Persone preziose per me.

「それじゃあ、留守番頼んだわよ」  いつもの時間、いつもの言葉を残し、姉は買い出しへ出かけた。玄関の扉が閉まる音。足音が遠ざかると同時、盛大なため息とともに机に突っ伏す。 「どうしたの、あねさま。この世の終わりみたいな顔して」 「…いまのお姉様、見た?」  入れ違いで居間へやって来た妹の質問には答えず、疑問を投げかける。思ったとおり、見たけど、と妹は首を傾げるばかりで気付いた様子はない。 「お姉様のあの気合いの入りよう…、隠していたってわかるわ、あれは、逢瀬よ」 「………え。あの初心で鈍くて色恋より猫がすきな、あのお姉さまが?」  そんなことあるわけないわよ、などと妹は笑うけれど、私にはわかる。だって今日は、くちびるに普段よりも濃い紅を差していた。朝の入浴だって平均より七分長かったし、いつもは左腕から洗うところを今朝は首から入念に手入れしていた。 「なんでそこまで知ってるのよ、あねさま」  私だって信じたくはない。けれど出て行く間際の姉の笑みにどうしても引っ掛かりを覚えてしまう。──かくなる上は。 「追うわよ」  ***  久しぶりに訪れた市場は活気に満ちていた。  社交的な姉や遊び盛りの妹と違い、私は滅多に外出しない。陽射しに弱いというのもあるけれど、最大の理由は人間と触れ合いたくないからだ。  それでもいまはわがままなんて言っていられない。冬だというのにうだるような熱気に眩暈を覚えながら、必死に姉の背中を追う。 「ねえあねさま、大丈夫? 元々ひどい顔色がもっとひどくなってるわよ」 「心配するのか貶すのかどちらかに、」  言い返そうとした矢先、視線の先で姉が足を止める。見つかる前にと妹の手を掴み、急いで二軒手前のテントに隠れる。  姉が立ち寄ったのは果物屋だった。恰幅のいい店主が、店先に並ぶクレメンティーナを勧めている。腰を屈め、品定めする姉の視線は真剣そのもの。まさか懇意にしている相手の好物なのだろうか。私と食の好みが被っているだなんてやめてほしい。  ようやく三つほど決めた姉が、袋に詰めてもらいながら店主と立ち話を始めた。随分と親しげだ。心なしか表情もやわらかい。まさか、まさか姉の想い人は、 「冷静になって、あねさま。あのおじさんは昔から良くしてくれてるじゃない」  妹の指摘ももっともだけれど、父親の影を求めているうちに、ということも充分考えられる。いや考えたくはないけれど、可能性が無いことはない。  頭を抱えている間に、お礼を伝えたらしい姉がまた市場を進んでいく。どうやら相手は果物屋の店主ではないようだ。 「だからさっきからそう言ってるのに。ほら、誤解だったんだからもう、」 「いいから行くわよ」 「ええー、まだ続けるのぉ?」  ***  姉が次に立ち寄ったのは花屋だった。姉はよくここの花を買ってくる。どうやらここのひとり娘が姉と同年代らしい。足を運ぶたびに購入しているのはただの社交辞令なのか、それとも本当に仲が良い故の行動なのか、私にはわからない。  さて件の看板娘は店先で元気に声を張っていた。見知った姉の姿を見とめ、遠目からもそれとわかるほど顔を輝かせる。姉が手を振って応えている。  そんなふたりの様子を、少し離れた植木鉢に隠れて窺う。会話は聞こえないものの、どうやら注文していた花束を受け取りに来ただけのようだ。  青で統一された花束。品種はわからないけれど、どれも凛と美しい。まさかこれから対面する相手に渡すのだろうか。羨ましさに思わず歯噛みする。姉から花束なんて、私でさえ貰ったことがないというのに。 「だから顔。般若そっくりよ、あねさま」 「…ねえ。お姉様は本当に、相手のことを想っているんでしょうね」  看板娘に見送られて花屋を後にした姉を追いつつ、ぽつり、こぼれたのは本音。  果物を受け取ったときのわずかに高揚した頬も。花束を抱きしめたときのやわらかにほどけた目元も。私は知らない、見たことがない、あんな、あんな嬉しそうなお姉様。きっと贈る相手をよほど気に入っているのだろう、よほど大切なのだろう。 「ん、とね。たぶんだけど、すごくすごく大事に想ってると思うわ」  言葉を選ぶように、ひとつひとつ落とされる妹の言葉にずくりと胸が痛む。 「わたしたちが考えてる以上に、大切にしてるんだと思う、そのひとのこと」 「…そう、ね、きっと」  ***  そうして波止場に行き着き、確信する。姉の密やかな逢瀬の相手はこの男だと。  爽やかそうな青年だった。船乗りなのだろうか、太陽も驚くほど全身日焼けしている。距離を開けているから例によって会話は聞こえない、聞こえなくてもわかる、姉は相好を崩している。青年から受け取った小さな包みを大切に胸に抱き、ひそやかにまぶたを閉じている。  覚悟はしていた。いつか姉は、お姉様は、私たちだけのお姉様でなくなる日が来ると。妹よりも大切なひとと出逢って、心を寄せて、いつかは離れていってしまうのだと。  覚悟。していた。はずなのに。  涙が、止まらなかった。胸が、苦しかった。息をすれば嗚咽がこぼれてしまいそうで、呼吸を抑え必死に平静を取り戻そうとする。 「あー、もう! 無理、わたしにはやっぱり無理よ」  隣で同じくしゃがみこんでいた妹がふいにがしがし頭を掻いた。突然のことに呆気に取られる私の手を取り、陽のもとへ強引に連れ出す。波間に反射した光がまぶしくて、思わずもう片方の腕で目を覆う。 「あらあ、こんなところでどうしたの、あなたたち」 「ごめんなさい、お姉さま。うまく誤魔化せなくて」  誤魔化せなくて、とは。妹の言葉に首を傾げながら目を開ければ、仕方ない子ね、とでも言いたそうに苦笑した姉の顔が最初に飛びこんできてどきりと心臓が跳ねる。 「あのね、あねさま。これ全部、あねさまのためなのよ」 「………どういう、」 「よくもまあ毎年毎年忘れられるわねえ」  申し訳なさそうに打ち明ける妹と、おかしそうに笑う姉の意図がさっぱりわからない。  と。頭のなかでカレンダーを繰ったところでようやく答えに行き当たる。私のすきな果物。私のすきな色で編まれた花束。そうしていま姉が大事に手にしている包みの中身は、自惚れでなければきっと、 「ほら。あなた、アクセサリーがほしいって言ってたじゃない」  包みから取り出したのは、七色に光る小さな水泡をトップに据えたネックレスだった。たしか海外のアーティストが手掛けた逸品のはず。花束を抱えたまま器用にも私の首につけた姉は、少し早いけれど、と微笑む。にじむ視界がもったいない。 「──生まれてきてくれてありがとう」 (あなたがうまれたしあわせに)
 D系WEBオンリー「Clap Your Hands!」内で頒布した秋本。  2021.3.14