Chi e il Dio di Porto Paradiso?
今夜もいるような気がした。 「あら。夜更かしだなんて悪い子ね」 「一体いくつだと思ってるのよ、お姉さま」 首を後ろに反らしたお姉さまが憮然と立つわたしに笑いかけた。月明かりに晒された首筋に浮かぶ、黒い紋様。わたしやあねさまよりも濃いそれは前に見かけたときよりも色を深めてた、まるで蝕むみたいに。 わたしたちの計画が泡と消えてもうすぐ一年。あの季節が近付くにつれて、お姉さまの紋様は禍々しさを増した。胸元にだけ咲いていたそれが首筋にまで侵食してきたのだ。体調でも悪いのかしらね。そんな単純なことじゃないはずなのに、当の本人はなんでもないことみたいに微笑むばかり。当人がそう言うものだから、わたしもあねさまも口を挟む余地を奪われてしまって。そもそもの原因も治す方法だってわからないんだから、気にかけても仕方ないって考えも理解できるんだけど。それでも心配しないはずがない。 桟橋に腰かけるお姉さまの隣にしゃがみこむ。 海の血を継いでいる証なんだと、小さいころから何度も聞かされてきた。わたしたちみたいに海を祖とする者たちはみんな、場所や形は違えど漆黒の痣が刻まれているんだとか。かくいうお姉さまも、お母さまの受け売りのようで詳細は知らないみたいだけど。 樹形みたいに広がる忌むべき証。わたしたち姉妹はそろって二対だったはずなのに、お姉さまのそれはいつの間にか三対に増えてた。まっさらな肌に食いこむかのように、じくりじくりと枝を伸ばしている。 「…痛まない?」 「全然。気付いたら広がってるってだけよ」 ぱしゃり。お姉さまの足が海を掻く。いたずらに蹴り上げられた水が飛沫をあげる。にべない返事は相変わらず。だけど水の軌跡を見つめるお姉さまの視線は、どこかぼんやりとよるべなかった。 「─…罰、なのかしらね。結局あなたたちを救えなかった、私への」 小さなちいさな呟きが波音にとけていく。罰なんて、罪なんて、どこにもないのに。わたしたちはただ、お姉さまと一緒にいられるだけでいいのに。なんにもわかってないお姉さまはすべてを自分のせいだって思いこんで、すべてを背負いこもうとしてしまう。 立ち上がり、手を差し出す。さざ波のように揺れる深海色がわたしを見上げる。 「お姉さまの子守唄がないと寝れないの。だから、」 「…ほら。やっぱりまだ子供じゃないの」 口調とは裏腹に探るみたいにふれた指は、海よりも冷たかった。 (Cosa porta il mare,)ここにいるだろうことは予想がついていた。 「夜歩きは感心しないわよ、お姉様」 「人のこと言える立場かしら」 まるでこたえた様子のない姉の笑い声が夜ににじんでいく。別に咎めるつもりもないからいいのだけれど。 桟橋に腰かける姉の隣に立ち、ちらと視線を落とす。盛りを過ぎたとはいえまだ夏の残滓は消えていない。だというのに姉は、色の濃いショールを肩にかけ胸元でかき合わせている。考えずともその理由に思い至り、どうしようもないやるせなさに襲われた。 私たちの胸元には、樹形のような漆黒の紋様が刻まれている。高潔な海の血が流れている証なのだと、在りし日の母は誇らしそうに語っていた。小さな港町で生きるより術がない私たちにとって人にあらざるこの痣は忌むべき形見でしかないけれど、幸か不幸か宿した血が薄いために、普段はほんの少し意識すれば肌と同化させることができる。 けれども最近の姉の身体には常にそれが浮かび上がっていた。暑さのせいかしらね。ついには四対にまで枝木を伸ばしたそれが凶兆でないはずがないのに、私たちに心配をかけまいとして、あっけらかんと笑ってしまうのだ、このひとは。原因もなにもわからない私はただ姉の気遣いに歯噛みするばかり。 「痛みはない、わよね」 「そろって同じことを聞くのね、あなたたち」 苦く綻んだ姉が、海から引き上げた右足を抱えこむ。まっさらな肌にまばらに散った鱗が月明かりを受けて鈍く光を放つ。 「ねえ、─…なにもかも間違っていたのかしら、私は」 懺悔にも似た呟きが波音に呑まれていく。なにが間違いだというのだろう。私たちの行く末を案じてその身を賭した姉の心が誤っていたなんてこと、あるはずがないのに。それでもこのひとはすべてを否定しようとする。古の治世を復古しなければよかった、妹たちを巻きこまなければよかった、と。 力無い腕を掴み、無理に立ち上がらせる。少し高い位置にある深海色の眸がまたたく。 「晩酌の相手がいないとつまらない、ってあの子がうるさいのよ。だから、」 「…たまにはあなたが付き合ってあげなさいよ」 「私が下戸だと知ってのお言葉かしら」 きゅ、と添えられた指に、気付かれないようそっと息をつく。 家路をたどろうと踏み出したそのとき、視界の端をなにかがよぎった気がして視線を向けてみたけれど、嫌になるほど見慣れた海が広がるばかりだった。 (Una strana melodia cavalca la brezza,)
今夜は船を出さない方がいいぞ。 こんなに凪いでるのに。 先週漁に出たきり戻ってこないじいさんがいるだろう。 魚屋の下男も、灯台守も、岬の墓守も。 果てはそこかしこにいた野良猫どもだって。 みーんな帰ってきやしねえ。 噂じゃあ海に引きずりこまれたって。 海のばけもの──セイレーンにな。 馬鹿馬鹿しい。そんなお伽噺のばけもの、いるはずないだろ。 いるんだよ。海に底にも、この港にもな。 (Lasciate ogne speranza, voi ch'entrate.)
これは友達に聞いた話なんだけどね。 月ものぼらない夜に海際をさまようなにかがいるんですって。怪異とか幽霊とかばけものとか、ひとの数だけ表現があるんだけど、この港に古くからある伝承になぞらえて、『セイレーン』って呼ばれてるわ。 そのセイレーンがね、夜な夜な人間を捕まえては海へ引きずりこむらしいの。うそだと思うでしょ。でも実際に海へ出たまま戻らない漁師さんがいるみたいだし。遭遇した影響でずっと寝込んでるひともいるって話も聞くし。 それにね、わたし、いや友達が、ね、見ちゃったの。いままさに岸に上がったみたいに濡れそぼってて、腰まで届く長い長い髪が身体にぴったり張りついてた。逃げなきゃって思うのに足が動かないの。まるでその場に縫い止められたみたいに、足も視線もなにもかも釘付けになって。足音もなく歩いてたそれがふいに振り向いて。海の底をさらったような、昏い昏い眸をしてたわ。 セイレーンに魅入られた者は海に呑まれ、二度とひとに戻れなくなる──そんな噂を思い出して、ようやく言うことをきいてくれた足で懸命に逃げ出したの。ずしゃ、って。砂浜を這うような音がまだ耳にこびりついてる気がして、いまでも背筋が冷えるわ。 セイレーンってね、本当にいるのよ。 「─……で。落ちはついたのかしら」 「こんなにこわい話を聞いた感想がそれ?」 あくまで友人の話として神妙に語っていた彼女は、私の反応にがくりと肩を落とす。噂のセイレーンとやらに怯える姿を期待されていたのだろうか。こわがりな妹ならまだしも、生憎私は怪談を恐れるようなかわいらしい性格ではない。怪異や幽霊なんかより、生きた人間のほうがよほど恐ろしいのだから。 それにこの話は、 「あーあ。なんだかこわがってるわたしが馬鹿みたい」 「あら。正体の知れないものに恐れをなすのはひととして当然の反応よ」 「まるで自分は違うみたいな言い方やめてよ、こわいじゃない」 自身の肩を抱き、大袈裟に震えてみせる彼女に苦笑を返したところで、ちりん、と。割って入った軽やかな鈴の音に視線を落とす。一点のけがれもないまっさらな猫。気まぐれに帰ってきたこの花屋の看板猫が、飼い主の足に顔をこすりつける。ごはんの催促だろうか。久しぶりにまみえた姿にゆるむ頬を止められない。 「でもなんなのかしらね。本当にいなくなっちゃったひともいるみたいだし」 純白の毛玉が肩に担がれていく。慣れた手つきで背を撫でた彼女が眉をひそめる。 「神話とか怪談を信じてるわけじゃないのよ。だけどこうして被害も出てるとなると、本当になにかがいるんじゃないかって、そう思っちゃうじゃない」 「思いこめばただの葉擦れでさえ囁きに聴こえたりするものよ」 私の返事に納得いかない様子の彼女は、ううんと唸って首を傾げる。 恐れているのはなにも彼女ばかりではなかった。先ほど聞かされた噂は、いまやこの港で知らぬ者はいないほど流布しているのだ。元々神話や伝承が身近にある土地柄ではあるけれど、こんなに早く広まっているのはやはり彼女の言うとおり、実害が出ているからだろう。ある者は海に消え、ある者は影に怯え、ある者は夢に侵されている。漁師をはじめ、みんな恐れているのだ、すべてはセイレーンののろいだ、と。 抱かれるまま身体を伸ばしている猫に手を伸ばす。まっさらな毛並みが指を抜ける。 「あなたが見たのもきっと木の影かなにかよ」 「そうよね、…って、わたしじゃなくて友達だってば」 「はいはい。なんにせよ大丈夫だから、安心なさいな」 なおも言い募ろうとする彼女に苦笑してみせれば、安堵したのかようやく普段の笑みが覗いた。そう、なにも心配することはないのだから。 ちりり、と。ふいに視線を動かした猫に合わせて、乾いた鈴の音が響いて消えた。 (Dal profondo delle tenebre,)
「ひどい顔色よ、お姉さま」 降ってきた声に我に返った。振り向くより先に隣で止まる足音。顔を覗きこんできた末の妹の姿に、知らず詰めていた息を吐き出す。 「ついてくるならそう言ってちょうだい」 「だってあんまり思い詰めた顔してたんだもの。声なんてかけられなかったわ」 肩を竦めた妹が、それで、と語尾を上げて尋ねる。 「どうだったの、あのひとの様子は」 咄嗟に言葉が見つからず、ただ首を横に振る。 花屋の娘が海岸で倒れている──さざ波のように人々の口にのぼったそれを聞きつけ、血の気が引いた。まさか。花屋までのやけに長い道を急ぎながら思い出すのは先日彼女が語っていた海にまつわる噂。セイレーンが人間を海へ引きずりこむ、と。そんなものいるはずがない。たまたま噂に沿うように失踪者が出て、疑心暗鬼に陥っているだけ。漁師の老人は呆けていて、魚屋の下男は浮浪癖があって、他のひとだってきっと。必死に言い聞かせてみたものの、ベッドに横たわる彼女を前にしてそのすべてを信じざるを得なくなった。 鱗が、ただの人間に到底あるはずのない海色が、彼女の肌に点在していた。 夜中に外へ飛び出した猫を追ってそれきり戻らなかったのだと、彼女の両親が嘆いた。翌朝海岸で発見されたときには、ひどい高熱で意識が混濁しているようだったと。連れ帰って数刻後から徐々に鱗が浮き出てきたのだと。涙ながらに娘を介抱する母親に慰めの言葉ひとつかけられず、早鐘を打つ心臓を抱えそっと辞去した。娘を呆然と見つめるばかりの父親がぼそりと呟く。セイレーンののろいだ、と。 「セイレーンののろい、って、どういうこと」 並んで歩く妹が、話を聞き終え訝しそうに眉をひそめる。 「だってそれ、お姉さまが流した噂でしょ、そんなものあるはずないじゃない」 「…私にもわからないわ、なにも、なにもかも」 ほんの悪あがきのつもりだった。魔王など、海を統べる者などいないのだと、失敗に終わった一年前の祝祭で思い知ってしまったから。港の人々が少しでも海に畏敬の念を抱けばいい、ただそれだけの想いで吹聴した。海へと引きずりこむなにかがいる、と。 手を離れた噂がひとり歩きして、いつの間にかセイレーンなどという皮肉な呼称まで馴染んでいた。流行りに敏感な住人たちのことだ、すぐに口の端にのぼり、そうしてあっという間に廃れいつもどおりの日常が戻ってくるだろうと。なにひとつ変わらない日々が帰ってくるのだろうと。そう、思っていたのに。 足を止めた場所は、今朝彼女が発見されたのだという海岸。いつもは漁師たちの活気や遊び回る子供たちの歓声に満ちているはずのそこで、けれど寄せる波ばかりが寂しくないていた。 「噂に便乗した愉快犯、って線はないかしら」 「それじゃああの鱗の説明がつかないわ」 先に砂浜に足を踏み入れた妹が振り返る。その表情は私を映したように曇っていた。 呆れるほど平穏な港だからこそ、ふいに起きた事件が取り沙汰されているのだろう。いままではそう結論づけることができた。けれど彼女の身体を侵すあれを見たあとでは、どうしたって認めざるを得ない。ひとにあらざるなにかが蠢いているのだ、と。 ショール越しに胸元を握りしめる。最近とみに色を増した古の証が脈を打つ、まるでなにかに呼応するかのように。胸騒ぎがやまない。出来心で口にした単なる作り話が、思惑を外れ歪に育ってしまっているばかりか、この小さな港をゆっくり、けれど着実に呑みこもうとしている、そんな胸騒ぎが。 「…あれ。これって、」 俯いて砂を蹴った妹がふとなにかを見つけたように腰を屈める。ちり、と。元の響きを失った鈴と、不気味なほど凪いでいる海と同じ色をした鱗が埋まっていた。 (Dal mare sorgono,)
海は不気味なくらいいつもどおりだった。 星明かりのない空とまっくらな海がはるか先で混ざり合ってる。水平線を照らすはずの灯台は、主を失ったせいでその役目を果たせずにいた。 お姉さまが懇意にしてる花屋のあの子が伏せってもう一週間。あの子の意識はいまだに戻らないまま、同じように目を覚まさないひと、海に近付いたきり帰ってこないひとが後を絶たない。セイレーンののろいだ。まことしやかにささやかれていた噂がついに真実味をもって語られ始めた。海からよみがえったセイレーンの仕業に違いない、と。 「…まったく。迷惑な話よね」 桟橋の隅に転がってる貝殻を、悪態に任せて蹴る。ぼちゃり、思ったより大きな音を立てたそれはすぐ海の底へと沈んでいった。 セイレーンの名を冠するなにものかの正体を独自で調査しているらしいお姉さまは、日を追うごとに焦燥感を露わにしている。きっとなにも掴めてないんだろう。港のひとたちがどうなろうと正直構わない。だけど憔悴していくお姉さまは見るに堪えなかった。 大体『セイレーン』だなんて。自分の出自を高位なものだと思ってるわけじゃない。だけど怪異とか魔物とかばけものとか、そんな得体の知れないものと同列に括られるのはごめんだわ。 そんな憤りを抱えて件の現場へやってきたけど、港のみんなが恐れてるセイレーンの影も形も窺えない。どうやらそうそう都合よく現れてはくれないみたい。 そろそろ戻らないとまたあねさまに心配かけちゃう。そう踵を返そうとして、ふと、波打つ水面が気になった。さっき貝殻を落とした水面のさざめきは止むどころか徐々に波紋を広げていく、まるでいきものがうごめいてるみたいに。 桟橋の縁にしゃがみこみ、おそるおそる海を覗きこむ。どくり。胸元に刻まれた紋様に焼けつくような痛みを感じたのは一瞬。 「──っ、なに、」 水の中から見つめられてる、と。認識する前に手首になにかが絡み、桟橋からひと息に引きずり下ろされた。まだ冬には早いはずなのに凍えそうなほど冷たい。逃れようと足掻くほど海面が遠のいていく。腰に、足に、ぞろりとまとわりつく影。まるでわたしを海中に留めおこうとするみたいに。 ふ、と、うたが、聴こえる。どこか耳馴染みのある声。音のない世界でその旋律だけが鼓膜に直接届いて、動きも意思もなにもかも絡め取っていく。ひときわ濃い影が覗きこむみたいにわたしを覆って、ごぽり、最後の呼吸が泡と消える、視界が段々まっくらになっていって、こわい、くるしい、あねさま、お姉さま── 「お姉様」 何度目かの呼びかけでようやく姉が身じろいだ。深海色の眸が頼りなく揺れている。無理もない。平静を装っている私も、ずっと手の震えが止まらなかった。 海を漂う妹を見つけたのは姉だった。夜中に覚えた胸騒ぎに妹の部屋を覗けば案の定もぬけの殻。ふたりで港中を探しまわってようやく波にたゆたう妹を見つけたのだ。 意識を取り戻さない妹は、なにかにうなされているのか苦悶の表情を浮かべている。高熱のはずなのに指先は凍えるほど冷たい。わずかに点在するばかりだった鱗が範囲を広げ、すでに腕も足も覆っている。姉から伝え聞いている花屋の娘とまったく同じ症状だ。妹たちだけじゃない、いまやこの港のだれもかれもが侵されているそれだった。 『セイレーン』だなんて。そんな不愉快な名前をだれが囁き始めたか知らないけれど、認めざるを得ない、これはセイレーンののろいだ、と。 妹が言葉にならない声をあげる。痛ましい音に胸が軋む。この子は私よりも海の血が薄いからか、水中で自由に息をすることができない。きっと成すすべなく海へ引きずりこまれただろうことは想像に難くなかった。 額の汗をタオルで拭う。苦しかっただろうに、こわかっただろうに。私はただ、妹が無事に目を覚ましてくれるよう祈ることしかできない。 少しでも寝苦しさから解放されるようにと、寝間着のボタンをひとつ外して──姉と同時に息を呑む。三人とも同じ場所に刻印された漆黒の紋様が、いままさに三対目の枝を伸ばしているところだった。ぞわり、肌を捕食するかのように蠢くそれから目が離せない。妹を蝕むそれは、日ごと色を増す姉のそれとよく似ていた。 「…どう、して」 愕然とした姉の呟きが部屋に転がっていく。思わず自身の胸元を握りしめた、瞬間、妹が目を見開いた。澄んだ浅瀬色だったはずの眸が澱んでいる、まるで海の底のように。 「が、ぁ、あァ…っ、」 「お姉様!」 姉の喉元に迫る鋭くとがった牙。妹が襲いかかっている、と。遅れてやってきた認識とともに咄嗟に肩を押さえつけた。ベッドに引き戻そうにもびくともしない。元々腕力が強いほうではあるけれど、ここまで差があっただろうか。 どうにか頭をめぐらせているところへ、ふ、と。弱々しい旋律が紡がれる。姉の唄だ。抵抗するように荒い呼吸を洩らしていた妹の力が段々と弱まり、やがて濁った眸が完全に閉ざされた。ぽすり、肩に落ち着いた妹の髪を、姉の震える手が撫でつける。 「─…これも、セイレーンののろいだと言うの」 (Quello che vedi oltre l’orizzonte e,)
ぞろり、海の底で影が蠢く。 はじめは浮泥のように曖昧に漂っていたそれらが徐々に人型をかたどっていく。ある影はたなびく鰭を、ある影は重厚な甲羅を、ある影はゆらめく触手を。各々が身に宿すのは、すでに絶えたはずの海の者の証。 その中心で不意に『セイレーン』が旋律を編む。音も光もない世界で、しかし確かに紡がれる。古の唄。とうに朽ちた唄。だれも知るはずのない詩節に、影たちが身を躍らせて呼応する。ごぼごぼとさざめく影は、まるで歓喜しているかのよう。 鋭くとがった指先が自身の胸元をなぞる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ。首筋に向かって一本ずつ、弧をえがくように。闇よりもなお深く刻まれたそれに、くちびるが満足そうに歪む。 もはや口にする者がいなくなったはずの言語がひそやかに交わされる。口々にのぼるのはかつてこの海を、この港さえも統べていた王の名。強大な力を持ちながら、たかが小娘ひとりに敗れたあわれな海の祖。港を治めた彼女も、とうの昔に土へと還っている。 『セイレーン』が鱗に覆われた両腕を差し伸ばす。ああ、と洩れる愉悦の吐息。 ──我らが待ち望んだ時はもうすぐ。 はるか海面を仰ぐ深淵色の眸が笑みをかたちづくった。 (Pape Principe, pape Principe aleppe!)
海に呼ばれた気がした。 異様なほど静まり返った港を睥睨する。件の騒動は悪化の一途をたどり、人々は海を畏れるように敬遠した。夜中に出歩くな、海に近付くな、セイレーンに呑まれるぞ──馬鹿馬鹿しい噂を体現するかのように、妹の身体は日々、海の気配に侵され続けている。幸いにも姉の唄のおかげで昏々と眠っているけれど、このまま目を覚まさないのではという恐怖に四六時中、姉も私も苛まれていた。 ぎり、と胸元を握りしめる。セイレーンののろいだなんて、もううんざりなのよ。 妹と同様床に臥す住民たちを見舞いと称して観察し、ひとつだけわかったことがある。影だ。苦悶する彼らに一様に影がまとわりついていたのだ。ある日を境に妹の身体にも憑りついたそれの存在を訴えてみたものの、憔悴した様子の姉は首を横に振るばかり。そんなもの見えないわ、と。 なぜ姉に影が見えないのかはわからない。けれどあれが妹を蝕んでいることはたしかだ。あれを取り払うにはきっと、諸悪の根源を完全に打ち滅ぼすしか手はないはず。 砂浜を一歩ずつ、海へと足を進めながら心の内で姉に謝罪する。海に近付かないで。港のだれもかれもと同じように姉は懇願した。あなたまでこんな目に遭わせたくないの。私たちの前で涙なんてついぞ浮かべたことのない姉が、深海色の眸をにじませていた。 すっかり鱗に覆われた妹の手を握りしめたまままどろむ姉を横目に家を抜け出した。だってこれ以上、ふたりが苦しむ姿を黙って見ているわけにはいかないから。なによりも大切な家族を傷つける呪縛など、私が断ち切ってみせる。 「─…いるなら出てきなさい。ケリをつけてあげるわ」 不快な風が頬を撫でる。私の言葉に呼応するように、ざわり、海が不自然に波打つ。来る、と確信したと同時、海から伸びた影が砂浜を侵食し始めた。夜よりもまだ色濃いそれがこちらへ近付きながら縦に伸びる、いいえ、人型をかたどり立ち上がる。まばらな鰭を、朽ちた甲羅を、萎びた触手をまとう彼らの顔には見覚えがあった。 「…なるほど。失踪した人間たちを従えているというわけね」 後ずさろうとする足をなんとか踏み留めてひとりごちる。海へ出たきり戻らない漁師が、魚屋の下男が、灯台守が、私と同じ人ならざる気配をまといにじり寄ってきていた。彼らは海に取りこまれたのだろうか。震える身体を叱咤しながら必死に頭をめぐらせる。『セイレーン』とやらの力で影をその身に負わされてしまったのだろうか。 どくり。胸元の紋様がふいに痛み出す。焼きごてでも押しつけられたかのような痛みに吐き気を覚え、その場に膝を突く。なんとか持ち上げた視界に映った、のは、 「ど、どうして──」 どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。不甲斐なさに憤っても手遅れだった。 末の妹が悪夢のようなのろいに蝕まれ始めてからというもの、次妹が日中出歩くようになった。普段滅多なことでは外出しないあの子はきっと、『セイレーン』ののろいに関する情報を集めて回っていたのだろう。それに数日前、あの子が口にした奇妙な言葉。影が妹を呑みこもうとしている、と。私よりも海の血が薄いはずの次妹が、私には見えないものを見ている時点で気付くべきだった。海に呼ばれていたのだ、あの子も。 まろびながらたどり着いた海岸に、果たして妹が倒れ伏していた。背中をつたう冷汗。悲鳴をすんでで呑みこみ急いで駆け寄る。抱き起こした勢いで意識を取り戻したのか、ぐ、と洩れたうめき声に、詰めていた息を吐き出した。 「…おね、さま、ど、して、」 ゆるり、水面色の眸が覗く。力無く伸ばされた腕が、頬を滑って再び落ちる。思わず視線で追った先、妹の胸元でうごめく漆黒の紋様に、心臓が握り潰された。 「に、げて、…おねえさまは、おねえさまだけは、」 無数の影が、私たちを囲んでいた。私たちに似ているようで、けれど私たちとは決定的ななにかを異にしている歪な影。その中でも一際濃密な気配につられて顔を上げて、愕然と、目を見開いた。 『ようやくまみえたな、海の子よ』 私と同じ姿の女が、艶然と微笑んでいた。 (Quando l’antica luce rivive,)
たとえばすべて悪い夢だったなら。 「頭を垂れよ。あれほどまでに復活を乞うていた王を前にしているのだぞ」 淡い期待は、影たちにかしずかれた『私自身』によって無残にも打ち砕かれた。 いままさに岸に上がってきたように濡れそぼった髪。胸元に刻まれた四対の樹形印。全身をくまなく覆う鱗に、深海よりもまだ底を思わせる昏い眸。いつか花屋の娘が語り聞かせた『セイレーン』が、私とそっくりそのままの顔で、こちらを見下ろしていた。 どうして、と。疑問を口にしようとして、けれど言葉の代わりにごぼり、泡にでもなったかのような音がこぼれていく。咄嗟にのどを押さえた私に、目の前のそれがくつくつと笑う。 「案ずるな。おまえももう間もなく我らと一体になれる」 闇が侵食するようににじり寄る影。見覚えのあるだれもかれもが背に負ったそれらに、思い出すのは一年前の祝祭のこと。轟く雷鳴。蠢く胎動。あの日あの瞬間感じた気配を忘れるはずがない。身体の内をぞわりと這っていたあれはまさしく、眼前に立つ影そのものだった。 「…どう、して。あれは失敗に終わったはずなのに」 意識してかき集めた言葉がなんとかかたちを成した。 復活を間近にしてすべてが水泡に帰したはずだった。あの光たちが先導した馬鹿げた唄と踊りによって、戻りつつあった海の魔力は絶たれたと思っていた。少なくとも私はどこにも感じ取れなくなっていた。ならばいま私たちを囲んでいるこれらは、深淵色の眸を細めた『セイレーン』はなぜいまごろ姿を得たのだろうか。 ほっそりとした指先が私の胸を突く、途端、紋様に沿って走る焼けつくような痛み。くちびるを噛みしめ激痛を堪える私に、ほんの先に迫った口角が可笑しそうに歪む。 「覚えが無いと申すか。本当に、何も心当たりが無いと」 「………っ、まさか、」 「そう。おまえが流布した『噂』の、これが結末だよ」 海へと引きずりこむなにかがいる──吹聴したのはたしかに私自身だ。無駄な足掻きだとわかっていた、些末な噂ひとつでなにも変わるはずがないと。それでもあの日覚えた絶望を、むなしさを、どうにか晴らしたかった。陸どころか海にも見放されたのだという現実を突きつけてきた彼らにほんの少しでも意趣返しがしたかった。 痛みに一瞬思考が焼き切れる。堪えきれなかったうめきが口の端から洩れる。 「おまえの魔力は微々たるものだが、それでも流言に意思を持たせるには充分だった。我らが器を得ることが出来たのはひとえにおまえの働きのおかげだ、礼を言おう」 「私の、せいで」 「我が物顔で港にのさばる人間どもを排除し再び海の者の治世とならんことを──誰であろうおまえがそう願ったのだろう」 私と同じ顔で、同じ声で叩きつけられた事実に眩暈を覚えた。 漁師たちが、花屋の娘が、港のだれもかれもが、そして妹までもが影に意思を奪われ侵されているのは、私が流した噂のせいだなんて。この世でなによりも大切な妹たちを傷つけた元凶が私自身だなんて。 腕のうちに抱えた次妹が苦しそうに顔をしかめる。胸元に刻印された紋様がじくり、主を蝕むように枝を広げていく。この子もやがて末の妹同様完全なる海の者へと転じてしまうのだろうか。私が犯した罪のせいで、この子にも罰が下ってしまうのだろうか。 深淵色がふいに私を覗きこむ。同じ顔であるはずのそれが、憐みのこもった声で私の名前を呼んだ。甘い音色にわずかに痛みが和らぐ。 「妹たちは糧にもならぬが、望むのならおまえだけは召し抱えてやろう」 歌うように紡がれる言葉が思考を麻痺させていく。闇よりもまだ色濃い深淵を宿した眸がただ私だけを映し、に、と残虐なほど美しい三日月をえがく。 「我らとともに再びこの港に、海の者の楽園を築こうではないか」 「─…おね、え、さま、」 「──ちがう、…違うわ」 頬に伸びる手を、振り払った。深淵色の眸が驚きを露わにわずかに見開く。甘い痺れが遠のき、先ほどの焼けつくような痛みが戻ってきたものの、逆に思考は明瞭になった。 絶えていきそうになる音を必死でたぐり寄せる。私にまだ力が残されているうちに、この海の亡霊に知らしめなければ。自分がどれだけ思い違いをしているか。どれだけ私の心を見誤っているか。そうして私がどれだけ愚かだったかを。 「海の者の楽園なんて、どうでもいい。私は、私はただ、妹たちがしあわせに生きられればよかった。この子たちがだれの目も気にすることなく日なたを歩けるようにって、ただそれだけを願ったの」 すぐそばにある眸から表情が消えた。立ち上がった亡霊が編んだ旋律に従うように、それまで息を潜めていた影たちが距離を詰めてくる。増した痛みが波状に押し寄せる。手離してしまいそうになる意識をすんでで繋ぎ止め、妹に覆い被さる。影が迫る。 ふ、と。歌声の合間に、憐憫を孕んだ声が落ちた。 「決別の時だ。海にも陸にも居場所が無い、憐れで愚かな葉末よ」 (Svegliati Demone di Halloween!)
──ぐるなあ、と。旋律を裂くように響いた、猫の声。 いままさに触手を伸ばしていた影が動きを止める。視線が集中する先で、闇をぽつりとくり抜いたようにまっさらな猫が一匹、こちらをまっすぐ見つめていた。 「…貴様は、」 歌声の代わりにこぼれた驚愕の色は、ともすれば怨念さえこもっていた。覚えのある毛並みが腰を上げる。砂浜に足を取られることなく駆け出したそれがまばゆい光に包まれた。目をすがめたのは一瞬。まぶたを開けば、私と影の間に佇む女性の姿があった。夜明色のドレスが目の前ではためく。正体も知れないはずなのに、凛とした佇まいを、まっすぐな眸を、彼女の名を、なぜだか知っているような気がした。 淡く光をまとう彼女に気圧されたように、影がじりじりと後退していく。顔を歪めた『セイレーン』が忌々しそうに舌打ちをした。 「ええい、どこまでも鬱陶しい女め!」 次いで紡がれた旋律は、かつて私が海に眠るかの者に捧げた唄そのもの、けれど怖気が走るほど呪詛のこもったそれに背筋が粟立つ。再び迫りくる影。先ほどよりも色濃い闇に身体が竦み、ただただ腕のうちで意識を失っている次妹を抱き寄せる。のどが焼けつく。刻印が肌に食いこむ。意識がずるり、引きずりこまれていく、昏い海の底へと。 ふ、と。振り向いた彼女が微笑む。大丈夫。小さなくちびるがたしかにそう動いた。ただそれだけで痛みも恐怖もなにもかもとけ去った気がして──あの女に似ている、と思った。かつてこの海で破滅を歌った私たちにさえ手を差し伸べてきた、あの憎き光に。 彼女が一歩踏み出すごとに、うめき声を上げながら倒れ伏す海の亡霊たち。その身体から影が離れ、ひとつ、またひとつ、断末魔とともに夜闇へとけていく。彼らを侵していた鰭が、甲羅が、触手が崩れ、鱗がぼろぼろと剥がれ落ちた。 「私たちはいまの世界に、いまの時代にいてはいけないの」 はじめて彼女が口にした音は、胸が締めつけられるほどの悲しみにあふれていた。 影から解き放たれた彼らが元の姿を取り戻していき、ついに『セイレーン』ひとりが残された。あと一歩の距離で歩みを止めた彼女が、『セイレーン』の両頬を包みこむ。私と同じ顔が怨嗟に歪む。恨みが、嫉みが、憎しみが、そしてどうしようもない悲しみが胸のうちに押し寄せる。まるで深淵に降り積もっていたような深い感情が。 「おのれダニエラ、どれだけ、どれだけ邪魔をすれば気が済む! どれだけ我らを否定すれば! 我らは…っ」 額にくちづけをひとつ、まるで別れの挨拶のように。闇に呑まれていく亡霊の残滓を、彼女はいつまでも見つめていた。 「─…否定なんてしていないわ。いまも、昔も」 泣いているのか、悼んでいるのか。眸を閉ざした彼女の真意は知れない。 歌が消え、波だけが音をつまびく世界で祈るように佇んでいた彼女は、やがて深呼吸をひとつ、しゃがみこんで私に視線を合わせた。どこまでも澄んだ空を思わせる眸が私をとかしこむ。つい名前を口にしかけて、けれど彼女の人差し指がそれを制した。 「かつて姫と呼ばれこそすれ、いまはなんの力も持たないただの亡霊にすぎないわ」 水平線が緋に染まる。光を背負った彼女が笑う。だれにでも等しく向けられる慈愛の表情を、一片の翳りも見えない眸を、私は知っている、嫌というほど。 「私では彼らに安寧を与えられない。─…けれど、貴女なら」 海と人の血を引く貴女なら。海の王であったあのひとでも、ただの人間である私でも成し得なかったことを、きっと。 光に包まれるように姿が消え、そうしてふ、と、声もほどけた。 ごほ、と吐き出された咳で我に返った。慌てて抱き起こした妹の胸元に浮かぶ漆黒の紋様。二対に戻った樹形印にぽたり、ぽたり、涙があふれて止まらない。 「おね、さま、…のろいは、『セイレーン』はどこへ」 「─…セイレーンののろいなんて無いの。もう、どこにも」 (Ascolta il mare,)
朝露が弾いた陽光に思わず目をすがめる。 「どうだったの、お姉さま。あの子の様子は」 店先で花を物色していた末の妹が、私を見つけるなり駆け寄ってきた。 「もうすっかり元気みたいよ。あなたによろしく伝えてって」 「別によろしくされる謂れはないわ」 フードを目深に被り直した次妹が澄ました様子で先を歩く。元凶を探るついでに、と妹は取り繕っていたけれど、私のものとは別に届けていたお見舞いの品に、花屋の娘はいたく喜んでいた。謝辞を素直に受け取らない性質だから、苦笑だけに留めておく。 ついいましがた確認した彼女の身体のどこにも、鱗の痕跡は見当たらなかった。それどころか床に臥す前後の記憶も曖昧で、『セイレーン』ののろいの話を持ち出してみても首を傾げるばかり。お医者様の見立てだと、どうも流行り病に罹ってたみたい。彼女の母親はそう安堵していた。 ひっそりと視線を向けた先、次妹の顔を覗きこんでからかう末の妹の胸元にはなにも浮かんでいない。のろいによって顕在していた鱗が剥がれ落ちるのと同時に、胸に刻まれた樹形印も元の二対へ枝を収め、いまでは人肌に馴染ませられるまでに戻っていた。すぐ下の妹も、そうして私のそれも。 『彼女』がすべてを海に還したのかもしれない。憶測でしかないけれど、なぜだかそう確信していた。私が呼び覚ましてしまった亡霊たちを、禍々しい海の気配を、そして『セイレーン』さえも、あるべき場所で再び眠りにつかせたのではないかと。まったく、どこまでもあの煩わしい光に似ている。 振り払われた腕をひょいとかいくぐりつつ、末の子が不思議そうに首を傾げる。 「だけどなんだったのかしらね、あれ」 「さあ。噂にこめられた声によって海の者がよみがえった、ってお姉様は言うけれど」 妹たちには包み隠さず話した。私の浅はかな願いのせいでふたりの身を危険に晒してしまったことを。あの祝祭のように今回も、ふたりを傷つけてしまった私の罪を。 だというのに妹は、嫌悪を露わに顔をしかめる。 「なんにせよ、お姉様を愚弄する輩は許せないわ」 「とかなんとか言ってあねさまってば、大事なときに気を失っちゃってたんでしょ」 「すやすや眠っていただけのだれかさんに言われたくないわね」 例によって言い合っているふたりを横目にふと足を止めた。 路地の先にはすっかり活気を取り戻した市場が、その向こうにはいつもと変わらない海が広がっている。 ──私たちはいまの世界に、いまの時代にいてはいけないの。 ──どれだけ邪魔をすれば気が済む! どれだけ我らを否定すれば! 言い含めるような悲哀が、憎悪と悲しみが織りこまれた断末魔が、頭から離れない。彼女たちを伝聞でしか知り得ない私はただ、想いをめぐらすことしかできないけれど。きっと分かり合えなかったのだろう、と思う。私たち姉妹が港の人間たちとのあわいを感じているように、海と陸はどうしたって交われないのだから。 けれどひとつだけ否定をするならば。彼女たちはきっと、いまの時代の人々にとって必要な物語なのだと思う。私がかのひとに救いと希望を見出したように、彼女の物語に救われているひともいるはずだから。 ちりり、と。足元で鳴った鈴の音に視線を落とす。見ればまっさらな猫が、私の足に顔をこすりつけていた。首には新調してもらったらしい赤い首輪。ぐるなあ、とひと声、海へ向かって坂を下っていく。 「なにを見ているの、お姉様」 「早く帰りましょうよお姉さま、わたしおなかすいちゃった」 「─…そうね。帰りましょう、私たちの家に」 またたきをひとつ、妹たちを追う。まっさらな毛並みはもう、どこにも見えなかった。 (Per il suono del mare.)
子供たちが駆けていく。その身にまとう手製の甲羅や背鰭に、道行く人々の顔が綻ぶ。 今日は一年に一度の祝祭。老若男女問わず、海の装いで興じる華やかな宴。 お菓子をねだる子供や仲睦まじく寄り添う恋人たちのなかで一際目を引く女性が三人。その美しさに過ぎ行くだれもかれもの視線が集まる。揃いの意匠はまるでこの地に古くより伝わる海の精そのもの。 早く次のお菓子もらいに行きたいわ、と一番背の高い女性が嘆く。一体どれだけ食べれば気が済むのよ。小柄な女性の呆れ声に、仕方のない子ねえ、と最後方を歩く女性が苦笑する。取るに足らない会話が市場の喧騒に紛れていく。 たしか名前は。三人の後ろ姿を見とめただれかが呟く。かつてこの地に息づいていたという海精は果たしてなんと呼ばれていただろうか。 しばし思案に耽る彼女を、ずしゃり、音が追い越していく。砂浜を這うような足音に知らず背筋が凍りついた。足は言うことをきかないのに、視線ばかりが吸い寄せられるように音を追う。海色のスカート。鱗に覆われた腕に、ひらめく鰭。それはまるでいましがた通り過ぎた三人の女性たちと同じようでいて、けれどなにかが異なっていた。 ふ、と。それが振り向く。胸元に浮かぶ四対の紋様。に、と弧をえがくくちびる。 ──さあ、優雅で麗しい祝祭の始まりだ。 (Benvenuti al Porto Paradiso. )