Mermaids have no tears.

「これを、わたしに?」  大きく飛び出した声に、おばあちゃんは震えるみたいにかすかに頷いた。 「いつも話し相手になってくれるからね。お礼だと思って取っといておくれ」  掠れた、だけどなぜか聞き取りやすい声に改めて視線を落とす。銀のチェーンに真珠が一粒下がったネックレス。卵型の真珠は雫にも似て、とてもきれい。  留め具を外し、後ろ手でネックレスをつける。想像してたほどの重みはない。  埃を被った姿見を覗きこめば、わたしの肌にぴったり馴染んでるみたい。アクセサリーひとつで、わたしでさえお淑やかな雰囲気をまとえるんだから不思議よね。 「ああやっぱり。似合うと思ったんだよ」  眼鏡の奥の目を細めたおばあちゃんの言葉に嬉しくなる。  古びた店内の片隅にあったこのネックレスを来る日も来る日も眺めていた。特別高いってわけじゃないけど、わたしのお小遣いでは到底手の届かない代物。  もしかしたらそんなわたしの懐事情を察してくれたのかもしれない。いつもどおりお店に足を運んですぐ、棚から姿を消していた首飾りに売れちゃったのかしらと肩を落としたわたしへ差し出してくれたのがそれだった。 「ありがとうおばあちゃん! 大切にするわね!」  細い身体にぎゅうと抱きつく。古い家財と、ほんのり潮の香りがした。  扉を開けた途端、からりと晴れやかな陽射しに出迎えられた。  頬を撫でる風が心地いい。思わず駆け出しそうになって思い直す。いまは素敵なネックレスをしてるんだもの、お上品に振る舞わないと。  緩やかな坂道をくだりながら手をかざす。空が遠い。夏の足音はすぐそこだ。ようやくわたしのすきな季節がやって来る。人目につくからって理由で海へ踏み入ることを良しとしないお姉さまも、暑さが増せばさすがに目をつむってくれる。きっとあたしが姉妹の中で一番海の血が薄いから心配してくれてるんだろうけど、あたしももう充分大人よ、うんと遠く深く泳げるんだから。  角を曲がったところでようやく眼下に見慣れた青が広がった。海風が一段と強くなる。  荷を下ろす漁師。海際で水と戯れる子供たち。釣り糸を垂らしたまま居眠りしてるおじいさん。  水平線がきらりと光る。胸元がうずいた気がして思わず手を当てた。ひんやりとした真珠越しに伝わる鼓動はそうとわかるほど跳ねてる。きっと早く身を浸したいって叫んでるんだわ。  いますぐにでも子供たちに混ざって水浴びしたい衝動を堪え、素知らぬ顔で家路をたどる。前髪で隠した海の忘れ形見を見られるわけにはいかないもの。わたしのために、なによりお姉さまたちのためにも。それにいまのわたしは淑女なんだから。心の中で唱えれば、騒がしい脈が少し落ち着いた気がした。  同じように陸で息をして、二本の足で歩いて、言葉を交わしてるんだからもうほとんど変わりはないんだろうけど、それでも人間になりたいと思ったことはなかった、ただの一度も。だって彼らは自由に泳ぐこともできないし、美しい歌声だって持っていないんだもの。そんなものにだれがなりたいっていうの。まあたしかに、こういう時は不便だけど。  ──だけど私は、  ふ、と。足を止めて振り向いた。  砂浜ではしゃぐ子供の声が潮騒の合間を縫う。おかしい、たしかにいま、耳元にささやきが落ちた気がしたのに。  女性の声。どこか切実で、さみしくて、たった一瞬耳を過ぎっただけなのに胸が締めつけられるようで。 「…気のせい、よね」  ***  まさかあのあねさまがここまで興味を持つだなんて。 「そろそろ穴が開いちゃうわ」  茶化してようやく視線が外れる。わざとらしい咳払いを二つ。なんにも誤魔化せてないけど。  帰宅していの一番に、胸元を飾る真珠を見せびらかした。てっきりお姉さまが褒めてくれると思ったのに、先に食いついたのはすぐ上のあねさま。宝物を前にした子供みたいに目を輝かせる姿はまるで、お店の棚に取りつくわたしみたい。関心がないふりをしてたって、あねさまもしっかり年頃の女の子なのよね。  ダイニングテーブルの向こう側に回ってからまたちらりと横目で窺ってきたあねさまが、いつものようにしかめっ面をしてみせる。 「真珠かどうか怪しいわね、ただのガラス玉かもしれないわよ」 「あら。あねさまより目は肥えてるつもりだけど」 「それに知らない人から物を貰ってはだめだって、いつもお姉様に言われているでしょう」 「知らないひとじゃないわ、骨董品屋のおばあちゃんにもらったのよ」 「骨董品店…」  ぽつり、呟いたのはお姉さまだった。  アプリコットの種を取り除いていたはずのお姉さまは、作業の手を止め考え込むようにあごに指を当てる。きっとジャムにでもするのね。明日の朝食に並ぶ光景を想像して早くもおなかが空いてきた。  わたしのそんな呑気な考えとは裏腹に、真珠に注がれる視線は真剣そのもの。 「どう、お姉様? 似合ってる?」 「馬子にも衣裳ってところね」 「お褒めの言葉をありがとう、あねさま」  あねさまの失礼な感想は右から左。すくい上げるように真珠を捧げ持つ。  小首を傾げて促せば、ゆっくり視線を持ち上げたお姉さまが笑った。 「よく似合ってるわ。──だけど、眠る時は外しなさいね、絶対に」  きゅう、と深海色の眸が細められる、なにかを透かすように。  手のひらに収まるそれが少し、重たくなった気がした。  ***  潮風に撫でられた気がしてまぶたを開いた。  入り江に立っていた。寄せた波が裸の足を洗う。でっぷりと太った月が夜空に鎮座してる。どうしてわたしはこんなところにいるんだろう。ぼんやり霞んだ頭が疑問を浮かべる。  一歩ずつ砂に足を沈ませていく。凪いだ海が、月明かりを受けてきらきら輝いてる。  わたしの知らない場所。わたしの知らない海。波音だけがささやきかけてくるここは美しくて、少し物悲しい。  しばらく浜辺を歩いたところで、切り立った岩に腰かける女性の姿が見えた。豊かな髪が風に遊ばれてる。  わたしの知らないひと。だけどどこか懐かしい気がするのは、お姉さまに似てるからかしら。  声をかけようともう一歩踏み出す。砂がやわらかくわたしを受け止める。背を向けたそのひとが両手を高々と掲げ──鋭い刃が月明かりを反射して、背筋が凍った。  その先を想像するよりも早く足が動いた。海水が太ももにまとわりつく。思うように走れない。切っ先が降り下ろされる。 「だめ…っ」  伸ばした指先が、届いた。抱きついた勢いで彼女もろとも、海の中へとなだれ込む。  深く暗い水底へ沈んでいく、まるで引きずりこまれるみたいに。ごぼり、立ちのぼる泡の柱。発生源は腕に抱き留めた彼女だった。髪から、肩から、腰から、ぼこぼこと泡が生まれてはわたしに取りつく。  ふと息苦しさを覚えて視線を下げた先で、雫型のあの真珠が泡と戯れていた。ネックレスの紐が徐々に絞まっていく。月光はもう届かない。聞こえるのは忙しない泡たちの拍動と、──声、そう、声がきこえる。 『私は、』  泡に取り囲まれながら、女性がゆっくりと顔を上げた。  陶器みたいに滑らかな頬。深い海の色を湛えた眸。視界の端で揺れる、魚の尾に似たそれ。震えるくちびるが不器用な笑みをかたちづくる。きれいな笑み。胸が締めつけられるような、さみしい微笑み。 『私はあなたに、』 「──…ッ、は、ぁ、」 「おはよう」  蹴り飛ばした毛布がばさりと床に落ちた。  呼吸をひとつ、ふたつ。全力で泳いだあとみたいに心臓がばくばくとうるさい。それにびっしょりと汗をかいてるせいで、寝間着が張りついて気持ち悪い。  落ち着かない胸を押さえたまま首をめぐらせると、ベッドの縁にお姉さまが腰かけていた。  伸びてきた指が額に散らばる前髪を払って、熱を測るみたいに手のひらがふれる。ひんやりした体温が心地いい。こうされるだけで鼓動が鎮まっていくんだから不思議。 「どうしてお姉さまが」 「うなされてたのよ、あなた」  うなされてた、って、お姉さまの耳に届くほど唸ってたのかしら。聞きたくてもお姉さまは、考え事でもするようにまぶたを閉ざしたまま。しばらく待ってみても言葉は続かない。  お姉さまにならって目を閉じる。  夢、そう、夢を見ていた。知らない入り江。女性と一緒に海へ沈んでいく夢。暗い海のなかで、彼女はなんて言ってたんだろう。 「そういえばこれ、」  額を撫でる指につられてまぶたを開けた。  お姉さまの視線をたどる。ベッドサイドのキャビネットには、寝る前に外した真珠のネックレスが朝日を淡く反射していた。 「返してきなさいな」  お姉さまがようやくわたしを見つめる。深海を思わせる青い眸。夢に現れたあのひとにそっくりな色は、どうして、と尋ねることさえ許してくれなかった。  有無を言わせぬ視線にただこくりと頷く。  お姉さまは夢の内容を知ってるんだわ、と。なぜだかそんな気がした。  ***  お店の扉をくぐると、もう慣れたにおいに包まれた。古びた家具と、それから潮を含んだにおい。  そういえば海岸から離れたこの場所から、どうして海の香りがするんだろう。この港町はどこもかしこも海の気配がするけど、このお店はどこよりも海に近しかった。 「そうかい」  ネックレスを受け取ったおばあちゃんがぽつりと呟く。しわしわの指が真珠を撫でる、まるで思い出の品を扱うみたいに。  涙に似てる、と思った。涙が形を持ったら、きっとこんな姿なのかもしれない。 「お嬢ちゃんも見たんだね」  ささやき声が落ちる。どこかで聞いた声、だけどどこで。顔を上げたおばあちゃんの眸は、海の底みたいに青く、深い悲しみに満ちていた。  おばあちゃんもあの夢を知ってるの。そう尋ねようとまたたきをして──気付けばひとり、路地に立っていた。  今日も元気な太陽がじりじりと肌を焦がす。見渡してみても、寂れた骨董品店の影も形もない。 『私はあなたになりたかった』  遠い潮騒を聞きながら、夢で見た彼女の言葉をふと、思い出した。 (人魚は涙を流さない)
 by Hans Christian Andersen  2023.6.13