はじめてのだっそう。
彼女のそんな慌てた様子を目にするのははじめてのことだった。
といっても、わたしは彼女のことをあまりよく知らない。
三人姉妹の長女であるということ。村の外れでひっそり暮らしていること。季節を問わずいつも全身を覆う服を着ているということ。庭に生ったのだという果物をたまにお裾分けしてくれること。魚料理は口にしないということ。たったそれだけ。
名前を尋ねたことは何度もあったはずなのに、どうしてだか覚えられずにいる。だけど特に困ることもない。この村のひとたちは、名前や生まれにあまりこだわらないから。
きっとわたしと同年代であろうそのひとは、いつも礼儀正しくにこやかに接してくれる。よく市場で遭遇するのは、買い物担当が彼女だからなのだろうか。
末の妹らしき子は広場で見かけることが多い。直接話したことはないけど、同じ年頃の子たちと、いつも違う顔ぶれで仲良く踊っている姿は微笑ましい。人懐っこい子ですよねと洩らすわたしに、天真爛漫で手を焼いているのと苦笑を返された覚えがある。
真ん中の子はほとんど人前に現れない。なんでも人混みが苦手なのだとか。
一度だけ出会ったのは海辺でのこと。桟橋に腰かけ、素足を海に浸していた。揺れる海面を見つめながら小さく歌っている様子の彼女は、夕陽がその表情に影を落としていることもあってか、少しさみしそうに見えた。
美しい旋律をもっとよく聴きたくて惹かれるように近付いてみれば、わたしに気付いた彼女はさっと立ち去ってしまった。
さて、巷で幻の次女と噂されているそのひとが見るも哀れなほど憔悴しているから助けてほしいと、ほとほと困り果てた表情でお姉さんが縋ってきたのがつい数刻前のこと。なんでも溺愛しているペットが逃げてしまったのだとか。
「ペットってなんですか」
「え、と、その、…犬…の、ような」
「のような」
どうして視線を泳がせてるの。どうしてそう自信がなさそうなの。妹が飼ってる動物の種類くらい把握してるものでしょ、普通。それに犬っぽいいきものなんて犬以外にいたかしら。
「ええと、そう、いぬ、犬ね。あれは犬よ。犬に違いないわ」
「ねえ、どうしてそう曖昧なんですか」
「気にしないで。あれは犬なの。紛れもなく犬だわ」
なんだか引っかかりを覚える言い方だけど、困っていることに変わりはない。
彼女を心配して集まってきた村のひとたちとともに、犬らしきものの特徴を聞き出し早速捜索にあたりはじめた。
曰く、美しい緋色の毛並みを持つ女の子だと。黒い首輪をつけているのだと。泳ぐのがすきな子だから水辺にいる可能性が高いと。
それだけ情報があれば、そんなに広くはない村のこと、すぐ見つかるだろうと踏んでいたのに一向に見つかる気配がない。
「もしかして潜ったままなのかしら…」
「潜る? 犬が、ずっと?」
「あ、と、そう、潜水するのがすきな子だから」
首を傾げながらも漁師のひとりが海に潜ると同時、ひょこり、緋色の犬が海面から顔を出した。どうやら彼女の言う通り本当に、海水浴を楽しんでいたみたい。桟橋に詰めかけたみんなが、ようやく見つかったことに胸を撫で下ろす。
だけどいましがた飛びこんだ彼だけがひとり、青ざめた顔で陸地に上がってきた。
「あ、…あれ、あれは、犬なんかじゃ、」
「スキュラ!」
彼の言葉に重なる息せき切った声。
姿を確認するよりも早く、隙間を縫って現れたそのひとは駆ける勢いのままきれいなフォームで海に飛びこんだ。スキュラと呼んだ緋色のそれに泳ぎ寄り、ぎゅうと腕にかき抱く。安堵をにじませた表情に、こちらまで心があたたかくなるようだった。彼女に対して気難しいイメージしかなかったけど、あんなに慈しむような顔もするのね。
「皆さん、本当にありがとうございます。おかげで助かりました」
妹の様子に同じく息をついたお姉さんが振り返り、丁寧に頭を下げた。
いいのよ暇だったし。このぐらい朝飯前だよ。またいつでも頼ってくれよな。みんなが口々に返しているところへ、桟橋に上がった妹も静かに頭を下げる。腰まであろうかという髪が身体に張りつく様さえきれいで、思わず見惚れてしまいそうになる。
顔を上げた彼女に、気にしないでくださいと声をかけようとして、目に留まった、犬。妖しいほどに美しい彼女が抱くあれは決して犬なんかじゃない。上半身はたしかに犬と同じそれに見えるけど、下半身は鱗、そう、まるで魚の尾。かわいらしく鳴いた口から覗く、三列の鋭い歯。
見たこともない恐ろしい生物を前に、その場の空気が一瞬にして固まる。
「─…恩を仇で返すようで申し訳ないのだけれど、」
凛、と、澄んだ、こえ。
姉であるそのひとは、自身の妹と瓜二つのその音を取り出し、またも困ったように眉尻を下げる。
海よりもまだ深い色の眸がきらめいてわたしを、わたしたちを、呑みこんで、
「──覚えていてもらっては不都合なの、色々とね」
そのあとのことは、よく、おぼえていない。
気付けば妹は姿を消し、お姉さんだけがわたしたちの前に変わらず佇んでいた。
頭がぼうっとしている。わたしたちはいったいなにをしていたんだっけ。いっしょに探してほしいと頼まれて、だれかが海にとびこんで、そう、いぬ、いぬが、
「皆さん、ありがとうございます。もうすぐプラムがなるので、よければ今度ぜひ貰ってくださいね」
非の打ちどころのない笑顔でそう言われてしまえば、靄がかかった記憶もどうでもよくなってくる。そうよ、無事に見つかったのならそれでいい。
背筋が凍るほどに美しいそのひとにつられて微笑んだわたしたちは口を揃える。
『お困りのときは、ポルト・パラディーゾの民におまかせを!』
(もう少しかわいらしい見た目のものを飼いなさいとあれほど)
(あら、お姉様にはこの子のかわいらしさがわからないのね)
(説明する私の身にもなってちょうだい)
ペットの頭をむっつにするのはやめました。
2019.10.7