Amata di gatta.
「──振られてしまったの」
まさかたったの一言でこの世の終わりを垣間見る日が来るとは思ってもいなかった。
ふられてしまったの。隠しきれない悲しみを含んだ声音で何度も再生される。ふられてしまったの。ふられて、って、誰よそいつは。いくら清廉で潔白で初心で純情で睦言に耐性がなくてひとの好意に鈍感でもう何年も妹に恋愛感情を向けられていることにも気付かなくてそのくせひととの距離が異様に近い姉だって、もう充分に成熟した女性だ、家族以外の誰かに心を寄せても不思議ではないけれど。
覚悟していた。理解していた。心構えだってしていた。だから泣かない。泣かないわよ。泣きたくないからそんな潤んだ眸で見つめないで悲しそうに笑わないで傷ついた心を露わにしないで縋るようにふれてこな、あ、だめ泣いちゃう。
長い長いまばたきをすることで、決壊しかけた涙腺をどうにか宥める。いまにも涙をこぼしそうな姉の前で先に泣いてどうするの。傷心の姉の話を親身に聞いて、慰めてこそ良き妹というものじゃないの。妹としての役割を全うした後、寝室でひとり枕を濡らそう。
私の右手に頼りなく乗せられた指に、自身の左手を沿わす。普段よりいくらも高い熱が伝播する。
「ずっと気になっていた子なの」
空のグラスに手ずからワインを注ぐ。あれは何杯目なのだろう。もう夜も深いというのに煌々と灯る明かりが気になって部屋を訪れた時には半分空いていたから、相当前に開封したことは明らかなんだけれど。
このひとはアルコールに弱いが故にちびちびと、それはそれはゆっくりと飲みくだす。それでも分解速度が間に合わないようで、一杯飲み干すまでには首筋まで真っ赤に染まっているのだ。今夜も例に洩れず、耳たぶも鎖骨も指の先に至るまで、ワインに負けず劣らず色をつけていた。
「いつもは遠くから見つめるばかりだったんだけれど、今日ね、勇気を出して声をかけてみたのよ」
く、とグラスを傾ける。赤く熟れた喉が鳴る。ワインの芳醇な香りが鼻先を掠める。アルコールを舌に乗せただけで酔いが回ってしまう私にとっては、その刺激ひとつでくらりと酔ってしまえそう。
「…それで」
「…そっぽを向かれたわ。私になんて、まるで興味ないみたい」
魅力がないのかしら、私って。ぽつりとこぼされたそれに、心の内で全力の否定を返した。いいえそんなはずはない、深海より澄んだ眸もなにものをも惹きつける声もすらりとした上背も誰よりも細く長い指も慎ましやかな胸も引き締まった二の腕も軽やかにリズムを刻むつま先もなにもかも私たちより勝っているあなたが、興味さえ持たれないなんてことあるはずないのに。
ああ本当に、どこのどいつよその無礼なやつは。このひとにこんな表情を浮かべさせるほど想われているだなんて妬ましい羨ましい八つ裂きにしてしまいたい。
「─…ねえ、」
ボトル一本を空にしたところでようやくその白魚のような指がグラスを離れた。
私に向けた声が縋るようにまとわりつく、わずかに濡れたまつげが震えて、色を深めた眸が私を呑みこむ、詰まる距離、かかる吐息に酔わされて、伸びた指が頬へ、心臓を掴まれたかのような錯覚、鼓動が速度を上げる、慰めを乞うているのか、顔も名前も知らないその誰かの代わりを求めているのか、愛すべき我が姉上がお望みとあらば代替でも消耗品でも喜んで務めよう、だってそれが私の愛、あなたがあなたでいてくれるのならば私はなんだってするわ、言葉にする代わりに身を乗り出す、真っ赤に彩られたそのくちびるへ、目の前の長いまつげが徐々に伏せられ、深海色が姿を隠すその間際、
「──さわりたかった、な、ねこ、」
「……………は、」
途切れ途切れの声がくちびるを素通り、耳の真横を移動しそうして肩に軟着陸、間の抜けた私の声を置き去りに数瞬の静寂、ほどなく聞こえ始めたのは拍子抜けするほど健やかな寝息だった。
ねこ、そう、猫ね。ええわかってましたとも、だって姉は無類の動物好きで、けれどなかなか近寄ってもらえないひとだってことは昔から知っていたもの。このあたりは野良猫の居城となっているからおおかた、そのなかの気高い一匹にでも心を奪われたのだろう。
そういえば以前にも似たようなことがあったと、気の抜けた手で姉の髪を梳きながら思い出す。学習しないのは私も同じ。
昂っていた鼓動はどこかへ消え、残ったのは呆れと虚しさと少しばかりの安堵。よかった、このひとはこのひとのまま。
ぐぐ、と体重がのしかかる。私よりも背が高く、しかも意識のない姉を運ぶなんて土台無理な話だ。
先ほどまで姉が手にしていたグラスを、諦めとともに傾ける。わずかに残っていたワインが思考を濁す。重力に任せ、肩で眠るそのひとと同じ夢の底を目指しまぶたを閉ざした。
(どろぼうねこめ、覚えてらっしゃい)
翌朝末っ子に見つかってふたりして怒られてるといい。
2019.10.9