Requiem aternam

Op.1  寝入りばなに語り聞かせてくれるお伽噺が子守唄代わりだった。 「──そうして王は眠りにつきました。いつか海を取り戻す、その日まで」  母はとりわけ海の王に関する伝説が好きだった。はるか昔、この港が今の名を冠するよりも前に世を治めていた賢王。かのひとが君臨していた時代は、ここは海のものたちの楽園だったという。  けれどある時、陸を統べていた王女と対立し人間たちとの争いが起こった結果、敗れた王は海の底深くに封じられた。以来子々孫々、海を祖とするものたちは蔑み虐げられ、日陰で生きることを強いられている、と。  記憶にある母の言葉に、恨みや憎しみは感じられなかった。母は信じていたのだろう。いつかきっと、かのひとが目覚め再び海のもののための世界がやってくると。稚拙とも愚かだとも思わない。だって唯一それだけが、この小さな港でしか生きられない彼女の一縷の望みだったのだから。  あれはいつだったか、二番目の妹が生まれてすぐのことだった気がする。  母の唄声を聴くのは随分と久しぶりだった。遺伝子上の父─と呼ぶのもおぞましい─が『姿を消して』からというもの、母は唄うどころか言葉数さえ少なくなってしまった。静かな水底を思わせる声が、私は好きだった。母はよく私の唄を褒めてくれたけれど、やさしくてどこか物悲しい母の声が、私はなによりも好きだった。 「覚えておいてね」  ゆりかごを揺らす二番目の娘に話しかける母は、諭すようでも、縋るようでもあった。すやすや眠る末の妹の傍らには、母の日記帳が置かれていた。  私に気付いた母が微笑みながら手招きした。呼ばれるままベッドに歩み寄る。なにも知らない末の妹は、薄く水かきが張った小さな手で母の薬指をきゅうと握りしめていた。 「あなたには、これを」  緩慢に持ち上げられた右手が差し出したのは見慣れたペンダント。銀色のチェーンに華奢な指輪が通されたそれは、母が肌身離さず首から提げていたものだった。  形見分けにも思えるそれに、私はふいに泣きたくなった。それでも涙を流さなかったのは、すぐ下の妹がじっと見つめていたからだった。長子たる私が弱気になってはいけないから。 「大丈夫。どんなことがあってもきっと、あなたたち三人なら乗り越えられるわ」  私の不安を見透かすように、ふわり、母が笑う。穏やかな笑みに心が軽くなる。 「忘れないでね、」  念を押すように、あるいは祈りをこめるように、私の名を呼ぶ母の声を覚えている。 「──あなたたちこそ、わたしの希望なの」  握りしめた指輪に移ったお母様のぬくもりを、まだ、覚えている。
Op.2  連日連夜の騒がしさに、そろそろ我慢も限界だった。 「あら、おはよう。先に顔洗ってらっしゃい、ひどい顔よ」 「あねさまってば寝過ぎだわ。待ちくたびれて先に食べちゃったわよぉ」  姉の呆れ声と妹のからかいが頭に響く。落ち着かないのはどうやら私だけのようだ。姉はともかく、がさつな妹に比べて繊細なのだ、私は。少しは気遣ってほしい。  秋の祝祭を一週間後に控え、町はいよいよ活気づいてきていた。  家々の装飾に屋台の設営に歌や踊りの練習。昼夜問わず行われる準備に、気が立たないわけがない。耳障りなのはもちろんのこと、浮き足立つ人間を見ると否が応にもあの日を思い出してしまう。  忘れもしない、一年前のあの日。水平線を縁取る夕陽。轟く雷鳴。全身を貫く衝撃。港に響く歓喜の声。もう少しだった、あと一歩だった、姉の希望はすぐそこだったのに──伸ばした手は無残にも打ち払われた。この港をあまねく照らす、憎き光によって。  それからの日々は忌々しいほど平穏に過ぎた。惑わされていたことも海の血族の糧にされそうになっていたことさえ覚えていない人間たちは、今年も祝祭の準備に勤しんでいる。ただし今回は、奴らが言うところの『本物のハロウィーン』とやらが開催されるらしい。  なにが本物でなにが偽物なのかはもはや分からないけれど、安眠を妨げられていることに変わりはない。こういう時どこへ陳情すればいいのだろうか。  痛むこめかみを押さえつつ座る私の目の前に、パンを積んだかごが差し出される。 「それにしても、今年は一体なにをするつもりなのかしらね」  姉の声色からは、感情は読み取れなかった。  クロワッサンをつまみながら、姉に倣って窓へと視線を向ける。海上にそびえる豪奢な門。どうやら今年の目玉はあれらしい。何に使うものかは分からないけれど、どうせ彼らの入れ知恵だろう。あんなものをこしらえる前に桟橋を補強してほしい。 「ねぇあの門、なんだかあれに似てない?」 「食べながら喋るのはやめなさい、お行儀悪いわよ」 「さっき食べたばかりじゃないの」  私たちの注意を物ともせず、妹は二枚目のビスコッティに手を伸ばす。 「ほら、昔よくお姉さまが話してくれてたでしょ、なんとかっていう門のおとぎ話」 「ああ、ミシカの門ね」  淀みなく答えを導き出した姉が、懐かしさをにじませ微笑んだ。  ミシカの門──掠れた記憶を呼び起こす。  はるか昔、伝説の生き物たちが大地を歩き、海を泳ぎ、空を飛び回っていた時代。海の底より出でし門の向こうから現れた彼らと、この港に棲まう者は共存していたのだという。それが、ミシカの伝説。  間近で見た妹の話によれば、門扉にはお伽噺に登場する生き物たちがえがかれているのだという。なるほど、神話好きの人間たちがいかにも好みそうな趣向だ。 「お姉さまってばいろんな話を知ってるわよね。ミシカの伝説に海との結婚に、願いが叶う壺とか仮面姿で踊る怪異とかマクベット王とか…」 「どれだけ伝承があるのよ、この港」  幼いころに聞かされてきた話がよみがえり、思わず辟易した。神話や伝聞が根付いた地ではあるけれど、それにしたってバラエティに富みすぎているのだ。 「私じゃないわ。全部お母様の受け売りよ」  妹につられてビスコッティをかじった姉が苦笑する。  そうだ、記憶にあるのは母の姿だった。奥底に沈めていた光景がふと浮かび上がる。生まれたばかりの妹に語り聞かせていた。まだ言葉なんて理解できないだろうに、言い含めるように、そしてどこか縋るように。今の今まで忘れていた、思い出そうともしなかった。だってあのひとはいつも、私のことなんて見てはいなかったから。 「お母様の願いなの。この港にまつわる話を、伝説を、あなたに話し続けてほしいって。覚えていられるように、忘れてしまわないように」  その願いの中に、私はいない。浮上しかけた感情を、クロワッサンごと呑みこんだ。  *** 「──船の上にだけ、嵐…?」 「ああ、若いもんが見たって言うんだよ。船の上で嵐が巻き起こってたってな」  わたしの疑問に、手を止めた沿岸警備のおじさんは苦々しく答えた。  海にルーツがあるせいか、荒天のときは決まって胸騒ぎがする。昨夜もそうだった。だけど波も空もいたって穏やかで、嵐の気配なんてひとつもない。それでもやまない胸のざわめきに急かされ翌朝海岸へ向かうと、大きな帆船が無残な姿で打ち上げられてた。  おじさんの話によると生存者はゼロ。遺体はすでに運んでいかれたとか。こんな有様だもの、普通の人間なら生きていられるはずがない。 「この港のひとだったの?」 「いいや、最近海の底をさらっていた海賊だろう。きっと海の精の罰が下ったのさ」  嫌悪を露わにした表情は一瞬、子供は元気に遊んできな、と体よく追い払われた。  市場の方向へゆっくり足を進める。あちこちに散らばる積み荷やら船の残骸を、港の男性たちが総出で回収していた。  雲ひとつない空に鎮座した太陽がじりじり照り付けてくる。一夜にして船が大破したなんて思えないほどの秋晴れだ。おじさんの言う『海の精の罰』を鵜呑みにするわけじゃないけど、それでも自然ではない何者かの力が働いてるんじゃないかと信じてしまいそうになって、慌てて首を振った。  もう少し歩いた先でだれかがしゃがみこんでた。お姉さまが仲良くしてる花屋の子だ。組み合わせた両手を額につけ、目を閉じる様子はまるで神さまにお祈りしてるみたい。どうしてこんなところにいるのかしら。疑問はすぐに解けた。  砂浜に突き刺さった帆柱に青年がもたれてた。年の頃はたぶんわたしと同じくらい。眠ってるのかと錯覚するくらい、穏やかな死に顔だった。  息を吸って、まぶたを閉ざして。  紡ぐのは葬送の唄。お姉さまがよく歌ってた。たとえば朝日を見れなかった子猫へ、飛び立てなかったカモメへ、そしてお母さまの墓前で。お姉さまがどんな気持ちでこの節をたどっていたのか、いまなら少し、わかる気がした。 「─…ありがとう。きれいな唄ね」  祈りを終えたその子が、わたしを見上げて微笑んだ。 「さっきの唄、どういう意味なの?」 「よく知らないのよね。お姉さまが歌ってたのをそのまま覚えただけだから」  隣に腰を下ろす。陽光をいっぱいに浴びた砂があたたかい。  たぶん昔の言葉なんだろう。詞の意味を調べたことも、お姉さまに尋ねたこともない。お姉さまが時折奏でるその唄がただただすきだった。この子みたいにわたしの知らない祈りをこめるお姉さまはどこか物悲しくて、さみしそうで、なによりも美しかった。 「…ずっとここで眠るなんてさみしいわよね。警備の人を呼んでくるわ」  言い聞かせるように立ち上がった隣人が、海辺の方へと駆けていく。  ふたりきりになったところで改めて彼を眺めた。  足元の花はきっと、あの子が供えたものだろう。海風に揺られる様はなんだか悲しそう。  静かに目を閉ざす青年は、古びた壺を抱いていた。小柄な彼が腕を回してようやく抱えられるほどの大きな壺。海に投げ出されたとき、浮かんでた積み荷に咄嗟にしがみついたんだろうか。  もう少し近くで確認したくて、そっと青年の腕に触れる。すでに硬直が始まってるのか、それとも彼の意思が働いてるのか、腕も壺もびくともしない。  ようやく引き離した勢いで思いきり尻もちをついたのに、壺になみなみ満ちた海水は濁った水面を揺らしただけでただの一滴もこぼれることはなかった。  元はたぶん銀色に輝いていたんだと思う。アンフォラに似た形状のそれは、表面が泡みたいにでこぼこしてる。壺の首から底まで螺旋状に並んでるのは真珠、だろうか。  なにかが記憶の底で引っかかってた。大事そうに抱きかかえられた壺の形を、模様を、存在を、どこかで見たことがある気がした。だけどいつ、どこで。 「──そうだ、お母さまの日記にかいてあったんだわ」  思い当たったのと同時、澱んだ壺の中身がごぼり、不自然に波打った気がした。  ***  しばらく考え込んでいた彼女は、そうして思い出したように顔を上げた。 「ええと…、──そう、壺よ。一緒に壺が無くなってたの」 「壺…?」  末の妹が消えて三日が経とうとしていた。  あの子だってもう大人だ、無断外泊くらいするだろうと言い聞かせられたのは昨日まで。今朝になっても主の戻らないベッドを前に、堪らず家を飛び出した。猫のように気ままな子ではあるけれど、私に無用な心配をかけるような子ではないはずだった。  市場に噴水広場、高台、路地裏。妹の行きそうな場所をしらみつぶしに当たってみた。  尋ね歩く中、沿岸警備隊のひとりが言っていた。三日前の朝、漂着した難破船について聞き回っていたのだと。そういえばあの日はやけに海が騒がしかった。嵐の夜とはまた異質な気配にうなされ寝付けなかったけれど、翌朝には何事もなく青空が広がっていたから気のせいだと片付けていた。その胸騒ぎを、まさかあの子も感じていただなんて。  世話焼きな彼らは妹を案じて、最後に姿を見かけたという浜辺へ連れ立ってくれた。彼らは妹が海に流されたのではないかとその安否を気遣った。いくら血が薄いとはいえ、あの子だって海棲の裔なのだ、荒れてもいない波に呑まれるなどあるはずがない。そう思いたいけれど、だけど。  焦燥をなんとか宥め、凪いだ海に目を凝らして、 「どうしたの、…なんだか泣きそうな顔してるけど」  彼女が声をかけてきたのは、そんな時だった。  花屋の看板娘も妹に会っていたらしい。砂浜にひとり取り残された青年を弔い、遺体を運んでもらおうと人を呼びに行っているうち、妹はどこかへ去っていたのだと。その際感じた違和を思い出した彼女は言った、あの子とともに壺が消えていた、と。 「あの子が持っていったのかしら…。だけどいなくなった原因とは思えないわ…」  考え込む私の背中を、心配そうに眉を寄せた彼女がやさしくさする。目の前で揺れる白い菊。三日前から毎日供えているのだというそれが、海風に身を震わせた。  思わず胸元を握りしめる。けれども拠りどころとしているものは今はない。  こんなにも胸が騒ぐ理由はもうひとつ。指輪が消えたのだ。  銀色のチェーンに指輪が通されたペンダントを母から譲り受けてからというもの、首から外した日はなかった。服越しに指輪の存在を確かめるたび、今は亡き母のぬくもりを感じるようで安堵した。いつしかそれが癖になってしまっていた。  忽然と消えたのは二日前の朝。起き抜けに違和感を覚えて触れた首筋に、いつもあるはずのものがなかった。寝ている間に金具が切れたのかと部屋中を探してみたけれど、鎖も指輪もどこにも見当たらなかった。  まさかあの子が取ったのかしら。一通り捜索したあと、すぐ下の妹がぽつりと呟いた。なんでも真夜中に玄関が開く音を耳にしたのだという。夜遊びから帰ってきたのだろうと大して気に留めなかったけれど、そういえば子守唄も聴こえた気がする、と。  万が一妹の憶測が正しかったとして、それならなぜ指輪を持ち出したのか、どうしてあの子は行方をくらませてしまったのか。堂々巡りから抜け出せない。壺も指輪も妹も、なにひとつとして繋がらないはずなのに、なにかを忘れている気がしてならない。 「明日にはきっとひょっこり顔を出すわよ。ほら、賑やかなのがすきな子でしょ」 「…そう、そうね、きっとそう」  絞り出した希望を、誰よりも自分自身が信じられずにいた。  海際ではまだ妹の捜索が続けられている。  彼らの肩越し、海のただ中にそびえる荘厳な門。柱を駆け上がっていく風にえがかれている神話上の生き物たちは、明日の祝祭を待ち望んでいるようにも見えた。  首筋にじくりと痛みを覚える。今は眠っている漆黒の紋様が皮膚の下を這ったような、そんな感覚。  ざわめく胸元をぎゅうと握りつぶす。覚えていたはずの母のぬくもりが、顔が、声が、どうしても思い出せない、まるで指輪と一緒に見失ってしまったみたいに。 「─…どうかあの子を守って、お母様」
Op.3  庭のミモザがその身を散らし始めている。きっと次の開花は見られないだろう。  気怠い上体をなんとか起こす。最近思うように身体が動かなくなってきた。夢か現実かも分からず曖昧に天井を見上げる時間が増えた。そんな彼女が三人目の娘を無事出産できたことは奇跡に等しかった。  ぷすぅ、と聞こえた寝息は隣のゆりかごから。母の薬指を握ったまま夢の中を泳ぐ娘の傍らに、先ほどまで読み聞かせていた彼女の日記帳が置かれている。  この子は覚えていられないかもしれない、けれど大きくなるまで待つことはできないから。  彼女は薄く微笑む。三番目の娘は、おなかにいる頃から賑やかだった。きっと活発な子に育つことだろう。成長を見守れないことが残念でならない。  ふいにゆりかごが揺れた。ようやくゆりかごを覗きこめるほど背が伸びた二番目の娘は、深い眠りへ誘うようにゆるりと揺らしている。 「ぐっすり眠ってるみたい、お姉ちゃんのおかげね」  久しぶりに発した声に咳が絡む。振り向いた水底色の眸がほんの少し気遣わしげな色を乗せて、けれどそれだけ。咳きこむ母をただじっと見つめている。  この子はわたしに似てる。荒い呼吸をなんとか整えながら彼女は思う。内気な性格も、出自を呪う心も、海に交わりきれなかった眸も。  喉を絞り音を紡ぐ。もううまく唄えなくなってしまった。それでも彼女は唄を編む。娘の記憶に刻まれるように。この唄が娘たちの希望となるように。 「覚えておいてね」  か細いドの音色が空気にとけていく。  気配につられて視線を向ければ、空いた扉からひっそり窺う一番目の娘と目が合った。おいで、と手招く。逡巡を挟んで駆けてきた娘は、ベッドの傍らにしゃがみこみ母を見上げた。深い海を思わせる眸にありあり浮かぶ心配をどうにか解きほぐそうと、彼女は笑う。  この子はわたしと正反対の性格をしてる。ひとりでなにもかもを背負いこんでしまわないか、それだけが気がかりだった。だからすべては託さない。この子にはふたりも妹がいるのだから。  ベッドサイドに置いていた指輪を手渡す。  彼女の母が、祖母が、顔も知らない海の者たちが継いできたそれを受け取った娘は何度かまたたく、まるで涙をこらえるように。泣かないでと、あやす代わりに名前を呼んだ。これは彼女の祈りであり償いでもあった。海にも陸にも属する半端な者として産み落としてしまったこと、そしてもう傍にいられないことへの懺悔をこめて。 「──あなたたちこそ、わたしの希望なの」  だれよりも、なによりもあいしていることが伝わるようにと、祈りをこめて。
Op.4  真昼の空に花火がのぼる。赤、青、黄。炸裂した煙がしだれ柳のように落ちていく。祝祭の始まりを告げる騒々しい合図に思わず舌打ちをした。  妹が消えてもう四日になる。最初はただの無断外泊だと思っていたのに、いつまで経っても帰ってこないものだからこうして姉とともに町中探し回る羽目になっていた。  町のそこかしこで上がる歓声。往来にあふれる人、人、人。各々が海にまつわる衣装に身を包み、歌い、踊り、騒いでいる。今年の主催者はあの憎き贄だと聞いたけれど、一年前となんら変わりない。華やかな催しの裏に企てがあるかないか、ただそれだけ。  覚えた眩暈に足を止める。これだから人混みは苦手だ。一年で最も人間が集うこの日にわざわざ出歩くだなんて、本当は避けたいのに。 「さっさと帰ってきなさいよ…」  屋台の脇に佇む樽にもたれ、苦し紛れにこぼした悪態が喧騒に呑まれていく。  姉も私もとうに勘付いていた、妹は単に家出をしているわけではないと。この小さな港町以外に根差せる場所などあるはずないし、なにより姉に心配をかけるようなことを──細々としたことはあるにせよ、安否を気遣わせるほどのことをするとは思えない。波にさらわれたか、悪意ある人間にかどわかされたか、はたまた心惹かれた相手と駆け落ちしたか。どれも可能性が低いように思えた。  お祭りごとに目がないあの子のことだ、きっと祝祭当日にひょっこり現れてパニーノでも買い食いするに違いない。そんなかすかな希望も萎みかけていた。 「ああ、ようやく見つけた! あの子はいた?」  聞き馴染んだ声が、人波をかき分け駆け寄ってきた。  背中をさする姉に、力無く首を振ってみせる。答えは分かりきっていたのだろう、息を吐いた姉は空いた左手で胸元をぎゅうと握りしめる。姉の見慣れた癖だった。  妹の失踪と時を同じくして、姉の指輪も消えた。母から貰い受けたそれをなによりも大切にしていた姉が失くすはずがない。  心当たりといえば、夜中に響いた子守唄。思い返せばあれは妹の唄声だった気がする。奏でていたそれが、姉を深い眠りへ誘うためだとしたら。姉が肌身離さず身につけている指輪をこっそり手に入れるためだとしたら。 「─…ねえ、お姉様。あくまで可能性の話なのだけれど」  冷や汗が伝い落ちる。姉の深海色の眸が、怯えを灯して揺れている。  手がかりを探して入った妹の部屋に、古びた手帳が残されていた。右肩上がりの癖字。はじめてママと呼んでくれた、一緒に唄をうたった、元気におなかを蹴る子にもうすぐ会えるかしら──どうやら母の日記帳のようだった。私の記憶にある母は言葉数が少なかったけれど、日記の中のそのひとは淀みなく日常を綴っていた。  分厚い手帳をなんとはなしに繰っていると、やがて隅に折り目がつけられたページに行き着いた。  『願いが叶う壺』  母と、そして姉が話す寝物語で何度か耳にしたお伽噺。たしか壺になにかを投げ入れれば願うが叶うんだったか。物語が書き記された横には、アンフォラに似た壺の絵が添えられていた。 「海岸に打ち上げられた壺が消えた、…そう言っていたわよね、お姉様」 「…でもあれはお伽噺よ。存在するはずがないわ、そうでしょ」  声が頼りなく震えている。私だってただの作り話だと思っていた。けれどこれは。  ──ふいに歓呼の声がこだました。  何事かと振り返る人々の視線は、海際に設営された舞台に向いていた。先程まで楽隊の奏でる曲に合わせてめいめいに踊っていたはずの彼らはけれど声を限りに唄いながら、両手を頭上高く掲げている。  ヒュッ、と。掴み損ねた呼吸が喉を詰まらせる。なにかに憑かれたように編まれる唄を、踊りを、儀式を、私たちは知っている。  太陽が姿を隠す。海上に佇む豪奢な門が、地を揺るがせながらゆっくりと開き始めた。声が一際鋭さを増す。轟く雷鳴。人々が息を呑む。胸元に刻まれた漆黒の紋様に痛みが走る。海の底から這い寄る声を、気配を、歓喜を、私たちは覚えている。  禍々しい空気のなか、門の向こうから現れたそれが、海面にひたりと踏み出す。 「今度こそ、本当のハロウィーンの始まりだ」  影が甲高く嗤っていた。  ***  足裏に馴染む水面の感触に、影は口角を持ち上げた。  この瞬間をどれだけ待ち侘びただろう。自身の存在がこの世から忘れ去られてしまうほど長い年月、海の底深くに沈められていた。朽ちる身体を、枯れる声を、曖昧にほどけていく意識を、ただ眺めることしかできなかった苦痛を果たしてあの女は知っているのだろうか。気が遠くなるほどの歳月を必死に抗い続けてきたのは皮肉にもあの女への憎悪があったからこそだった。  踏み出すたび、影がかたちを取り戻す。ああ、と思わず洩れる歓喜の吐息。  開きつつある門から我先に飛び出すのは、はるか昔に閉じこめられた海のものたち。もはや思念の存在と化した彼らは、港に集まっていた人間たちに憑りつきその身を奪おうと躍起になっている。四方から響く悲鳴が心地よい。唄え。踊れ。マエストロのように振りかざした腕に合わせ、祭祀の舞台で祈りを捧ぐものたちが一層熱をこめる。  何故これほどまでに回生を望んだのだったか──ふと、影は思案した。幾百年も闇に紛れている間に現世の記憶をぽっかり失ってしまっていた。再び海のものたちの治世を取り戻すため。深淵へと追いやった人間どもへ報復するため。この港を海へ沈めるため。どれも本意のようで、どれも得心がいかない。ならばこれほどまでにこの小さな港町に執着した理由は。  ふ、と。過ぎった気配に、それまでの疑問も忘れ影は陸地へ視線を走らせた。  いる、いるぞ、あの女だ!  身体が歓喜に打ち震える。あの女の気配をまさか違えるはずがない。とうの昔に生を終えたものと思っていたが、よもやこの世界にしがみついているとは。影は嘲笑う。絶対的な光を纏っていた奴も結局は自分と同様ただの亡霊ではないか、と。  小脇に抱えていた娘をおもむろに投げ捨てる。うっすら感じる血脈から察するに─影の体感では─つい先刻、復活の儀を編んだ海棲の葉末だろう。その身を得る寸前、あの女の意志を継ぐ光に阻まれ遂げられなかったが、どうやら今回は成し得たらしい。  意識の無い娘が徐々に海に呑まれていく。あの血の薄さでどれだけ永らえるか、影にとってはどうでもよかった。弱き者に未来など無い。意識を向けるはただひとり、今もこの港を彷徨っている仇敵のみ。  蛇に似た舌がちろりとくちびるを舐める。確かめるように喉を鳴らし音を紡ぐ。声が伸びる、唄が満ちる、ああ、自由に唄えるとはなんと甘美なことか!  ついに舞台へ降り立ったそれはもはや影とは呼べなかった。現世での姿を完全に得たかつての王は、深淵色の眸で故郷を見渡し高らかに唄い上げる。海に沈みゆくあの娘が掘り起こした唄を、息を潜めているであろう憎き姫へ向けて。  ダニエラよ。王が愉悦に微笑む。  ──おまえに本当の祝祭を見せてやる、だから早く。
Op.5  物心ついたころから、一番上のお姉さまが母親代わりだった。  あの唄も、このレシピも、あなたが寝入りばなにせがむ物語も全部、お母様が教えてくれたものなのよ──お姉さまは口癖のようにそう言う。まるで顔も知らないお母さまをわたしの中に根付かせようとするみたいに。  だけどわたしはお母さまの唄声も、料理の味も、やさしく微笑みかけてくれてたであろう顔さえ覚えてない。お母さまを想って頬をゆるませるお姉さまが、あまり快く思ってなくて顔をしかめるあねさまが、だからちょっぴり羨ましくて。姉ふたりと思い出話であれなんであれ感情を共有できないことに疎外感みたいなものを覚えてもいて。  そんなわたしがお母さまをたどる術といえば、なぜかわたしに残された日記帳ひとつ。  波間みたいに透けた水かきが綺麗だったわ、よくお乳を飲む子なの、きっとお姉ちゃんたちよりうんと活発に育つわね──右肩上がりの癖字で記録された幼いころのわたしがなんだかまぶしくて、いつも半ばで閉じてしまう。  日記帳の合間に日常以外が差し挟まれることがあった。お姉さまがよく語り聞かせてくれるおとぎ話から、聞いたことのない伝説──特にこの海に関する記述が、お母さまの注釈や意味の汲めない詞と一緒に残ってた。  そうだ、願いが叶う壺。あれはお姉さまの口上じゃなくて、克明に描かれた絵とともにわたしの記憶に引っかかって── 「─…なさい、──…お願い、目を覚まして……っ」  漂う意識を引っ張り上げてくれたのは、よく知った声だった。  のどに詰まってた水を吐き出す。息を吸いこむたび胸が痛む。口の中がしょっぱい。  ゆっくりまぶたを開けて、何度かまたたいて。  曇り空を背負ったお姉さまが必死な表情で覗きこんできた。頬を流れる雫は涙か海水か、それとも雨でも降ってるんだろうか。拭おうにも腕がうまく持ち上がらなくて、だけど落ちていく手を包みこんだお姉さまがぎゅうと自分の額に押しつけた。 「おね、さま…? ど、して…ここは…?」  お姉さまの膝の上で首をめぐらせる。  お姉さまと相対するようにそびえる巨大な門。祝祭のために設えられたそれは門扉を大きく開けてるのに、濃い闇が満ちていて向こう側が窺い知れない。いまいち掴めない状況でふと、壺を見つけたことを思い出した。  壺に指輪を投げ入れれば願いが叶う。鍵となる指輪は代々受け継がれてきたけど、壺は最初の願いを遂げたすぐあと、海の底深くに沈められたんだとか。  だけど青年が抱えてた壺が、言い伝えをもとにお母さまが描いた絵とそっくりだったから。だからほんの少しだけ信じてみたくなった、お母さまの残した言葉を。壺も指輪も本物なら、どんな願いでも叶えてくれるというのなら、わたしはただ、ただ、 「……わたしのせい、なのね」  遠く、だれかの悲鳴が響く。海の底よりもまだ深い淵の眸を思い出し、背筋が震える。  お姉さまに誤解されたくなかった。これ以上気負わせたくなかった。だから夜中にこっそり拝借した。恋しいとか寂しいとか、そんなのじゃない。お姉さまが憧れ、あねさまが憎むお母さまというひとにただ、会ってみたかっただけだった。  指輪を投げ入れた直後、だけどごぼり、壺からあふれる澱んだ水にまとわりつかれて意識が途切れ──思えばあの感覚をわたしは知ってた。一年前にほんの一瞬だけ降り注いだ歓喜と恐怖。わたしたちが復活させようと目論んだかのひとの気配だった。  ふわり、やわらかな熱に包まれる。お姉さまの肩越しに見える港町で上がる火の手。逃げ惑う人々。襲い来る影。地獄のただ中で、禍々しいそれが高らかに唄う、笑う。  お姉さまはきっと気付いてる。大切な指輪を盗んだことも、わたしがこの惨状の元凶だということにも。それなのにわたしを見つめる深海色の眸はこんなにもあたたかい。 「大丈夫よ、お姉ちゃんがついてるから。…だから泣かないで、」  ひどくやさしい声音で呼ばれた名前に、視界がみるみるにじんでいく。  あやすように背中を撫でるお姉さまに縋りながら、きっとお母さまがいたらこんなふうに抱き留めてくれたかもしれない、と。確信するみたいにそう、思った。  ***  まるで裁きが下されているかのようだった。海を離れ地に生きる私たちへ、万古より眠りし血脈を思い出せと言わんばかりに。  町の至るところから上がる黒煙は人間たちの手によるものだ。港を侵食している唄が、彼らを狂気に駆り立てていた。唄の支配をなんとか脱した者たちも、影に追われて逃げ惑っている。  鼓膜に這い寄る声に抗おうと思わず噛みしめたくちびるから血がにじむ。  門の内より現れたのは、かつてこの海を統べていた王そのひと。ちょうど一年前、私たちが顕現を乞うたかのひとは、もはやいきものとしての原型を留めていない影たちを引き連れ港を蹂躙している。  門の向こうに封じられていたのだろうか、ならばこの門はどこへ繋がっているのだろう。もはや考える気力もない。末の妹を助けるだけで精一杯だったのだから。海に打ち捨てられた妹らしき姿を見とめ、無我夢中でここまでやってきた。  どうかあの子を──人波に揉まれる直前、すぐ下の妹はそう叫んだ。無事でいるだろうか。港を振り仰いでも、惨状が広がるばかりで足取りを辿れもしない。  私がなんとかしなくては。再び意識を失った末の妹の手をぎゅうと握りしめる。門を閉じれば収束するのだろうか、けれどこんな巨大なものをひとりでどうやって。たとえ閉められたとして、影は、亡霊は、町の人たちは。  胸に刻まれた漆黒の紋様がじくりと焼けつく。おかあさま。焦燥に駆られてついこぼれた呼びかけに応えはなくて、 「──目覚めてしまったのね」  そのまま波間に消えるはずだった声を、だれかがすくい上げた。  妹を抱き寄せ振り返った先で、覚えのあるものが佇んでいた。忘れもしない、あれはこの世をあまねく照らす光のひとり。みずからを愛の化身だと称する憎き女だった。  音もなく現れたそれは、けれど私たちには目もくれずただ門を見上げている。 「…どうしてここへ」 「その子はきっと願ったのね、お母様に会いたいって」  ひとりごとのように落ちた言葉に敵意を削がれた。ようやく振り向いた女がふわり、この場にはそぐわないほど穏やかに微笑む。 「この門はよく似ているから。だからミシカと繋がってしまったんでしょうね」 「なにを言って…あれはただのお伽噺なのよ。そんな神話の国、存在するはずが、」 「だけどあなたたちは信じたんでしょう? お伽噺も、お母様の言葉も」  覚えておいてね──お母様の声を、顔を、ぬくもりを、ふいに思い出した。  お母様は海の王の復活を願っていたのだろうか。海棲の血を絶やしたくなかったわけではなくて、本当は自分のことを忘れないでいてほしかっただけなんじゃないだろうか。私たちの心の支えとなるように。いつでもそばにいられるように。 「ミシカにいるのは伝説の生き物ばかりじゃないの。人も、海の者も、あのひとだって。この港に生きる人たちが彼らを忘れないかぎり、みんなそこにいるのよ」  私の疑問を汲むように、女は言葉を継ぐ。あのひと、という慕わしさのこもった呼び名が誰を指しているのか、私には分からない。 「…どうせ知っているんでしょ、お前は。この門を再び閉ざす方法を」  精一杯の虚勢をかき集め睨みつける。  しゃがみこんだ女は真正面から私を見つめた。不思議な吸引力を持つ眸に誘われ、状況も忘れ見入ってしまう。どこまでも澄んだ空を思わせる眸。あの女の眸はこんな色だっただろうか。 「ええ。だから来たの」 「ならさっさと為せばいいじゃない」 「どうして?」 「どうして、って」 「わたしは信じているの。あなたの、あなたたちの力を。この港を想う心を」  当然のように向けられた言葉に思わず面食らう。この女は知っているはずなのに。女の最愛の光を貶めようとしたことを。今まさに港を海の底へ沈めんとしているかのひとの再臨を望んだことを。私がどれだけ愚かであるかということを。  悲鳴が、怒声が、赤ん坊の泣き声が、戦慄するほど美しい唄声が。すべてが遠ざかり、ただ目の前で微笑を浮かべる女の声だけが私をやさしく抱き留める。 「わたしたちは干渉しないの。この港にいま、この瞬間息づいているあなたたちが選び取った道こそ正義であり、未来であり、希望だから」  なにかが違っていた。私の知るあの憎き女に似ているけれど、なにかを異にしていた。  女が目尻をゆるめる。この港に棲まう──人ならざる私にさえ赦しを与える、慈愛の笑み。その表情は、私の違和感を肯定するようでもあった。  ふいに地面が揺れ、慌てて妹を抱き寄せる。震源地は狂乱の中心。かのひとがこちらをひたと見つめ、よく通る声でその名を叫んだ。深い愉悦と怨嗟のこもったそれに身体が震える。  だというのに意にも介さず立ち上がった女は、私を見下ろしくしゃりと笑う、まるで少女のように。 「それだけ伝えに来たの、あなたに」  まばゆい光が彼女を包み込む。夜明け色のドレスがはためく。思わずすがめた視線の先、人型へ変貌した彼女はそうしてふ、と。光にとけるように消えた。  またたきをひとつ、ふたつ。光の残滓がまぶたの裏に焼きついて剥がれない。 「─…いつもいつも、勝手なことばかり」  ***   波に遊ばれていた指輪を見つけた時、言い知れない怒りを覚えた。とうに亡くなったあのひとは、この地獄絵図となんの関係もない。けれどあのひとが指輪を託さなければ、物語を伝え聞かせていなければ、呆れるほど平穏な日々が続いていたかもしれないのに。言いがかりだと分かっていても、それでも恨み言を並べずにはいられなかった。  迷ったのは一瞬。指輪を捕まえ、再び海を掻く。  門へと続く大理石の床には姉と、守るように抱きかかえられた妹がいた。 「ああよかった、無事だったのね…! 怪我はない?」 「私はだい、じょうぶ、それよりその子は」  振り返った深海色の眸が安堵をにじませる。駆け寄る私の問いに答えるように、妹が大きく咳きこんだ。うっすら覗く浅瀬色の眸。意識を取り戻したらしい。  思わずその場にへたりこむ。私や姉と違い、この子は長時間潜れない。しかも意識の無い状態で沈むことはすなわち死と同義だった。きっと姉が救ってくれるはずと信じてはいたけれど、それでも妹の指を握りしめてようやく、恐怖に震えていたことに気付いた。  きゅ、と。弱々しく握り返され視線を持ち上げる。よく晴れた日の浅瀬に似た眸から、大粒の涙がいくつも流れ落ちていく。 「ごめ、なさい…あねさま、お姉さま、わたし、」  しゃくり上げる妹の背中を姉がやさしく撫でる。大丈夫よ。姉は繰り返す。大丈夫。妹の名を呼ぶ声が、姿が、表情が、遠い昔に見た誰かと重なった気がした。  刹那、地を揺るがす衝撃音が現実を呼び戻す。  どこかでまた爆発が起こったらしい。港はもはや火の海と化していた。  姉とはぐれた際の混乱を思い出す。唄声によって正気を失った人間たちが火を放ち、いずこからやって来た影が人間を宿主とし──阿鼻叫喚の中心でそれは唄っていた、心底喜ばしいことのように。鼓膜をずるりと這い回る唄は抵抗さえ許さない。一年前に私たちが編んだものとは比べものにならないほど強大な力を前に、ただ姉を追いかけ海に飛び込むことしかできなかった。  炎が海蛇のようにその身を揺らす。  これが私たちの縋ったものの正体なのだろうか。こんな結末を望んでいたのだろうか、私たちは。 「──…ミシカの、伝説」  ぽつり、呟いたのは妹だった。  姉に寄りかかったままの妹は、けれど先ほどよりも眸に光を取り戻しているように見えた。 「音楽によって門が開くなら、門を閉じる鍵は唄、なんじゃないかしら」  言葉ににじむわずかな希望と確信。母の日記帳には神話についても書き記されていた。私たちが忘れてしまったことも、この子は知り得ているのかもしれない。 「だけど唄なんて…まさかこの唄じゃないでしょうし」  姉が眉をひそめる。日記帳になにか残されていないだろうかと淡い期待をこめて妹に視線を向けるも、再び沈んだ表情で首を振るばかり。  誰かの歓喜がこだまする。無力な私たちを嘲笑うかのように。  人間は嫌いだ。虐げられた者たちがいることを知りもせず我が物顔で息をする彼らがどうなろうと知ったことではない。  けれどこの港を失うことはできなかった。人間にも海のものにもなりきれない私たちが生きていける場所は唯一ここだけだから。──結局私は、半端に産まれ落ちてしまった自分自身を一番忌み嫌っているのだ。  お母様。我知らず声がこぼれていく。海も、ひとも、自分さえ受け入れられないのはあなたのせいなのに、あなたは私になにも残してくれなかった。冷たい指輪を握りこむ。お母様。随分久しぶりに口にした呼び名が転がり落ちて、  ──唄が、聴こえた。  耳元に囁きかけるように降ってきた唄に顔を上げる。やさしくて、どこか物悲しい声。姉でも妹でも、ましてや舞台で威を振るう亡霊のものでもない。底に沈めたはずの記憶が顔を覗かせる。誘われるように節を音にした。覚えておいてね。誰かが笑いかける。日差しを受けてきらめく水底に似た眸を持つひと。まっすぐ私を見つめていたあのひと。 「その唄…っ」  はっと目を見開いた姉が、続いて妹が音を乗せていく。光を、そして安息を乞う唄。古の光を呼び覚ますあの詞とは真逆の、御霊を眠りに就かせるための祈りだった。  門がわずかに軋む、けれど閉じるまでには至らない。喉が悲鳴を上げる。私たちでは力不足なのだろうか。姉が手を伸ばしてくる。  そうして──そうして、声が重なった。  音の出処は、いまだ火の手が上がる陸地。傷つき疲弊した港の人間たちが、それでも声を限りに救憐唱を捧げていた。門がゆっくりと閉じていく。  ふいに光があふれた。思わず伏せた視界のなか、門の内より現れる竜、一角獣、水蛇、不死鳥──伝説の生き物たちが、大地を歩き、海を泳ぎ、空を飛び回っていた。竜が炎を鎮め、一角獣が傷ついた者を癒やし、水蛇が影たちを追い立て、不死鳥は舞台の中心でわななくかのひとの目の前に降り立つ。  門から放たれた光が港全体を包み込んでいく。まぶしさに目をすがめる直前、不死鳥が人のかたちを取った気がした。  忘れないでね。まぶたを透かす光のなかで、懐かしい声が遠のいていく。今の今まで記憶に蓋をしていた私に赦しを与えるように彼女が笑う。あなたたちこそわたしの── 「──お母様、」  ごうん、と。光も影も亡霊も神話の生き物もあのひとも、門の向こうへ還る音がした。
Op.6  さむい、くらい、ここはどこだ──闇と自身の境目も判別つかない世界で、影は自嘲した。ああ、また海の底へ引き戻されたのか。  外の世界に散らばるわずかな思念は、脆い人間を操るには充分だった。ミシカの門を模したそれを建造させ、海に沈む願いの壺を引き揚げさせ、こちらとあちらを繋げた。今回こそ成し遂げたはずだった。実際、影は現世での姿を取り戻し、町を混迷させた。あの小さな港を手中に収めたはずだった。  すべてが崩れた原因は一篇の唄。海の血を引く葉末たちが編んだ音に、人間たちの声が折り重なっていく。抗えるはずのなかった呪縛を脱し、必死に喉を絞る人間に応えるように女は現れた。不死鳥から姿を転じたその女は相変わらず忌々しいほど澄んだ笑みを浮かべていた。闇の終わりを思わせる眸も、夜を侵食する衣も、なにものにも平等に与える慈愛もなにもかもが憎らしかった。かえりましょう。女が手を差し伸ばす。還る場所などどこにもないというのに。力も故郷も唄さえも、すべてを奪ったのはおまえだというのに。  抵抗しても無駄だとどこかで諦めていた。どれだけ策を弄しようといつもここへ帰結するのだ、それならもういっそ。影が眸を閉ざす。身体が、意識が、闇にほどけていく。さむい、くらい、にくい、さみしい── 「──奪ってなんかいないわ」  鼓膜を掠めるように降った声に、意識が引き戻された。  暗闇の中で、影は再び目を覚ます。姿は見えないが、確かに間近にある気配に口角を吊り上げる。 「これで満足か、おまえは。こんな闇の只中へ未来永劫閉じ込めて」  女は答えない。静寂が満ちる世界で、影はふと思い出した、この女を求めていたのだと。己を見失いそうになるほどの長い年月抗い続けたのは、もう一度この女とまみえるためだったのだ、と。  ふいに触れたぬくもりが、影に自身の姿を思い出させる。憎らしいほど晴れ渡った空を想起させる眸にはかつての王が映りこんでいた。ふ、と。色が、音が、声が、戻ってくる感覚。まるで熱が馴染んでいくように、頬にじわりと体温が灯る。 「ここには声がある、唄がある、リズムがある。あなたが目を閉ざしていただけ、耳を塞いでいただけ、─…わたしがあなたと向き合わなかっただけなの」  頬を包み込んだまま、女はくしゃりと笑う。一国の姫らしからぬ表情に覚えがあった。影が──彼女が求めてやまなかった、ただひとりに向けられた笑みだった。 「もう自由に唄っていいのよ。…だってここは、パラダイスの港だもの」  ダニエラのぬくもりをたどるように目を閉じた彼女は、ぽつり、唄を紡いだ。  *** 「もう少し手伝ってよ、あねさまぁ」  レンガを組みながら嘆いても、あねさまはひらりと手を振るばかりで軒下から動こうとしない。まったく、さっきからわたしばっかり働いてるじゃないの。モルタルを塗り重ねながら文句を垂れる。  帰り着いた家はそれはもう酷い有様だったけど、どうにか火事は免れたようだった。どの家とも隣接してないのが幸いしたのかもしれない。崩れた屋根や壁や生け垣の修繕に手分けして当たってたのに、がれきを拾い集めたあねさまは、自分の仕事は終わったとばかりに日陰に腰を下ろして呑気に空を見上げてた。  コテを投げ捨て、あごをつたう汗を拭う。もう冬はすぐそこにいるはずなのに、容赦なくわたしを焼く太陽にうんざりする。  昨日の暗雲が嘘のように澄み渡った空だった。海の王がよみがえったことも、神話の国と繋がったことも、伝説の生き物が降り立ったことも、もしかすると幻だったんじゃないかと疑いそうになるけど、見晴るかした町にはたしかに惨禍の爪跡が残されてる。  だけどこの港のひとたちは、壁を塗りかえる口実ができたと笑って復興に精を出してる。いい意味でも悪い意味でも陽気な性格が、いまはありがたかった。  ふ、と。流れた唄声が青空にとけていく。死者に捧げる鎮魂歌。聴き覚えのあるそれが一節唄い終わるのを待ってから振り向いた。 「ねぇあねさま。どうして思い出したの、その唄」  ぱちり、考えこむようにあねさまがまたたく。水底を映したような淡い眸はお母さまにそっくりなのだと、いつだったかお姉さまが言ってた。その眸がきゅうと細められる。懐かしむように、いとおしむみたいに。 「…聴こえたのよ。恨めしくて、だけどひどく落ち着く声が」  あねさまに語りかけたのはきっと、お母さまなんだろう。あの門の向こう──海の底にあるというミシカの国にいるお母さまが、わたしたちに力添えしてくれたのかもしれない。  わたしは相変わらず声も姿もぬくもりだって覚えてはいないけど、いまはそれでいいと思えた。会おうと思えばきっといつだって会えるし、それに、 「お疲れ様。少し休憩にしましょ」 「わっ、レモネードだ! お姉さま、だぁいすき!」  お姉さまの頬に口づけ、我先にとグラスを手に取る。冷えたグラスが心地いい。この子ったら、と微笑むお姉さまに、いつかのだれかを透かし見る。  ──それにわたしには、お母さまによく似た姉がふたりもいるんだもの。
Op.7  墓を飾るとりどりの花はいつもより少しだけ誇らしげに見えた。  ご無沙汰していてごめんなさい。眠りに就いて久しいそのひとへ心の中で語りかける。以前は頻繁に花を生けていたけれど、一年前のあの祝祭が失敗に終わって以降、勝手に後ろめたさを感じて足が遠のいていた。一族の悲願を絶やしてしまったから。母の望みさえ叶えられなかったと思い込んでいたから。  末の妹が葬送の唄を口ずさむ。指を組み合わせ、うら悲しい旋律を奏でる姿は在りし日の母に似ている。  後を継ぐように次妹が紡ぐは永遠の安息。静謐な歌声が澄んだ空気にとけていく。やわらかな祈りに応えるように菊がその身を揺らす。母の面影を色濃く残した唄に、声に、姿に、目の奥がつんと訴える。私たちが忘れてしまっていただけで、こんなにも深く母が刻みこまれていた。  そ、と。首から提げた指輪を握りしめる。母にとっての希望が私たちであるなら──海にも陸にも属する私たちがこの港で生きていくことこそあのひとの願いなら。 「─…また来るわね、お母様」  港の喧騒を乗せた海風が吹き抜けていく。ようやく戻った日常に苦笑をひとつ。結局これが私たちの最善であり、未来であり、生きるべき道なんだろう、と思う。  水平線の向こうに見えた光につ、と目をすがめる。今日の天気はきっと、晴れ。 (あなたが生きていたこの世界で、私は今日も、唄を紡ぐ)
 母の希望と姉妹の未来のお話。  2023.10.31