あのこがみてた、みんながみてた。
3.わたしがみてた
「おいしそうね、それ」
馴染みの声に自然とのぼってくる笑み。
振り返れば、わたしと同じく親しみのこもった微笑みを浮かべた彼女がいた。すらりと伸びた背を屈め、並ぶ果物を順々に眺める。その横顔がいつも、同性のわたしから見ても羨ましいほどに整っていた。
「今日のおすすめは」
「プラムだよ、いいのが入ってきたんだ」
彼女と店主とのやり取りで我に返る。いけない、また見惚れてしまっていた。どれだけきれいなひとを見たって、きれいだなあ、なんてありきたりな感想ひとつで終わるのに、彼女は出会うたびに目を奪われてしまう。まるでなにかに憑かれたみたいに。
「ほら、サービスだ」
「あっ、わたしにはおまけしてくれなかったくせに」
「ね、私のを分けてあげるわ」
いつもお裾分けしてくれるお礼に、と。差し出されたそれをおずおず受け取る。
買い出し当番なのだろうか、市場で毎日見かけるけど、どう生計を立てているのかまるでわからない。倹約している様子は窺える、でも働いている姿を見たことがない。彼女も、彼女のふたりの妹たちも。
尋ねるたびにのらりくらりとかわされるものだから、最近では疑問に思うこともやめた。だれにだって知られたくないことのひとつやふたつあるもの。それにこの街に噂好きなひとたちが多いのも、彼女が口を割らない要因のうちかもしれない。
もらったプラムをひとくちかじる。きん、と。頭の奥に走る鋭い痛み。目の前で細められた深海色の眸が妖しく光った気がして慌ててかぶりを振れば、痛みもなにもかもどこかへ消えてしまった。
「おいしい?」
ああきっと気のせいだ。最近暑い日が続いてるからたぶんそのせいだろう。言い聞かせてしまえばあっという間にどうでもよくなってしまって。
プラムをもうひとくち。真っ赤な果汁が口の端からこぼれた。
2.あたしがみてた
噂の幽霊かと一瞬、本気でこわくなった。
「──だれ」
鋭い声に身体を縫い止められる。月明かりさえ差さない晩に夜歩きなんてするんじゃなかった。あたしをけしかけた幼馴染たちを恨んでももう遅い。
身動きひとつ取れないあたしの視線の先、桟橋あたりの闇がぞろ、と揺らめく。
「誰」
同じ問いが投げつけられる。闇が近付く。声がどこかへ逃げてしまった。
「聞いてるのよ、答えなさい」
またたきひとつできないのはなにも恐怖のせいだけじゃない気がした。声、そうだ、この声が、見えない縄みたいに絡みついて、なにもかもを封じこめてるんだ。
確信を持ったところで状況は変わらない。あの噂通りきっとこのまま海に引きずりこまれて、
「─…なによ、靴磨きの娘じゃない」
さっきまでの険を含んだ声とは打って変わって拍子抜けしたそれ。途端に身体の自由が戻ってきて、力の抜けるまま尻もちをついた。
見下ろしてくる宵色の眸には覚えがあった。
隣─あんなに離れたところに建つ家を隣と言っていいものか疑問だけど─に住んでいる三人姉妹の、たしか真ん中のひと。いまいち自信が持てないのは、次女であるらしいこのひとがあまり人前に姿を現さないせいだ。陽が落ちたころにふらりと徘徊してるらしいけど、こうして真正面から出会ったのははじめてのこと。
暗闇に慣れてきた目がその姿を捉える。水浴びでもしてたのか、濡れた髪が腰にまとわりついてる。もう秋が近付いてきてるのに、寒くないんだろうか。
首を傾げるあたしを見つめる怪訝そうな表情に、鎖骨にくっきり浮かぶ漆黒色の不思議なあざに、胸元に連なるあれは、
「もう夜も遅いわ、はやく帰りなさい」
「…え、あ、はい」
「怖がらせて悪かったわね」
取られた両手がぐいと引っ張られる。立ち上がったことですぐ目の前に迫ったそれはたしかに、魚のうろこに似た海色の肌。
「ああそうだわ、」
ぞくり、背筋が粟立つ。宵色の眸を闇が覆う。表情が消える。長い指があたしのこめかみにふれる。水よりもまだ冷たい体温。鼻先が触れ合う位置から見つめられ、息が詰まる、眸に閉じこめられて、
「──なにもかも忘れなさい、いいわね」
きん、と、頭の奥のおくに痛みが走る。
「いきなさい」
言われるがまま走り出す。さっきまで感じていた息苦しさが消えていって、あれ、あたしいまだれと話してたんだっけ。
1.ぼくがみてた
よんかいたたいて、ひらいて、みぎ、ひだり。
「そう、完璧!」
手をたたいてほめてくれたおねえちゃんの声がうれしそうで、ぼくまでうれしくなる。
噴水のふちからとび下りたおねえちゃんは、ぼくと、それから広間でいっしょにおどってたみんなの頭をなでてまわってくれた。
「いいこねえ、よくできました」
会うのはだめだってママがいってたけど、こんなにやさしいのになんで遊んじゃだめなんだろ。
いみごだ、って大人たちはいってた。長女と末っ子があんなにうりふたつなわけない、きっとのろいだって。いみはわかんないけど、よくない言葉なのはわかる。
ぼくはおねえちゃんがすきだ。歌とかダンスとかおしえてくれるし、きれいだし、たまにおかしだってくれるし。
今日もおみやげがあるみたいで、おいでおいでってぼくらを呼んだおねえちゃんが、かごから包みを取りだした。
「わあっ、今日はなに?」
「プラムパイよ。お姉さまが焼いてくれたの、きっとおいしいわ」
きれいに分けられたパイをひとりに一個ずつ。おねえちゃんの分もわすれずに。みんなでいただきますをして、ひとくち、ふたくち、いつもどおりすごくおいしい。おねえちゃんのおねえちゃんは料理がとってもじょうずみたい。でもぼくたちと遊んでることはないしょなんだって。ママにないしょにしてるぼくとおんなじだね。
「さぁてと」
先にたべおえたおねえちゃんはひとさし指をなめながら立ち上がり、息をすって、はいて。
いつものきれいな歌だ、って、おもったときにはもうおわっちゃってる。ぼくらみんなしてねむっちゃってたみたいに覚えてないし、いつのまにか大人たちが集まってきてるし、からっぽだったかごにはいっぱいの金貨がはいってるし。
すごくふしぎだけど、おねえちゃんがうれしそうならいいや。それよりもうすぐハロウィンだ。おねえちゃんにおしえてもらった歌とダンスで、すてきな一日にするんだ。
「大丈夫よ、」
ぽん、と。頭をなでるおねえちゃんの、あさい海みたいな目がぼくをとじこめる。
「──お姉さまの計画が失敗するはずないもの」
0.みんながみてた
みんな浮き足立ってるなあ。
何十年ぶり、いいえ何百年ぶりのお祭りなんですもの。興奮するなって方が無理な話よ。
主催は誰だったっけ、たしか。
ああそうだ、あの姉妹だよ。ほら、海際の外れに住んでる女の子たちがいただろ。なんでもあの子たちが直接、彼らに掛け合ったらしい。
ああほら、噂をすれば。
少し不気味じゃないかしら、あの子たち。姉妹にしたってあんまりにも似すぎよ。
でもとてもきれいだ。
おかしな子たちだと思ってたんだけど、もしかして思い違いだったのかも。
三人揃いの衣装だ、あれはなんだろう。
海の妖精、そうだわ、セイレーンだって。
セイレーン伝説があったはずなのになあ、どうしてだか思い出せないや。
みてみて、ママにウミヘビの服つくってもらったの!
わたしはウミウシ!
準備は万端、みんな楽しみにしていた祝祭はもうすぐ。
行こう、あの子たちが待ってる。
セイレーンが、
セイレーンが、
我らの光が、
さあ、
『皆様、ようこそ』
(Welcome to Porto Paradiso)
だってみんなの悲願、ですものね。
2020.2.9