Gloria RV.589

ciclo infinito T  祝祭は今や最高潮に達していた。  朗々と紡がれる甦生の唄。織り成すは我らが姉。再臨の儀を考案したその人は内海に漕ぎ出し、やがて来たるその時を待ち焦がれていた。  これは私たち海棲の裔が成すべき悲願だから──姉の口癖がふとよみがえる。幼い頃より語り聞かせられてきたお伽噺は、いつの間にか姉の使命になっていた。余計なものまで背負い込んでしまう姉は、妹ふたりの人生まで抱え込んでしまったのだ。私たちが息をしやすいように、誰の目も気にすることなく陽の下を歩けるように。切実すぎる姉の願いを、祈りを、どうして無下にすることができようか。少なくとも私は姉の計画に賛同する以外の選択肢はなかった。この人の願いの成就、ただそれだけが私の道だった。  姉の歌声が海を渡り、小さな港町を包み込む。荘厳な音色にとらわれた人々が、姉の意のままに歌い踊る。さながら操り人形のような醜態は彼らに相応しい。  不意に轟く雷鳴。地をも揺るがすそれに思わず怖気立つ。水平線に沈みゆく夕陽が、最後の足掻きとばかりに網膜を焼いていく。忌々しいはずのその光に何故だか縋りつきたくなった。嫌な予感に震えが止まらない。鼓膜を支配していた歌声が止む。遠目にもそれと分かるほど目を輝かせた姉が両腕を広げる、まるで海をいだくかのように。 「真の王よ、いざ──!」  ──天から海へまっすぐに稲妻が走った。しん、と満ちる異様な気配。  状況を確認しようにも、突如として立ち込めた霧が視界を塞いでいる。不気味なまでの静寂の中、ただ姉のことだけが気がかりだった。だってお姉様が言っていた、供儀を捧げることによってかの人が復活するのだと。その意味を、意図を、真意を、果たして私は汲み取れていただろうか。供儀とはつまり唄や踊りではなく、 「お姉さま、あねさまぁ…っ!」  霧をかき分けて届いた妹の呼び声に振り返った。立ち塞がる影にぐ、と息を呑む。 「あね、さま、」  妹によく似た声を発する影が、翼をはためかせた。畏怖さえ覚える巨大な両翼に足が竦む。これは、なに。確かに妹の顔で、妹の声で、けれど妹には似つかわしくない凶悪な鉤爪を、翼を持ったこれは、一体。  恐怖に固まる私に一歩一歩、妹に擬態したそれが近付く。覆い隠すように見下ろしてきた影が大口を開けて、ぽたり、ひと粒の涙をこぼした。 「にげて、…にげて、あねさま」  ああこれは、この子は紛れもなく妹なのだと理解してしまった。どうして、と。疑問も許されずただ迫る牙を見つめる私の耳に、悲痛な高笑いだけが響いてやまなかった。
ciclo infinito U  祝祭は今や最高潮に達してた。  高らかに響く歌声はお姉さまのもの。散逸してた詞とか旋律をどうにかこうにか形にして、唄として編む力は他のだれにも真似できない。そんなお姉さまはいま海の真ん中、この日のためにあつらえた船で儀式を進めてる。  これは私たち海棲の裔が成すべき悲願だから──耳にたこができるくらい聞いてきたお姉さまの口癖。それがまさか現実になるなんて。わたしたちがのびのびと生きられるように、だれの目も気にせず海を泳げるように。そんな願いも祈りも王だって必要ないのに。隣にお姉さまとあねさまがいてくれたら、それだけでいいのに。だけどお姉さまが願うから、祈るから、だからわたしは、お姉さまの意に沿って喉を絞るのみ。  わたしたちの歌声に惑わされた人たちが一心不乱に舞い踊る。見知った町の人たちが海のいきものに扮装して、仮面の下で笑う様子は不気味で滑稽で、どこか悲しかった。  不意に響き渡る雷鳴。めまいさえ覚える轟きに思わず身体が震える。海へ呑まれゆく夕陽が水平線を色濃く照らす、まるでなにかを訴えるみたいに。嫌な予感がする。このまま進んじゃいけないような、確信にも似た恐怖に襲われる。遠くへ投げた視線の先、ふつりと音を収めたお姉さまが両腕を広げる、さながら太陽を呑みこむように。 「真の王よ、いざ──!」  ──空から海へまっすぐに稲妻が走った。しん、と空気が冴えわたる。  ぐちゃり。湿ったなにかが地面に落ちる音がした。深い霧のなかで目を凝らす。そうしてようやく見つけたのは、男の子の顔、だった。さっきまですぐそばで踊ってたはずの彼の首から上が、笑顔を浮かべたまま足元に転がってた。おそるおそる顔を上げる。海豚をモチーフにした衣装をまとった小さな身体がまだリズムを刻んでる。首の断面がごぼごぼと泡立ち、肉塊がうごめき、やがて不格好な海豚の頭を象った。  悲鳴も出なかった、よろめきながら駆け出した、姉ふたりのことばかりが心配だった。王を、海のいきものたちを、とうに朽ちたものたちを復活させるのに必要なのは唄でも踊りでもない。こんなの絶対、お姉さまが望んだ結末なんかじゃない。  顔が、指が、背中が、焼けるみたいに熱を持つ。視界の端が血の色に染まっていく。お姉さま、あねさま。こわくて恐ろしくてようやく叫んだ。どこにいるの、返事してよ。懇願は声にならなかった。だれかの気配、馴染んだにおい、あねさまが呆然と見上げてくる、ああよかった無事だった、ばさりと背中でなにかがはためく、不明瞭な唄が頭のなかで喚き散らす、まだあねさまは大丈夫、安堵と恐怖が交互に襲ってくる、水底色の眸が見開かれる、ああかわいそうにとらわれちゃったのね、だったらわたしが、 「にげて、…にげて、あねさま」
ciclo infinito V  祝祭は今や最高潮に達していた。  海の只中でただひとり、紡ぐは回生の唄。声がどこまでも伸びていく。この日のために昼夜を分かたず旋律を編み上げた成果だろうか。この唄ならばきっと、海に沈むかの人にまで届くはず。そんな確信に包まれていた。  これは私たち海棲の裔が成すべき悲願だから──自身の口癖が、まさか成就する日が来るだなんて思ってもみなかった。妹たちに語り聞かせている私こそ、こんなものただのお伽噺だと諦めてさえいた。けれどあの『海の声』が聴こえてしまったから。妹たちの進む道から影を取り払いたかったから。ただその一心で唄を編んだのだ。  妹ふたりの助力もあってか、港の人間たちは私の思うがまま歌い、踊り、王の再臨を待ちわびている。その昔、人間たちの手で故郷を追われた海の眷属たちの装束をまとい、みずからの破滅に向かう様はどこか滑稽で、けれどわずかに胸が痛む光景でもあった。  不意にどよめく雷鳴。邪念を消し去るようなそれに我知らず身体が震える。ああ遂に。期待とは裏腹にふと嫌な予感が差した。私の決断は間違っていないだろうか。果たして本当にこれを呼び寄せてよいものだろうか。  両腕を広げる。ここまで来てもはや引き下がれるはずもなかった。 「真の王よ、いざ──!」  ──天から海へまっすぐに稲妻が走った。しん、と不気味な静寂が落ちる。  胸元に鋭い痛みを覚えた。視線を落とした先、漆黒の紋様がいきもののように蠢き、その枝葉を伸ばしていた。肌を焼かんばかりの痛みに呻き声を洩らそうとして、けれど喉が思うように音を発してくれなかった。まるで何者かに声を奪い去られたみたいに。 「お姉さま、あねさまぁ…っ!」  悲痛な呼び声に急いで顔を上げる。立ち込める霧が視界を覆う中、次妹がいるはずの波止場に妹と、妹に近付くなにかの姿を捉えた。末の妹に似た体躯であるものの、その背には人ひとりすっぽり隠してしまえるほど巨大な翼が生えている。あんないきもの、見たことがない。けれど今しがたの声は確かにあの方向から聞こえたはず。ではあれは、禍々しい怪鳥にも似たあの子は。  絶望よりも早く忍び込んできたのは歓喜。全身が、精神が、魂が、今この瞬間を全身全霊で享受していた。だってようやくこの地に還ってきたのだ、それ以上の悦びがあるだろうか。不明瞭な言葉が頭を占める、視界の端が闇に侵されていく。だがこれだけでは足りない、ならば納得のいくまで繰り返せばいい、なにせ時間は山ほどある。  誰かの声が親密に囁きかける。あの子たちは無事だろうか、そんな不安の最後のひとかけらがふつり、かき消える直前、私の声で、私の知らない笑い声が、高らかに響いた。
ciclo infinito W  祝祭は今や最高潮に達していた。  朗々と紡がれる甦生の唄。織り成すは我らが姉。再臨の儀を考案したその人は内海に漕ぎ出し、やがて来たるその時を待ち焦がれていた。  これは私たち海棲の裔が成すべき悲願だから──姉の口癖がふとよみがえる。幼い頃より語り聞かせられてきたお伽噺は、いつの間にか姉の使命になっていた。余計なものまで背負い込んでしまう姉は、妹ふたりの人生まで抱え込んでしまったのだ。私たちが息をしやすいように、誰の目も気にすることなく陽の下を歩けるように。切実すぎる姉の願いを、祈りを、どうして無下にすることができようか。少なくとも私は姉の計画に賛同する以外の選択肢はなかった。この人の願いの成就、ただそれだけが私の道だった。  姉の歌声が海を渡り、小さな港町を包み込む。荘厳な音色にとらわれた人々が、姉の意のままに歌い踊る。さながら操り人形のような醜態は彼らに相応しい。  不意に轟く雷鳴。地をも揺るがすそれに思わず怖気立つ。水平線に沈みゆく夕陽が、最後の足掻きとばかりに網膜を焼いていく。忌々しいはずのその光に何故だか縋りつきたくなった。嫌な予感に震えが止まらない。鼓膜を支配していた歌声が止む。遠目にもそれと分かるほど目を輝かせた姉が両腕を広げる、まるで海をいだくかのように。 「真の王よ、いざ──!」  ──天から海へまっすぐに稲妻が走った。しん、と満ちる異様な気配。  状況を確認しようにも、突如として立ち込めた霧が視界を塞いでいる。不気味なまでの静寂の中、ただ姉のことだけが気がかりだった。だってお姉様が言っていた、供儀を捧げることによってかの人が復活するのだと。その意味を、意図を、真意を、果たして私は汲み取れていただろうか。供儀とはつまり唄や踊りではなく、 「お姉さま、あねさまぁ…っ!」  霧をかき分けて届いた妹の呼び声に振り返った。立ち塞がる影にぐ、と息を呑む。 「あね、さま、」  妹によく似た声を発する影が、翼をはためかせた。畏怖さえ覚える巨大な両翼に足が竦む。これは、なに。確かに妹の顔で、妹の声で、けれど妹には似つかわしくない凶悪な鉤爪を、翼を持ったこれは、一体。  恐怖に固まる私に一歩一歩、妹に擬態したそれが近付く。覆い隠すように見下ろしてきた影が大口を開けて、ぽたり、ひと粒の涙をこぼした。 「にげて、…にげて、あねさま」  ああこれは、この子は紛れもなく妹なのだと理解してしまった。どうして、と。疑問も許されずただ迫る牙を見つめる私の耳に、悲痛な高笑いだけが響いてやまなくて──  ──なにかがおかしいと思った。だって私はこの光景をもう四度も目にしているのだ。目の前で待ち構えている口から発せられる死臭が鼻を突く。狂気を孕んだ歓呼の声が耳にこびりついて離れない。異形に成り果てた妹との遭遇も、姉の声なのに馴染みのない高笑いも、私はもう四回も体験しているのだ。デジャヴと呼ぶにはあまりに強烈で、夢と切り捨てるにはあまりに鮮烈すぎた。  私は、今この瞬間を、知っている。  くずおれるように腰を屈める。頭上で鈍い音が響く。先ほどまで頭があった位置で、妹の牙ががちりと?み合わされた。頭蓋を噛み砕かれる感覚など経験しようもないのに、ありありと浮かんだ存在しないはずの記憶に背筋が凍る。  私を仕留め損ねたそれが緩慢に見下ろしてくる。澄んだ浅瀬色だったはずの眸は濁り、姉の姿さえその目に映してはくれなかった。  にげて。最後に聞いた妹の言葉を思い出し、まろびながら駆け出した。美しくも戦慄する歌声が追いかけてくる。妹の声に似ていて、けれどおぞましいなにかが。  徐々に開けていく視界に現れた、気味の悪い怪物たち─少年の生首を抱えた海豚、歪な鱗をまとう鮫、口からごぼごぼと血を溢れさせる海蛇─せり上がった胃液をなんとか飲み下す。霧の晴れた港はまさに地獄の様相を呈していた。  お姉様。震える膝を叱咤し、絶えていく呼吸をかき集めながらただ、姉の姿を探した。海の只中に浮かんだ船は微動だにしない。あれほど全霊で唄を編んでいたその人の影も形も窺えない。まさかお姉様まで異形と化してしまったのか、それとも化物に呑まれてしまったのか。誰よりも海の血を色濃く継いだ姉に限ってそんなはずはないと言い聞かせている自分自身が、姉の安否を信じられずにいた。  たどり着いた桟橋で堪えきれずに膝を突く。ここからなら姉が乗っているはずの船を確認できるはず。一縷の望みをかけて目を凝らす。霧が散り散りになる。水平線に喰われる直前、斜陽が船上に佇むそれを照らし出す。  ──あれは姉なんかじゃない、ひと目でそう確信した。  まとめていたはずの髪をほどき、背を反らして笑う様は到底姉の仕草ではなかった。遠目からでも重くのしかかる禍々しい気配が姉のものであるはずがなかった。果たしてあれが姉の呼び寄せたかったものなのだろうか。すべてを賭してまで復活を乞うた結果がこの惨状なのだろうか。記憶がやかましく渦を巻く。そこかしこで轟く歓喜に心臓を握り潰される。甲高い笑い声を響かせていたそれがふ、と、なにかをたどるように視線を向けてきた。深淵を思わせる昏い眸が語りかける、願え、と、私は、 「私は、もう一度、」
ciclo infinito X  耳をつんざく叫びが自身のものだと気付くのに随分と時間がかかった。  飛び起き様に膝を抱える。びっしょりと汗をかいているのに身体の震えが止まらない。  あれは夢、なのだろうか。脳裏にこびりついた光景がよみがえる。異形と化した妹は、姉の姿をしたなにかは、奇怪な海のいきものへと転じた港の人間たちは、果たして私の夢の産物なのだろうか。──いいえ、この身にまざまざと残る痛みが、恐怖が、感覚が、あれは単なる悪夢ではないのだと訴えていた。  気怠い身体でなんとか自室を抜け出す。あの惨状が現実のものとして、何故私は家に戻っているのだろう。姉たちは、港は、あの後どんな結末を辿ってしまったのだろうか。  不安に駆られながら廊下を進み、けれど足を踏み入れたキッチンで焼き立てのパンの香りに出迎えられた。 「あら。ようやく起きたのね、おはよう」 「こんな日に寝坊だなんて、あねさまったら呑気なのねぇ」  台所に立つ姉が微笑み、ダイニングテーブルに頬杖を突いた妹が呆れていた。普段となんら変わりない光景にまばたきを繰り返す。朝の陽気に包まれたふたりから、記憶に残るあの禍々しい気配は欠片も窺えない。やはりただ夢見が悪かっただけなのだろうか。確信を持っていたはずなのに、このふたりを前にすると途端に馬鹿らしく思えてきた、 「早く食べて支度しなさいな、──今日は待ちに待った祝祭なんだから」  のに。昂りを隠しきれない姉の一言に、背筋が凍った。そうだ、そうよ、私は覚えている。いつもどおり姉お手製の朝食を食べて、妹と軽く口喧嘩をして、この身に眠る海の色をまとい、趣向を凝らした祭りに心躍らせる港の民を横目に、姉は海へと漕ぎ出し、私は妹と古の唄を紡ぐ。そうよ、だってこれは私にとって五度目の祝祭なんだから。 「だっ、だめよ!」  がちゃりと食器が文句を垂れる。姉と妹はそろって目を丸め、突然テーブルを叩いた私に怪訝な表情を向けてきた。 「どうしたのよあねさま。低血圧?」 「具合が悪いならもう少し寝ていてもいいのよ」 「そうじゃなくて、その、…今日の計画は、中止にしましょう」  恐る恐る切り出した提案に、今度こそ姉が不審を露わにした。昨日まで追随していた妹が急に中止を申し入れたのだ、その反応も無理もない。 「それだけは聞き入れられないわ。言ったでしょ、これは私たちの悲願だって」  説き伏せるでもなくただ淡々と告げられる。姉の願いも希望も痛いほど分かっている。この日をどれほど待ち望んでいたかも、それを説得するだけの充分な材料がないことも。 「…ごめんなさい。やっぱり少し、本調子じゃないみたい」  底の窺えない深海色の眸を前に結局、力無く椅子に腰かけビスコッティをかじった。 「もうすぐ、─…かのお方がお戻りになりさえすれば、私たちは、」  歓喜に濡れた呟きが、誰が拾うでもなく落ちていく。ここ数ヶ月の姉はずっと、この計画の先ばかり見つめている。それこそが彼女の生きる糧にすり替わっているようでもあった。ならば私は祈るしかない。あれがただの夢であることを。あるいは今回こそ、姉の願いがそのままの形で成就することを。  朝食を食べ、揃いの衣裳に身を包む。はるか昔、私たちの祖は生まれたままのこの姿で、海と陸地を自由に行き来していたのだという。そんな伝説になぞらえた祝祭を開催しましょう。姉のひと言で、今年の催しが決定したのだった。  町へ繰り出す。秋も枯れようというのに陽気な日差しの下、港の人々は一年に一度の祭りに興じていた。恐らくは各々の家庭で語り聞かせられてきたのであろう海のものの衣裳をあつらえた彼らはきっと、その装束が何を意味するのかも知らないのだろう。 「お姉さんのその衣裳、とっても素敵ね! なにをモチーフにしてるの?」  鰭をたなびかせた少女は確か、靴磨きの娘だったか。無邪気な問いが眩しくてふいと視線を逸らす。姉はもう、傾きつつある陽を受けながら単身、港へ向かっていた。 「決まっているじゃない、──セイレーンよ」  雷鳴が轟く。地をも揺るがすそれに思わず怖気立つ。もはや馴染みつつある感覚に、お姉様、と。届かないと分かっていながらそれでも声を限りに呼びかけた。 「真の王よ、いざ──!」  ──天から海へまっすぐに稲妻が走った。しん、と満ちる異様な気配。視界を塞ぐ霧を前に悪寒が止まらない。まさか、まさか、まさか。言うことをきかない足に鞭を打つ。少年の生首を抱えた海豚、歪な鱗をまとう鮫、口からごぼごぼと血を溢れさせる海蛇、そして生々しい鰭をたなびかせる少女だったなにかとすれ違い、覚えるのは絶望。  届かなかった、声も願いも祈りもなにもかも。  戦慄するほど美しい高笑いに足が竦む。遥か先の海上で、姉の姿をしたそれがす、と。こちらを見据え、ゆるり、愉快そうに口角を持ち上げる。  ──セイレーンはその歌声で人々を惑わし、破滅へと導く。疑っていたわけではないけれど、それでも確かに私たちは、その血を色濃く継いでいるのだろう。だって私は、私たちは、この港は、とうに破滅への道に囚われてしまったのだから。  深淵を思わせる昏い眸が語りかける、願え、と、この声を私は、どこかで、 「私は、もう一度、」
ciclo infinito Y  この世の終わりみたいな叫び声に、一瞬背筋がひやりとした。 「…猫の鳴き声、じゃないわよね」 「あの子の部屋から聞こえてきたみたい」  お姉さまとそろって廊下の先を見つめる。声はそれきり途絶えてしまった。 「まったくあねさまったら。どうせネズミが出たとかそんなところよ、絶対」  文句とともに席を立つ。心配を悟られるのが恥ずかしくてわざと呆れたふうを装ったけど、さっきの悲鳴がネズミと遭遇したときのものじゃないことは明白だった。もっと怯えに満ちたなにか。それこそこの世の終わりを見てしまったかのような絶叫だった。 「あねさま、起きてるの? 入っちゃうわよ」  扉の隙間からおそるおそる覗く。果たして部屋の主はベッドの上で、なにかの目から逃れるみたいに膝を抱えて震えてた。 「ちょっとあねさま、どうしたのよ…っ、なにかあった?」 「…きょう、今日は…何日…?」  慌てて駆け寄って肩を揺する。その冷たさに驚いた。汗が冷えたんだろうか、ううん、まるで海の底へもぐったような、そんな体温だ。ようやくわたしの存在に気付いたのか、ゆっくり顔を上げたあねさまはだけどまだ虚ろな視線のまま呟いた。 「まだ寝ぼけてるのね。今日は祝祭当日よ。頑張って早起きしたんだから、わたし」  落ち着かせたくて、ことさら冗談めかしてみせる。  そう、今日は一年に一度の祝祭。港全体が浮かれ騒ぐこの日は、わたしたちの命運を賭けた一日になる予定だった。早起きしたんじゃなくて正しくは眠れなかったんだけど。お姉さまが入念に練り上げた計画を疑ってなんかいない。だけどやっぱり不安も恐怖も緊張も拭えはしなかった。 「そんな…! 私はまた、戻ってきてしまったというの…?」  わたしの返事に、それまで焦点の合わなかった浅瀬色の眸が見開かれた。声に、表情に、明らかな絶望がにじんでる。戻ってきてしまった、ってどういうことなの。意味を尋ねるよりも早く両肩を掴まれた。乱暴な手つきに思わずうめき声をあげる。 「聞いてちょうだい。今日の計画は中止にしなければならないの」 「な、なにを言ってるの、あねさま。散々話し合って決めたでしょ、お姉さまの願いを遂げさせようって。どこまでもお姉さまについていくって」 「そう思っていたけれど、でも、駄目なのよ…このままじゃ駄目なの…」  この計画が無茶だってことくらい、きっとお姉さま自身が一番よく知ってる。だけどお姉さまがわたしたちのために紡いでくれた祈りを無駄にはしない、そう誓ったのに。 「繰り返さないためにはどうしたらいいの…。あんな姿、もう見たくないのに…」  震える声が吐き出す言葉のひとかけらも意味が汲み取れなくて途方に暮れる。  わたしよりもお姉さまと一緒にいたあねさまのほうがお姉さまの気持ちを理解してるはずで、しかもつい昨日まではいつもどおりだったはずなのに。もしかして計画が失敗する夢でも見たんだろうか。でも悪い夢を見ただけよ、なんて簡単に宥められなかった。 「ねえ、どうすればお姉様を、あなたを救えるのかしら、私は、どうすれば…」  夢だと一蹴するにはあんまりにも真剣で、あんまりにも切実な眸だったから。 「あのお姉さまがいまさら計画を中止するとは思えないけど…」  至極真っ当な意見に、あねさまが肩を落とす。今日のためになにもかもを投げ打ってきたお姉さまが、あと一歩のところで計画を取りやめるはずがない。 「せめて進行を変えられれば、抜け出す糸口が見えるかもしれないのだけれど…」 「それならゲストを呼んで、引っかき回してもらえばいいんじゃない? たとえば、」  ぱっと浮かんだ名前を口にする。港を照らす光。ここの人たちから慕われてるそれと面識はないけど、お祭りごとがすきって話だし、招待状を送れば参加してくれるんじゃないかしら。適当な提案に、顔を輝かせたあねさまがやがて思いっきり抱きついてきた。 「それよ、それだわ、それしかないわ! さすが私の妹ね、愛してるわ!」  ***  陽が天頂から引きずり下ろされ始めた頃、奴は現れた。  神でも王でもない。けれどこの港を、海の向こうさえも照らす光なのだと人は言う。噂は耳にすれど姿は見かけないものだからてっきりお伽噺や伝承だとかそういった類の存在だとばかり思っていた。  それが今眼前で、招待状を受け取ったのだと、にこやかに手を差し出してきていた。  投函した覚えのない手紙を検める。その筆跡はどう見てもすぐ下の妹のものだった。  思い返せば今朝からどうにも妙だった。起き抜けに耳をつんざくような悲鳴をあげたのもそうだけれど、末の妹と連れ立って現れたかと思えばどこか落ち着きのない様子で窺ってきたのだ。式次を再考するつもりはないのよね、と。今日に賭ける想いとは別のなにかを知っているような、そんな口振りに思わず決意が揺らぎかけた。  きっかけは、そう、海の底深くから届いたあの声──いつもと変わらずつま先を波に遊ばせていた夜、しじまな海に不気味に響く何者かの言葉が、私を今日へと駆り立てた。真偽の知れない文献を昼夜問わず漁ったのも、ようやく織り成した古の唄に縋ったのも、すべては妹たちのため。この港が再び海のものたちの世となれば、この子たちは海でも陸でも自由に息ができるようになるはずだから、誰の目に怯えることなく生きていけるはずだから、だから私はかのひとを、 「はじめましてだね、お招きいただきありがとう!」  邪気の無い挨拶に我に返る。まっさらな手はこちらに差し伸ばされたまま。疑うことをまるで知らない無垢な眸に微笑みかける。妹がどういう意図でこれを呼びつけたのか分からないけれど、むしろ好都合だった。 「こちらこそ。あなたのおかげでより素敵な祝祭となるに違いないわ」  握手の代わりに、衣裳の裾を持ち上げ恭しく一礼してみせる。 「友人たちと過ごすこの日にもそろそろ退屈してきたところだったんだよ。きみたちはどんな一日を見せてくれるんだろう、楽しみだなあ」  友人、という単語に浮かぶ疑問符を察したのだろう。続く説明に合点がいった。そういえば愛の女神─目の前のそれが言うには恋人─を自称する存在がいるという話を思い出す。そのものたちは都合がつかなかったため、こうして単身やって来たらしい。 「彼らは覚えてないみたいだからね」 「…それはどういう、」  なんてことないように向けられた言葉へ疑問を呈するよりも早く鐘が鳴る。呼応するようにそこかしこから上がる歓声。祝祭の始まりを告げる鐘の音に、港の人間たちが我先にと駆けていく。視線を戻した先のそれは相も変わらず楽しそうな笑みを湛えていた。  もうすぐ陽が沈む。些細な疑念はどうだっていい、それより予定通り進めなければ。  本来私が乗り込むはずだった船へと促す。甲板部分、舞台のように設えた円形のそこへ立ったのを見計らい、船が海を目指して静かに漕ぎ出した。海獣を模した衣裳に身を包んだそれがゆっくりと離れていく。  陽気な音楽がどこからともなく流れ始める。海豚、鮫、亀に海蛇。思い思いの海色をまとった彼らが銘々ステップを踏む。刻まれるリズムに誘われ、私も壇上へ踏み入れた。手拍子、ターン、呼吸をひとつ、喉から取り出した声がどこまでも伸びていく。こんなにも心地よく歌えたことがかつてあっただろうか。風に乗って響き渡る歌声に二人分の音色が重なり、内心安堵の息をつく。招待状の話を聞いた時にはまさか邪魔立てする気じゃないかしらと勘繰ってしまったけれど、あの子のことだ、きっとなにか考えがあるのだろう。それに、呼びつけたあれはすでに大いに役立っている。 「本日の祝祭を司る、マエストロ・デル・セレモニアーレはもちろん──」  振り仰ぎながら、仰々しい敬称とともにその名を告げる。思いがけないゲストの登場に、港全体が拍手喝采した。熱を帯びる唄、競うように踏み鳴らされる足、もはや誰にもこの熱狂を止めることはできない。熱気にあてられ踊り出した愚かな贄を、船の天蓋がぐるりと取り囲む。途端に立ち込める暗雲。今がその時だと、確信が降ってきた。 「真の王よ、いざ──!」  両の腕を広げた、刹那、天から海へまっすぐに稲妻が走った。  周囲に満ちる静寂にぞくり、怖気立つ。それまで聞こえていた歌声も話し声も、波の音さえ絶えていた。まさか失敗してしまったのだろうか。じわりと広がる不安は、突如として響いた笑い声によって毛色を変えた。  声をたどって振り返る。海の只中にぽつんと取り残されたそれが、全身を震わせ歓喜を表していた。先ほど耳にした声とはまったく異なる、おぞましいほどに美しく狂気的な声。まるで正反対ななにかが憑りついたような、そんな様子に背筋が凍る。 『ああこの身体、この魂! 幾度となく時を戻したその先で、よもやこれほど上等な器にありつけるとは。あの半端な葉末では到底及ばぬ力をようやく手にしたのだ…!』  きっとあれが、あのかたが、海の底深くに沈められていたかの王なのだろう。儀式の成功に、覚えたのは喜びではなく恐怖。目の前に広がる光景が、思い描いていた未来とは別のものだったから。広がる地獄絵図の中、まろびながら駆けるすぐ下の妹が何事か叫んでいるのに、もう声も聞こえない。ふ、と。思い出すのはあの夜、波間に響いた声──始まりさえすれば繰り返すことができるのだ、遂げるまで何度でも。  脳裏に語りかけてきたのは、そう、愉悦を露わにしているこの笑い声と同じだった。
intermezzo  窓からの訪問客は、この港で一番の俊足を誇るツバメだった。 「あら、どうもありがとう。おなか空いてるかしら? いまごはんを用意するわね」  彼の足に括りつけられた紙を解きながら家主が微笑む。チピピ、と応えるようにひと鳴きした彼は、招かれるまま部屋へ飛び込んだ。  取り外したばかりの紙を開く。並ぶ文字は、折り目と同様に几帳面だった。見覚えのない筆跡に首を傾げる。てっきり友人からの手紙とばかり思っていた彼女は手紙を読み進め、まあ、と口元に手を当てた。  あの港町で今年、大規模な祝祭が開催されるらしいという話題は彼女の耳にも届いていた。なんでもお伽噺として語られるほど昔に行われ、そして廃れた祭事を今再び復刻させたのだとか。その祝事にぜひ参加してほしい──要約すればそんなところだった。  手紙を裏返す。海棲の裔。差出人の名は無く、殴り書くようにただそれだけ記されていた。内容から察するに差出人は恐らく、祝祭の発起人である姉妹だろう。その姉妹と交流を持ったことも、素性を知っているわけでもない。この手紙の送り主がユーモアをこめて名乗っているのか、それとも本当に海の血を継ぐ者だと明かしているのか判別がつかなかった。かつて港に息づいていたという海の血族が今もその血を繋いでいることを知ってはいるが、果たしてこの者が件の末裔なのか、彼女には分かりかねた。 「それに今日だなんて…どうしましょう…」  彼女が眉をひそめる。海棲の裔を名乗る者は祝祭当日、つまり今日の日の入りまでに港へ来ることを望んでいるのだ。随分と急な話だった。誘いはもちろんありがたいが、すでに仲間との予定を立ててしまっている。彼女がうんと早起きをしたのは手紙を受け取るためではなく、菓子を焼くためだったのだから。  断りの手紙をしたためるか迷っているところへ、ふ、と。なにかの気配が手のひらをつたい、やがて彼女の全身を包み込んだ。どこかあたたかく、なぜか懐かしい感覚に目を閉じる。このぬくもりを、感触を、声を、彼女はどこかで感じたことがあった。  ──深淵の糸をどうか断ち切って。  視界を開く。神経質に並んだ文字には切実な訴えがにじんでいた。  チピピ、と肩に軽い重みが加わる。キッチンで待っていた来訪者が、痺れを切らして訴えに来たようだった。抗議の声を上げる彼の目を、彼女がひたと見つめる。 「ねえ、申し訳ないけれどもうひと仕事引き受けてくれるかしら。わたしひとりではきっとどうにもできないことなの」  チピピィ。問いかけるように首を傾げた彼の返事を了承と受け取った彼女は急いで筆を執る。顔も知らない彼女たちが、どうか諦念に身を委ねませんようにと願いをこめて。
ciclo infinito Z  いよいよ夕闇が迫ってきたところで、気がかりなのはやっぱりあねさまのことだった。  朝早くに響き渡った悲鳴を頼りに駆けつけてみれば、パジャマ姿のあねさまは手紙をしたためてる最中だった。わたしの来訪に気付いたあねさまがふっと顔を上げる、その真剣な視線がいまも心に引っかかってた。  これが最後のチャンスのような気がするから。わたしに向けた言葉じゃなくて、自分に言い聞かせてるような、だけど確信なんて持ってないような、そんな呟きを落としたあねさまがツバメを空高く放つ。たしかこの港で一番早く空を駆けるツバメだ、と思い至ったのは、その小さな背中が見えなくなって随分経ったころ。あねさまのひとり言も、鳥に託しただれか宛の文も、てっきり今日の計画遂行に関することだとばかり思ってたけど、どうにもそれだけじゃないような予感じみたなにかがぐるぐると渦を巻いてた。 「おねえちゃんはなんの衣裳なの?」  はるか下方から聞こえた言葉に引き戻された。視線を落とした先、海豚の装いに身を包んだ男の子がおずおずと見上げてきている。いつも広場でたむろしてる子のひとりだ。だれかの背中に隠れてばかりのこの子がひとりぼっちでいるのも、わたしに声をかけてくるのも珍しい。  しゃがみこんで目線を合わせる。びくり、えらに似せた襟が動揺で震える。 「気高きセイレーンよ、お姉さまたちとおそろいなの」 「セイレーン…って、ママがよく話してくれる、あの海の妖精?」  顔の前でひらりと振ってみせたひれを、大きな眸が追いかける。妖精、なんて形容に一瞬鼓動が跳ねた。だってこの港の伝承では、わたしたちの祖先は船人を海の底へ誘う怪物として語り継がれてるはずだから。  妖精、ねえ。慣れない響きを転がしてみる。そういえばその昔はどこぞの女神さまに仕えてたって話をお姉さまがしてた気がする。もしかしたら妖精と持て囃されてた時代もあったのかもしれないわね。顔も知らないご先祖さまに特別な思い入れがあるわけじゃないからべつにどうということもないんだけど、なんだか少しだけ気分がよかった。  今更ながらの感慨に耽ってるところへ、つと、伸びてきた指が腕をなぞる。 「すごい、本物みたい」  ──熱の重みに、やけどしてしまいそうだった。 「…女の人の身体に無闇に触っちゃだめだって、ママに教えてもらわなかったのかしら」 「ご、ごめんなさい」  腕を引きつつ、冷静を装って窘める。途端に委縮した少年は、自身を諫めるみたいにズボンをぎゅうと握りしめた。  悟られないように─こんな小さな子が勘付くことはないだろうけど─そっと腕を抱きこむ。今しがた彼が触れた腕を覆いつくす鱗は衣裳でもメイクでもない、紛うことなき本物の肌だった。いつもは服ですっぽりと隠してるこの身体も、今日ばかりは仮装だと偽って晒すことができるから。だから油断してた、まさか触ってくるなんて。 「─…こわいでしょ、もしも本物だったら」  肩を抱く指に力がこもる。お姉さま、あねさま。どうしてだか子供みたいに泣きたくなった。人間をこわがったことはない、だってわたしのほうがうんと強いから。だけど今、わたしはたしかに怯えてる。この子を脅かしてしまうことを、今よりもっと得体の知れないなにかに変貌してしまうことを、わたしはとても、恐れてる。 「ううん、ちっともこわくないよ」  幼い眸がおそるおそる、だけどまっすぐ見つめてきた。逆転した立ち位置にぱちりとまたたく。引っ込み思案な少年が、とつとつと言葉を編んでいく。 「だっておねえちゃんはおねえちゃんだから。だから、こわくないよ」  一瞬、ほんの一瞬だけ、少年の頭がなにかとすり替わった気がして、まばたきをもうひとつ。おずおずと伸びてきた小さな指の体温を確かめたくて、自身のそれを伸ばして。  ──刹那。すべてを賭けた祝祭の、はじまりを告げる鐘が快哉を叫んだ。  ***  陽が天頂から引きずり下ろされ始めた頃、奴らは現れた。  神でも王でもない。けれどこの港を、海の向こうさえも照らす光なのだと人は言う。噂は耳にすれど姿は見かけないものだからてっきりお伽噺や伝承だとかそういった類の存在だとばかり思っていた。  それが今眼前で、招待状を受け取ったのだと、にこやかに手を差し出してきていた。  投函した覚えのない手紙を検める。その筆跡はどう見てもすぐ下の妹のものだった。  思い返せば今朝からどうにも妙だった。起き抜けに耳をつんざくような悲鳴をあげたのもそうだけれど、末の妹と連れ立って現れたかと思えばどこか決意のにじんだ視線でひたと見据えてきたのだ。これが最後のチャンスのような気がするの、と。  思えば妹のそんな表情を目にするのは初めてだった。あの子はなにかにつけて、私の意見を尊重してくれた。小言を挟みながらもその実誰よりも私と妹に愛を注いでいた。今回の計画だってなにを訴えるでもなく賛同してくれた、それなのに。 「きみにとってははじめましてだね、お招きいただきありがとう!」  邪気の無い挨拶に我に返る。まっさらな手はこちらに差し伸ばされたまま。その背後に控える四人は友人なのだと続けて紹介される。聞けば彼らもまた、笑いや友情や冒険を司っているとか。落ち着きのないものたちがそんな仰々しい存在とは到底思えない。 「こちらこそ。あなたのおかげでより素敵な祝祭となるに違いないわ」  握手の代わりに、衣裳の裾を持ち上げ恭しく一礼してみせる。 「今回はたくさんの人を連れてきてほしいって頼まれたから、ぼくの友達も誘ったんだ。女の子たちは別の予定があるみたいで、生憎来れなかったんだけど」  腰を折ったまま、ちらと視線を投げかける。先ほどからどうにも違和感を覚えていた。『きみにとっては』『今回は』──初対面のはずなのに、まるで顔を合わせたことがあるかのような口振りなのだ。素性を知られているだとか遠目に見かけたことがあるだとか、きっとそういうことではなくて、私の記憶に無いどこかで確かな言葉を交わしたことがあるのだろう。そんな微笑みだった。  頭の片隅でひらりとはためく欠片を手繰り寄せるよりも早く鐘が鳴る。呼応するようにそこかしこから上がる歓声。祝祭の始まりを告げる鐘の音に、港の人間たちが我先にと駆けていく。視線の先では、相も変わらず楽しそうな笑みが湛えられていた。  住民たちが奏でる音楽につられたのか、客人である四人がてんでばらばらに移動する。あるものは末の妹に任せた埠頭へ、あるものは次妹に託した広場へ、そうしてあるものは最も高い舞台へと躍り出る。古に執り行われていたというこの祝祭を今再びよみがえらせた目的も知らず、ただただ楽しそうにリズムを刻み、手を叩き、笑っていた。 「ねえ、」  自分の持ち場とばかりに船を目指す背中をつい呼び止めてしまった。振り返った夜色の眸にぐっと喉が詰まる。私の行動を予測していたかのような、そんな色。 「─…たとえば残酷な運命が待ち構えていて、それでも突き進むしか道がないとして。…あなたなら、どうするのかしら」  一体なにを問うているのか、自分でも理解できなかった。とうに覚悟は決めていた。妹たちの幸せのためにはこれしか道はないのだと、緻密に計画を立ててきた。失敗するはずがない、それなのに、見た覚えのない光景が明滅する。異形に成り果てたなにかと、血にまみれた港町と、おぞましいほどに美しく狂気的な声と、 「避けられない運命っていうものは存在するんだ。いつだって、どこにだって」  ふ、と。音楽が喧しく鳴り響く中、その声だけはまるで頭に直接語りかけてくるかのように鮮明に聞こえた。 「だけどその運命にどう抗うかは自分次第──きみたち次第なんだよ」  両手で包みこまれるようなぬくもりが胸のうちに広がる。確かに彼は噂に違わずなにものをも照らす光なのだと、認めたくないはずの事実がすとんと胸に落ちた。 「それじゃあぼくはもう行くね。最高のハロウィーンになるよう祈ってるよ」  ウインクをひとつ、小さな背中が船に乗り込んでいく。見計らったかのように、誰かが私の手を取り舞台の中心へといざなう。  ──始まらなければ終われない。いつかどこかで耳にした声が木霊する。まるで迷う私を見透かすように。声に促されるまま取り出した音が、どこまでも伸びていく。心地よい響きに安堵が広がる。そうだ、私は織り上げなければならない。この儀を、円環を。 「本日の祝祭を司る、マエストロ・デル・セレモニアーレはもちろん──」  振り仰ぎながら、仰々しい敬称とともにその名を告げる。ちくりとした痛みが差したのは一瞬。思いがけないゲストの登場に、港全体が拍手喝采した。熱を帯びる唄、競うように踏み鳴らされる足、もはや誰にもこの熱狂を止めることはできない。兆した不安が歓喜で塗り潰されていく。熱気にあてられ踊り出した愚かな贄を、船の天蓋がぐるりと取り囲む。途端に立ち込める暗雲。だめ、と、そう叫んだのは自分かそれとも妹か、もはや判別するだけの理性もなくただ導かれるように両の腕を広げて、 「真の王よ、いざ──!」  ──天から海へまっすぐに稲妻が走った。しん、と不気味な静寂が落ちる。ひたりと忍び寄る気配に怖気がする、得体の知れないなにかが、私を、私たちをまた、 「──ちょっとまって!」  ***  これが最後のチャンスだと、よぎった思いは予感ではなく確信に近かった。  神でも王でもない、けれどこの港のみならず海の向こうさえもあまねく照らす存在。まるでお伽噺のようなそれの姿を見とめた瞬間、妹の提案は正しかったのだと実感した。これできっと終わらない悪夢が閉じるのだと安堵していた。  だというのに。海の只中でただひとり、変わり果てたそれが歓喜に震える。 『ああこの身体、この魂! 幾度となく時を戻したその先で、よもやこれほど上等な器にありつけるとは。あの半端な葉末では到底及ばぬ力をようやく手にしたのだ…!』  愉悦を露わにした歓呼にようやく悟った。とんでもない過ちを犯してしまったことを、すべては海の底深く眠るかのものが仕組んでいたのだということを。私はただ古の王がかつての権勢を取り戻すための駒として選ばれたに過ぎなかったのだ。  波間を縫った船が接岸する。ゆらりと舞台に足をつけた王が視線を巡らせ、そうして目に留めた姉に嫣然と微笑みかけた。震える足を叱咤し走り出す。舞台の中央、異形と化した住民たちに囲まれた姉は膝を折り、近付くそれを凝視している。今すぐそこから逃げて。縋ったはずの声はけれどどこからか響く鐘の音に呑まれていく。戦慄するほど美しい妹の、妹だったものの歌声が追いかけてくる。届かないと分かっていながら手を伸ばす。願ってちょうだい。やわらかな声が耳元でひらめく。私は、私はもう一度──、  ──耳をつんざく叫びで目が、覚めた。  飛び起き様に膝を抱える。また戻ってきてしまった。もはや馴染んだ感覚に、けれど覚えたのは絶望ではなく違和感だった。海より出でし亡霊が語るには、繰り返してきた中でも最上な依代を手に入れたのだから、これ以上時を戻す必要はないはず。だというのに私はまたもや同じ朝を迎えた。かのものの意志ではないとして、それでは一体誰が引き戻したのだろうか。  願ってちょうだい──ふ、と。巻き戻る寸前、耳元に落ちた言葉を思い出す。覚えがないはずなのにどこか懐かしい声。だから私は願った、もう一度この港で生きたい、と。  まぶたを閉じて、息をひとつ。きっとこれは、あの声が与えた最後のチャンスだ。  ベッドから飛び降り、急いで手紙をしたためる。一通は憎らしいほどまばゆいひとりへ、もう一通は生きとし生けるすべてを愛するのだというひとりへ。この港を包む光は、なにもひとつではないはずだから。 「ちょっとあねさま、どうしたのよ…っ、なにかあった?」  心配のにじんだ声に顔を上げる。私の悲鳴を聞き付けたのだろう、青ざめた表情の妹が立っていた。手紙を託した彼の背中が遠ざかっていく。 「これが最後のチャンスのような気がするから」  *** 「──ちょっとまって!」  走る稲妻。轟く雷鳴。広がる静寂。ひたりと忍び寄る怖気の先の絶望を覚悟した刹那、見知らぬ声が割って入った。  声ははるか沖の向こう。夕陽を呑み込まんとする水平線から徐々に近付く船の甲板に、声の主が屹立していた。もう一通に込めた願いはちゃんと届いていたのだ。  意気軒昂に現れた三人と一匹は、接岸するやいなや舞台へ躍り出て、奇怪な唄を歌い出した。どこまでも陽気な旋律が、姉の調べを覆っていく。 「この港に相応しいのはハッピーなハロウィーンよ。そんなこわいダンスより、もっと楽しいダンスを踊りましょう!」  彼女のその言葉に感化されるように、民衆がひとりまたひとりと唄の呪縛から逃れ、彼女たちと同じリズムを刻み始める。詞が、音色が、笑い声が、私をも侵食していく。立ち込めていた霧が晴れるような、爽やかな風にも似た感覚に戸惑いながら足を進める。 「お姉様っ」  舞台を降りたところでぐらりと傾いだ姉をすんでのところで抱き留めた。揺らいだ眸が私を捉える。深海を灯した眸のどこにも、狂気は窺えない。 「素敵な招待状をありがとう、セイレーンの末裔さん」  優しい声音に顔を上げた。舞台の中央に鎮座した彼女を愛の女神だと人は言う。この世に存在するなにもかもを─たとえば私のような忌むべき血を継ぐ者にさえも─等しく愛を注ぐ存在なのだと。  果たして愛の化身は、姉を抱えたまま呆然と見上げる私にやわらかな笑みを向けた。 「あなたに会いたかったのよ。何度悲惨な光景を目の当たりにしても、何度大切な人を失っても、それでも諦めなかったあなたに。あなたがもう一度願ってくれたおかげで、わたしはこうして出会うことができたの、あなたに」  宵色の眸が細められる。その姿に一瞬、誰かの影が重なる。見覚えのないはずの姿は、けれどこの港に息づくものなら誰でも知っているであろうそのひとだった。 「あねさま、あれって」  息せき切って駆け付けた妹が傍らにしゃがみ込む。幾度も相対したばけものではなく、私のよく知る妹の姿に視界がにじんでいく。 「…ええ、あれはきっと、」  マエストラが滔々と綴る昔語りに合わせてそっと、姉がその名を口にした。 「─…ダニエラ」
finale. 「それはそれとして、主役を取られちゃうのは悔しいじゃないの」  柵に両腕を投げ出した妹が、つまらなさそうに口を尖らせた。遠ざかる舞台では依然、彼らと住民たちが楽しそうに歌い、踊っていた。あの陽気なリズムに助けられたけれど、だからといってどこまでも能天気な調子にはついていけそうもない。 「そうね。それならまた来年も、開催しましょうか」  音楽に背を向けるように佇む姉がぽつりと呟く。どうやら話すだけの体力は回復したらしい。赤黒く浮き出ていた胸元の紋様も、今では肌と同化しつつあった。 「彼らの言うところの、楽しい祝祭を」  その口調がどこか寂しそうに響いたように思えてふと視線を向ければ、深海色の眸とかち合った。またたきをひとつ、私を眸のうちにとかし込んだそのひとが泣き出すように笑う。まるで幾度も祝祭に身を投じた私に懺悔しているかのような、そんな表情。 「…ねえお姉様。私たちはきっとこの先も、ここで生きていけると思うの」  自然と言葉を重ねていた。今なら姉の祈りが届く気がした。たとえ残酷な運命が待ち構えていたとしても、絶望の淵に沈んだとしても、そのたびに私たちは抗うのだから。 「だってここは私たちの故郷──ポルト・パラディーゾなんだから」  長かった陽がようやく沈み、海と空の境がふ、と消えた。 (きっと誰しもにとっての楽園だから)
 エンドレスハロウィーンこと祝祭連載2024。繰り返した先がいつもどおりの平穏でありますように。  2024.11.7