魔女たちのいるところ。
(春とのクロスオーバー)
花とはおよそ縁遠いものの姿を見とめて思わず頬がゆるんだ。仕方のない子、なんて意味合いがきっと強い。
「─…随分と遅いじゃないの、カルロッタ」
「あら、これでも充分早起きなのよ」
早々に文句をつけてきた彼女の語尾はけれど力無く掠れていた。きっと口を動かすことさえもう限界なのだろう。それでも憎まれ口を叩くのは彼女の意地なのかなんなのか、極力深い付き合いをしないようにしてきた私たちの間柄では判別つかない。
幹に身体を預け、片足を投げ出した格好で座りこんでいる彼女に目線を合わせる。
眉間に深く刻まれた皺。脂汗が額からあごへとつたい落ち、胸元に浮かび上がる漆黒の紋様を濡らす。
肩で息をしている様子がいたたまれなくて、いつものことながらじくりと胸が痛んだ。そんな感情を表に出そうものなら、同情は嫌いだとますます眉をしかめそうだけれど。同情ではないと伝えても理解してくれなさそうだし、誤解をとくのも面倒だ。
言葉で労る代わりに手近なホースをたぐり寄せ、剥き出しのつま先に弱めの水流をかける。
「ほら、あなたのすきな水よ」
「…もう少しやさしいかけかたはなかったのかしら、カルロッタ」
「生憎とこれが最大限のやさしさなの」
***
彼女がこの温室へ迷いこんできたのは一体いつのことだったか。
初対面はそれこそ見るに堪えなかった。
乾いた肌に青褪めた顔、倒れ伏したままぴくりとも動かないその様子に一瞬、事切れているのかと心配したものだ。ふれた手首から感じた、弱々しいながらもたしかな熱と脈にどれほど安堵したことか。
他の者に気付かれぬよう自室に運び、煎じた薬を飲ませれば数時間後には会話ができるほどに回復した彼女がぽつりぽつりとこぼすことには、悪意のある誰かに追われていたのだという。そうして逃げこんだ森の奥で見つけた私の温室で力尽きてしまったのだと。
追われている理由までは口にしなかったものの、大体の察しはついていた。彼女は恐らく、海の魔女と呼ばれる存在、あるいはその眷属。破れた衣服から覗く鱗がそれを証明していた。疎ましく思う者たちに襲われたか、あるいはその肉を欲する密猟者たちに目をつけられたのか。
彼女は多くを語らない。なにものも寄せつけない深海色の眸でただ、私の心の内を見透かすかのように見つめてくる。
「カルロッタよ」
腕に痛々しく刻まれたすり傷や切り傷に軟膏を塗りながら告げる。
「カルロッタ、…ああ、」
私の名前を転がし、そうして彼女は合点がいったように苦く笑った。自嘲にも見えるそれに、胸が締めつけられる。
「──私と同じ、か」
***
それからというもの彼女はたびたび、私のもとへと足を運ぶようになった。
正確には満月がやってくる朝。満月は人間にも魔物にも精霊にも等しく力を与える。彼女も例に洩れずそのひとりで、姉妹の中でも一際色濃く先祖の血を継いだ彼女は、その日は人間の姿を完全には保てなくなってしまうのだという。
「相変わらずあなたの薬はよく効くわね」
鱗の剥がれ落ちた腕を撫でた彼女は、感心したように呟く。
いまではもう慣れたものだけれど、鱗がぼろぼろと落ちていく様子にはじめは慌てたものだ。彼女曰く、剥がれるときよりも浮き出るときのほうが何倍も痛みが強いらしい。私はどちらも御免だ。
「っ、ちょ、と、あなた少しは手加減ってものを、」
「早く済ませたいなら大人しくなさい」
薬を染みこませた脱脂綿で、鱗の剥がれた首筋を消毒する。身じろいだ衝撃で流れる鮮血。私と同じ、赤。
「はあ…、本当に魔女みたいな女ね」
「…どの葉が、どの植物が、薬となるか毒となるか。私が知っているのはそれだけよ」
脱脂綿に赤がにじむ。彼女がわずかに眉をひそめる。
それはこの森に棲まうものなら誰しもが身につけている生きる術だった。ここで生きていくには知識を蓄えるしかなかった、だから私たちは自然に寄り添って暮らしてきた。けれどひとは人智の及ばぬものだと、その能力は異端であると、恐れ慄き、そうして虐げてきた。
アーティストとしてそこそこの地位を築いたいまでこそ直接的な迫害はなくなったものの、それでも陰での噂は絶えない、我々には理解できない力を操る魔女だと。物心ついたころからどれだけ囁かれてきたか、もう数えるのも億劫なほど。
私が彼女の名を知っているように、彼女もまた、私にまつわる噂を聞きつけたことがあるのだろう。憐れを孕んで落とされたあの日の言葉がよみがえる、同じだ、と。
古の時代に海を支配していたものたちの血が流れるが故に存在が許されず、気配を殺して生きるしかなかった彼女たち。血脈など関係なくただその地で生きているからという理由で白い目を向けられ続けた私。異なるようで、けれどどこか似通っている私たちは、だからこそこうしてひとときを重ねているのかもしれない。
「─…本当に。魔女だったらよかったのにね、私も、あなたも」
海の魔女と呼ばれる彼女がぽつりと、珍しく寂しさを覗かせた。
「──私はお断りだけれど」
「ねえ、そこは賛同するところじゃないの。なんで拒絶するのよ。かわいそうでしょ私が」
話の腰を折られたせいか、拍子抜けしたように彼女は上体を崩す。その勢いで、シーツの上に集めていた鱗がばらばらと床に散っていく。
彼女の様子なんて知ったことか。いくら異端と呼ばれようが関係ない、いまは私を一番理解してくれるひとが傍にいるのだから。あの子が信じてくれる限り、私は私であり続けられる。
それはきっと彼女も同じこと。守るべきものが、愛すべきものがいるからこそ、沈まずにいられるのだろう。
「ほら、終わったから早く帰りなさい。もうすぐあの子が来る時間だから」
「うえ」
薬箱を片付けながら告げれば、彼女はあからさまに顔をしかめる。あの子と折り合いの悪い彼女は、こう言えばすぐに退散するのだ。お互い気の強い面があるから反発し合うのだろうか。似た者同士だなんて指摘しようものならきっと拗ねて口をきいてくれなくなりそうだから、墓場まで持っていくつもりだけれど。
ふ、と。彼女の吹きかけた息が、鱗をたちどころにとかしていく。確かめるように指を曲げて、伸ばして。
玄関から騒々しい音が聞こえる、確認せずとも多分あの子だろうことは、華やいだ雰囲気からもわかることだった。
不機嫌そうに舌打ちした彼女は、ドアとは反対方向の窓を開け放つ。風が吹き抜ける。
「子守唄はまた今度ね、カルロッタ」
「あら、ツケ払いは受けかねるわ」
「あの子を呼びつけるあなたが悪いのよ、それじゃあまたね」
ちゃっかり次を取りつけた彼女は軽々と窓を越え、そうしていつの間にか姿を消した。
突然押しかけて突然帰っていくのだから本当、あのひとも手のかかること。偶然生まれた面倒な縁に、けれど頬がゆるむ。私が彼女に感じているものと同じくらいに、ここが彼女の拠り所となれていますようにと。
ひとつだけ取り残された鱗を拾い上げる。持ち主の眸と同じ色のそれは、朝日を浴びて海のように輝く。
「──カルロッタ!」
春が飛びこんでくる。いとおしい者の来訪にこぼれた息を受けても、深海色は消えなかった。
(ねえカルロッタ、この部屋なんだか魚くさいわ)
(それはさすがにかわいそうよ、グローリア)
果たしてセイレーンの肉は人魚と同じそれなのか。
2019.10.9