羅の上だったんだ。
地面に耳をつければ、地鳴りに似た恐ろしい寝息が聞こえる。今にも目覚めて、侵入者である男を排除しないとも限らない。ようやく泳ぎ着いた島がこんな地獄だなんて。一昼夜震えて過ごした男は、だがはたと思い付いた。どうせ一度は死を覚悟したんだ、なら再び命を賭しても同じことだろう、とな。
枝に松葉、白樺の皮。燃えやすいものを片っ端から集めた男は、海際の大きな洞穴の近くに積み上げ火をつけた。狼煙のように天高く燃え盛ったところで、地響きと唸り声、そう、島の主が目を覚ましたんだ。自分の甲羅で火事が起こっていることに気付いた亀が頭を出し、全速力で泳ぎ始めた。振りほどかれないよう必死で甲羅にしがみつく男の目に、やがて陸地が見えてくる。甲羅全体が火に包まれる。火に呑まれる覚悟をしたと同時、亀が海岸に乗り上げたものだから、男は急いで甲羅から脱出した。
騒ぎを聞きつけ集まった島民は、巨大な怪物を黒焦げにしたのが男だと知り歓喜した。以来男はその島の英雄となり、何不自由なく一生を過ごしたというわけさ」
***
6.SQUALO
かしゃん、と。甲冑の嘆きは、その後控えめに鳴らされた拍手にかき消された。
誰かが身を震わせる。もう次の季節の足音が聞こえているのだ、肌寒いのも道理だが、窓も開いていないのにどうしてこうも身の内が凍えているのか。
疑問を繰り出す暇もなく、その隣の男がにい、と鋭くとがった犬歯を覗かせた。
「信じる者は救われる。私が語るのはそんな物語だ。
昨夜の大雨で、大事な商品をすべて流され無一文になった商人がいた。神よ、どうぞお助けください。天に祈りながら帰り路をたどっていると、岸でのたうつ鮫と遭遇した。聞けばこの鮫もまた、大雨により陸地へ流されてしまったらしい。
『ならばこの袋にお入りなさい。海までお運びいたしましょう』
似た境遇に同情した商人の提案に、鮫は喜び勇んで袋の中に身を投じた。
ずしりとした重みが肩にのしかかる。もう家族と会えないものと覚悟していたんだ。頭を覗かせた鮫が嬉しそうに話す。海への道を進みながら、商人の不安はいや増した。鮫を送り届けた時、果たして自分は無事でいられるのだろうか。その家族の糧とされてしまうのではないだろうか。次から次へと湧いてくる想像に、袋を持つ手に汗がにじむ。
『おかげで助かったよ。そんなお前にこれを──』
海が見えた。安堵した鮫が鋭く光る歯を剥き出す。恐れた商人は思わず、袋ごと鮫を地面へ叩きつけた。何度も何度も。やがてだらりと口を開けて絶命する鮫。なんとその歯は黄金で出来ているじゃないか。きっと一文無しの自分を憐れんだ神が遣わしてくださったのだろう。歯を余さず手に入れた商人は、その金で黄金の鮫の像を建て、生涯神への忠誠を忘れなかったという」
***
5.HYDRA
呼応するようにまたひとつ、ランタンがその身に闇をまとう。
夜半の屋敷に響く囁き声。己が眼を疑った誰かが目をこする。自分たち以外の何者かに見つめられていた気がしたのに。けれど気配が再び辿られることはない。
更に隣の彼女が思わせぶりに息をつく。
揺れた襟元はまるで海を漂うひれのようだった。
「それじゃあそろそろ、私たちにとって一番身近な海についての話もしなくちゃね。
これははるか昔、人間と海のいきものが共存していた時代の物語。彼らあるいは彼女たちは、互いに音楽を共有して過ごしていたの。永遠に続くかと思われた平和な日々は、ある日突然失われた。そう、音を奪い合い始めたのよ。
それはもう酷い世の中だったらしいわ。海は枯れ、大地は痩せ、空は重く垂れこみ、人々の心は荒んでいった。神々さえ彼らを見放して、どこかへ消えてしまったわ。
彼らを憐れに思った一匹の海蛇が、とある鍵を残していったの。どこに通じるのか、なにを開くための鍵なのか。使い道はだれにも分からない。
だけどね、彼らにはそんなもの必要なかったの。だって彼らには、最後の希望の光、この港の姫がいたんだから。悪しき王を下した姫は、海に棲まう者たちもろとも深海へ沈めたそうよ。一説では海蛇が授けた例の鍵で閉じこめたと言われているけど、いまとなっては定かでないわね。
物語の結末は、皆さん知ってのとおり。悪しき者が封じられ、正しき者たちの楽園となった。姫が名付けたその港は豊かな音にあふれ、いまも発展を続けている。私たちがこうして炎を囲んでいるのが良い証拠ね。
海の者がよみがえることは永遠にないわ。そう、永遠にね」
***
4.SIRENA
ふ、と。誰かが妙な息苦しさを覚えた。喉をじわじわと締めつけられているかのような、そんな違和感。
きっと喋り過ぎたせいだろう。首を振って追いやった直後、次の男が待ちくたびれたとばかりに足を崩した。
動きに合わせて広がった裾は海中を進む尾びれにも見える。
そうして彼は唄うように語り始めた。
「ならば俺は、海に惑わされた憐れな男の話をしよう。
荒波に呑まれた船乗りをとある女がすくい上げた。たいそう美しい女に一目惚れした男はすぐさま彼女を妻として迎え入れた。妻の並外れた美貌に、港の誰もが羨望のまなざしを向けてくる。男は有頂天だった。ただひとつ、妻がいつまで経っても光のもとで肌を晒そうとしないことだけが気になったが、幸福な日々の前には些末なことだった。
やがて三人の娘を成した。みな母に似て器量良し。将来有望だと口々に言われるなか、しかし男の不信感はもはや無視できないほど膨らんでいた。生まれた子とともに湯浴みをしたことがないのだ、ただの一度も。そればかりか妻と同様、肌をすっぽりと覆う服ばかりまとわせている。長女だけならまだしも、ふたり目、末の子と続けば疑問に思わないはずがない。真実を語ろうとしない妻に、男の憤りは募るばかり。
久方振りに肌を重ねた夜に悲劇は起こった。いつもは妻が乞うまま暗闇で情事に耽る男が突然、明かりを灯したのだ。まっさらな肌のそこかしこに光る海色。女がひた隠しにしていたのは、海を色濃く主張する鱗だった。
『俺を騙していたんだな、おまえは、ずっと』
湧き立つ怒りに任せ男が手にしたのは、女が肌身離さず携えている短刀。自身の刃に貫かれた女は、泡となり跡形もなく消えたという」
***
3.AGLAOPEME
男の話が終わるやいなや、甲高い嘲笑が割って入った。
ごぼごぼと、まるで海底から呼びかけているかのように不明瞭に反響し、場を支配していく。身の毛もよだつ音に皆が身体を震わせる。
無邪気に笑ったのは彼の隣に座していた姉妹の内のひとり。
目尻の雫を拭った彼女の指の間には、薄い膜が張っていた。
「あなたのお話、本当の結末はこうじゃないかしら。
男と女はお互いを運命の相手だと思ってた。こんなに惹かれ合うのはきっと前世からの縁に違いないって信じて疑わなかったの。愚かよね、そんな運命あるわけないのに。
男の言う運命も、子供がひとりまたひとりと成長するにつれ頼りないものになっていったわ。ひとり目の娘は少女の身に余るくらいの美貌を備え、ふたり目は身体が竦むほど深い色を眸に湛え、極めつけは最後の子。自分に向かって伸ばされた無邪気な指の間に、水かきとしか思えない膜が張っていたの。腕のうちでまどろむ末の娘をなんとか抱えながら、あふれる疑惑に男は苦しんだわ。この子は俺の子ではなく魔物の子なのか。それとも妻が異形の者なのか。薄々勘付きながらもこれまでどおりの日常を続けようとしたのは出来た人間だったからじゃない、こわかったからよ。周囲に知られることが。まともな人間である自分までもが後ろ指をさされることが。
だけどついに耐えられなくなったんでしょうね。とある夜、一番上の娘を桟橋へ連れ出したの。背を向けて海面を見つめる娘を突き落とそうとして、だけど突然、波ひとつなかったはずの海が渦を巻いたの。ごうごうと耳鳴りがするなか、娘が振り返って、
「──どうして、」
娘の言葉を聞き遂げることはなく。だれにも知られず男は海に呑まれたらしいわ」
***
2.PEISINOE
寒い、と誰かが震えた。まるで真冬の海に突き落とされたかのようだ。
この異様な屋敷から早く脱出したい、けれど身体が動かない。
色濃い闇が重くのしかかる。ランタンは文字通り風前の灯火だ。
頼りない灯りがちろちろと照らすのは姉妹のふたり目。愉悦をこめて細められた眸には、深い海が宿っていた。
「それでは私はこの港に棲まっていた者たちについてお話しましょう。まずは、あなたがたもご存じの昔話から。
昔々にそれはもう凄惨な闘争があったことは、ええ、貴女が語ったとおり。疲弊していく土地に耐えかねたとある姫君は、王国の外へ救いを求めた。紆余曲折あった航海の果てに、自身の故郷こそ理想の楽園なのだと気付いた彼女は、あと一歩で覇権を握ろうとしていた海の王をなんとか下し、だれもが幸福に暮らせる国を築いた。
──けれど。それは真実なのかしら。だれしもが何不自由なく幸せに生きていると、本当にそう信じているのかしら。
あなたがたが悪しき存在だと教え伝えられてきた海の者たちは、あなたがたとなんら変わらない、極々平凡な市民だったわ。友人がいた。家族がいた。愛すべき者がいた。それなのに、その身に海の気配を宿しているからという理由だけで息の根を止められた。からくも生き残った者たちも、陽の下を歩くことを許されなくなった。日陰で息を潜めても後ろ指をさされ、末代まで嫌忌される運命を強いられた。それでもあなたがた人間は、ここはその名のとおり楽園なのだと、疑いもなく宣うのでしょうね。
海の者はこの恨みを決して忘れない。己の罪さえ自覚せずのうのうと生きる人間たちのすべてを奪う機会を、いまも海の底深くから窺っているわ」
***
1.THELXIEPEIA
風が吠える。鼓膜で波が渦を巻く。
もはや隣人の姿さえおぼつかない闇の中で、けれど最後のひとりである彼女の眸だけは妖しくきらめいていた。まるで息もつけない海の底から手招くように。
弧をえがいたくちびるがやがておもむろに開かれる。
歌でもうたうかのように軽やかな音がすべてを奪い去っていく。
「皆様、こんな話をご存じでしょうか。
一年の一度の祝祭日、とある門が開かれるらしいですわ。海の底深くへと通じる門。伝説によれば、この地を治めていた姫の手によって海の王が封じこめられた場所だとか。そこには王だけでなく、はるか昔にこの地を追われた者たちも眠っているのです。ええもちろん、皆様の物語で憐れにも命を奪われた亀や鮫、海豚の魂も。
門を開けば、海の者たちがよみがえるかもしれない。そう考えた女がいました。我が物顔で陽の下を闊歩する人間たちを暗い海へ引きずり下ろせるかもしれない、と。
海蛇が授けたといわれる鍵はなんとか見つけたものの、門は変わらず閉ざされたまま。なにかが足りない、けれどなにが。女ははたと気付きました。そう、器が必要だったのです。だって門の向こうで彷徨っているのは、とうに身体を失った魂たちなのですから。
器となるには、それ相応のものでなくてはなりません。かつて海を統べていたかの人の依代に相応しいのは、この地のすべてを照らす、あの忌々しい光しかないのです。
女は手始めに、かの人の配下となる者たちの復活を画策しました。祝祭を迎えるための余興、とでも言えば、なんの疑問も抱かせず呼び集めることができるだろうと。
そうして愚かな人間たちは、海の底よりよみがえりし者たちに身体を奪われ、その魂は未来永劫、深海にとらわれたのでした」
***
0.ARRIVEDERCI
最後の足掻きとばかりに燃え盛るランタン。その火に照らされたななつの影が、主に向かって牙を剥く。
妹ふたりが旋律を紡ぐ。耳馴染みのない唄。主催者である彼女が触れた首筋には、黒い紋様が浮かび上がっている。
恐怖に竦む中、誰かがふと思い至った。
はるか昔、海蛇が与えた鍵というのはもしかして、
「さて、お気に召したでしょうか。どれも身の毛がよだつほど素敵な物語でしたわね。
あら皆様、どうなさったの、そんなに震えて。最初に申し上げたはずですわ。『得体の知れないなにかが訪れても責任は取れません』と。
これでも最初は迷いましたのよ。あの姫の血を少しでも継いでいるというだけの皆様を呼び集めることが果たして正解なのかと。
…だけど杞憂だったようね。だってあなたたち、面白おかしく語っていたでしょう。海の者が虐げられる話を。人間に都合のいいように解釈された物語を。どんな犠牲があったか、苦しみがあったか考えもせず。
ほら、ご覧になって。壁に映ったあなたたちの影。あれはあなたたちが語った海そのもの。いまはただの影でしかないあの者たちはもうじき、あなたたちを呑みこみ、身体を、意識を、すべてを手にすることでしょう。ああ心配しないでちょうだい。命までは奪わないわ。さっきも言ったでしょう、あなたたちの魂は永遠に海の底を彷徨う、って。すぐに賑やかになるでしょうね。だって明日は待ちに待った祝祭なんですもの。あの光が無様に沈む様を、どうぞ深海から見ていなさいな。あのかたがよみがえれば、私たちの悲願も、きっと。
もうすぐ日付が変わるわね。それでは皆様、──よいハロウィンを」
(彼らの行方は海だけが知っている)
末裔一夜物語。
2021.10.31