ハロウィンより愛をこめて。
ひときわ強い風が窓枠を揺らした気がした。読書の邪魔をされて思わず音のした方を睨む。年季の入ったこの家の立てつけの悪さにはもう慣れたし、姉に不満をこぼしたところで改修するほどの経済的な余裕がないこともわかっている。そのことを承知の上で、まるでからかうように鳴るものだから恨めしい。
ぱたりと本を閉じる。調子よく読み進めていたのに、すっかり勢いを削がれてしまった。
何事も──そう、気持ち悪いほど何事もない、平穏な日々が過ぎ、気付けばあの忌まわしき季節に差しかかっていた。軒先のあちらこちらでジャックオーランタンが顔を並べ始めているのだと、市場に下った妹がはしゃいでいた。どうやら今年は例年通りの町の装いになっているらしい。
一年前のあの日の出来事を、港の住民はだれひとり覚えていない。恐らくあの贄の力添えによるものだろう。無償の慈悲に反吐が出る。この港を闇に陥れようとした私たちにさえ手を差し伸べる忌々しい光にも、憎き相手のおかげで元の生活に戻れた自分自身にも。
あれから私たちは普通の生活を──つまりこれまでどおりの日常を、変わらず強いられていた。古き海の血を引く者としてではなく、ただの人間としての日常。姉も妹も─妹はなにを考えているのかいまひとつ読めないけれど─それを受け入れつつあるようだった。慣れなのか諦めなのか、私にはわからない。
あの日の絶望が、震えていた妹の手の感触が、愕然とした姉の表情が、苦い記憶としてふとよみがえる。魔王の復活だとか海の者のための治世だとか、そんなものはどうだってよかった。ただ姉の願いが成就しますようにと、妹が日陰で生きることがないようにと、ただただ、それだけを祈って姉の計画に賛同していた。なのに現実はなにひとつ変わらないまま、むしろ以前に増して姉の重圧は増えたように思う。ともに背負いたい、できればそんなものは負わず普通に自分の人生を生きてほしい、ただ笑っていてほしい。願いはいまも果たされない。
「ただいま。一段と寒さが増したわねえ」
姉の声に我に返る。風に吹かれた扉が音を立てて閉じる。振り返った先では姉がかごを腕に下げたまま、赤くなった手を擦り合わせていた。
「おかえりなさい。すぐに火をおこすわ」
いつもなら姉が帰宅するより早く薪をくべておくのに、読書と考え事に気を取られている間にすっかり暖炉が勢いを無くしてしまっていた。急いでソファから身を起こし、暖炉へ駆け寄る。もう薪も少ない。裏の靴磨きの家でいくつか分けてもらわないと、来週さえ乗り切れるかどうか。
薪を積み上げている間にかごを下ろした姉が、慣れた様子で手紙を仕分けていく。帰り際に外の郵便ポストから取ってきたのだろう。ぱさり、ぱさり。特に目を通すでもなく落とされていく紙切れたち。たぶんなにかの広告に、宗教勧誘に。後で燃えやすい紙でももらって薪の足しにしよう。そんなことをぼんやり考えているうちにぱちぱちと火が爆ぜて、
息を呑む、気配。
視界の端に映る姉の動きが不自然に止まった気がした。
「どうしたのお姉様、…まさか嫌がらせの手紙なんて」
心当たりをいくつか思い浮かべながら振り返る。姉の目は、手にした封筒を凝視していた。遠目では宛名もなにも記されていないように見える。姉はなにも言わない。
不思議に思って近付いて、──見えたのは、忘れもしないあの封蝋。一年前、私たちが彼らへ宛てた誘いへの返信として寄越されたそれにも、これと同じ封がしてあった。
震える指先がゆっくりと開封していく。知らず私も息を殺す。封入されていたのはたった一枚。今年は彼ら主催の催し物が──彼らが言うところの『本物のハロウィン』が開催されること。私たち姉妹にも是非参加してほしいということ。そうして最後に記された、忌々しい名。だれであろう、私たちのまじないを打ち破ったあの女からの誘いだった。
あなたたちと仲良くなりたいから、などと。意味がわからない。私たちに無様な生を強いた張本人であるくせに。
ふ、と。湧きかけた怒りは、けれど肌を撫でる異様な雰囲気を前に鳴りを潜めた。思わず仰ぎ見た隣人の、深い海の底に似た眸が見開かれている。この色には覚えがあった。狂気と期待と羨望がない交ぜになった色。
「…ああ、そういう、そういうこと」
くつくつ、隣人が喉を鳴らす。またたきさえ忘れたそのひとは手紙をぐしゃりと握り潰した。親しんだはずの声が、まったく違う響きを持って私の名を呼ぶ。震える足を叱咤して隣に立ち続ける。姉のくちびるが笑みのかたちに歪められる。背筋が震える。恐怖と、けれどそれを上回るほどの歓喜。ああ、だって、
「──今度こそ光を沈めてみせるわよ」
私の、私たちのお姉様が、かえってきた。
(Welcome to,)
煽りスキルの高いみにさま。
2021.10.31