深淵に落ちる。
0.
凪の夜だった。
波音に誘われた気がして桟橋までやってきたのに、海はどこまでも静かに横たわっている。嘆息をひとつ。あるいは寝不足がもたらした幻聴だったのかもしれない。
縁に腰かける。つま先が水面にふれる。身体が重い。気力にばかり突き動かされている。私の、お母様の、ひいてはこの身に細々と受け継がれてきた海の血脈たちの悲願がいま、私に命じているのだ。けれど達成するためには紐解かなければならない。古のこの地に棲まう彼らが一体なにを残したのか、お母様のあの唄がなにを伝えようとしていたのか。
ふ、と。まるで喉から引きずり出されるみたいに紡いだ旋律。記されていた文言を、お母様が子守唄代わりに聴かせてくれていたあの節に乗せて。
どこからか響くこれは、カモメの鳴き声、だろうか、こんな夜更けになくなんて。
ごぷり。身体の芯を震わす音は足先から。それまで波ひとつ立っていなかったはずの海面が蠢いている、まるで意思を持ったいきもののように。私の足を抱きこみ、大きなおおきな口を開く。見えるのは深海よりもまだ昏い海。恐怖が喉で潰され代わりに唄が編まれていく、私の知らない唄、私のこえで、このうたは、
──おどれ、祝祭の始まりだ。
カモメがわらっている、海の底から。
***
1.
今朝の姉はとかくご機嫌のようだ。
まだ寝ぼけているのかと目をこすっている間に響く笑い声。寝起きだからだろうか、くつくつと喉を鳴らすそれが妙にお腹の底に響く。
開いた視界に、振り返った姉の苦笑が映る。
「もうお昼前だってのに随分と眠そうねえ」
「…お姉様と違って夜型なのよ」
いま眠気を抱えている理由はそればかりではないけれど、まるきり嘘というわけでもないので、素知らぬ顔で返しながら椅子を引いた。
姉の挙動に不信感を抱くようになったのはここ数ヶ月のこと。
きっかけは納屋の大掃除だったように思う。
本格的な雨季がやってくる前に混沌を正しましょう、との姉のひと声で、嫌々ながらも姉妹総出で片付けに当たった。いや、あの物量は断捨離と呼んだほうが正確だろう。扉を開けた途端に見えた、隙間なく物が詰まれた光景はまさに混沌。
昼を過ぎても壁が覗く気配はなく、体力の無い私は早々に離脱、役に立たないわねえと笑っていた姉もやがてまとわりつく湿気に負け、結局元気を有り余らせた妹が主戦力となった。
貧弱なお姉さまがただこと!
ひょいひょいと得意気に粗大ごみを担ぎ上げる妹に言い返す気力さえなかった。
居間で潰れる私を労うという建前で休憩がてら紅茶を淹れてくれていた姉のもとへ、まだ断捨離に勤しんでいた妹が顔を覗かせたのを覚えている。
片手に掲げるは見覚えのない古びた一冊。お母さまのものかしら。表紙の埃を払った妹はそのまま、興味なさそうに姉へと差し出す。ちらと覗き見た背表紙に記されていたのは古代語だろうか、生憎と私は一文字も解することができないし、その必要もない。
さっと題字に目を走らせた姉が、妹と同じくさほど興味のない様子で適当にページを繰り──いまにしてみれば、息を呑んでいた、のだと思う。
これも捨てちゃっていいかしら。腰を落ち着けちゃっかり紅茶を飲み干した妹の言葉に、姉はゆるりと首を振る。これは私が預かるわ、と。
外出が増えたのは恐らくそこからだ。
元々私よりはるかに外出機会が多かったひとではあるけれど、それでも奔放で気ままな妹ならまだしも、買い出しか図書館くらいにしか足を運ばなかった姉が、こうも連日出かけるようになった理由に思い至らない。外のだれかと懇意になったのだろうかとも考えたけれど、姉のまとう雰囲気がそれを否定していた。
そう、ただ外出しているだけならよかったのだ。問題は、なにかに憑かれたようなその雰囲気にあった。
日に日に狂気を孕む深海色の眸は、実の姉だというのに恐怖すら覚える。どこへ行くのか尋ねてみても曖昧にはぐらかされるだけ。ついには夜の食事を終えるとすぐ部屋に閉じこもり、翌朝まで姿を現さないようになったものだからさすがに問い詰めようかと夜通し悩み、そうして今朝目覚めてみれば、最近の剣呑な様子はどこへやら、ご機嫌に昼支度をしていたというわけで。
鼻唄混じりにコーヒーを淹れる姉の横顔には、つい昨夜まで滲んでいた陰はどこにも見当たらない。
「ねえお姉様、なにか嬉しいことでもあったの」
「そうねえ、あったといえばあったけれど」
言葉はそこまで。愉快そうに笑みを洩らした姉は、湯気の漂うコーヒーに口をつける。
「秘密にする気ね」
「ふふ。あんたにもすぐわかるわ」
意味深長な言い回しに首を傾げつつもコーヒーを冷まし、ふと、姉も私と同じく猫舌だったはずなのに、と。些末な疑問はけれど、姉の微笑みに打ち消された。
***
2.
今日のお姉さまはえらくご機嫌みたい。
気勢を削がれただ目をしばたたかせるわたしに気付いたお姉さまが振り返る。目尻が下がる。やわらかな苦笑。ああ、いつも通りのお姉さまだわ。
「どうしたの、窓にぶつかったカモメみたいな顔して」
「寝起きの妹をつかまえてそれはあんまりだわ、お姉さま」
ふてくされた様子を装いながらも、安堵にゆるむ心を隠せない。だってこんなに晴れ晴れとしたお姉さまを見るのは久しぶりのことだから。
きっかけはどう考えても、納屋で見つけたあの本だ。
混沌、とお姉さまが称した納屋の大掃除は、わたしにとっては宝探しに等しかった。姉妹三人ともを包んできたおくるみに、小さなころよく遊び相手になってくれてたおさがりの人形、果ては姉さまと取り合いになって壊したロッキングチェアまで収められていた。思い出をたどる作業が楽しくないはずがない。早々と部屋に引き上げたお姉さまがたをからかいながらひとり、懐かしの品に目を細めつつも容赦なく分別していって。
そんながらくたたちの中でもひときわ古びた本に、どうしてだか目が留まった。
いつからここにあるんだろう。きちんと装丁されてるおかげでなんとか本としての形を留めてるそれの題字は埃にまみれて判別できない。
もしかするとお母さまのものかしら。読書家だったのだと、いつだったかお姉さまが教えてくれた気がする。納屋のあちこちに積まれてる本はすべてお母さまの蔵書なのだと、片付けの合間、いとおしそうに頬をゆるめた一瞬を見逃さなかった。
お姉さまはいつもそう。わたしが物心つくずっと前にこの世を去ったお母さまへの情を隠そうともしない。あるいは無意識なのかもしれない。わたしたち妹に向けるものとは違う親しみを、慈しみを、いとおしさをいまだ、胸に留めて離さない。
他の本とともに束ねてもいいか、あとで尋ねてみよう。くされた心といっしょにぽいと本を投げ捨てる。その拍子に滑り出た一枚の紙。挟みこまれていたらしい紙切れは、褪せてはいるけど本よりはまだ真新しく見えた。
『あいする娘へ』
目に留まった宛名に鼓動が跳ねる。
顔さえおぼろなお母さまの筆致なんて知るはずもない。だけどこれは紛れもなくお母さまの言葉で、そうして文字にさえにじんだ愛は間違いなくお姉さまに向けられたもの。
拾い上げた紙片に目を通すことなくポケットに雑に仕舞いこむ。嫉妬、だった、だれであろうお母さまに対して。だってお姉さまはもうずっと、お母さまに心を奪われてるから。妹たちの顔に仕草に表情に、在りし日のお母さまの影を探してるから。
昔ほどお母さまを思い起こすことも少なくなったお姉さまが、だけどこの手紙を前にしたら一体どうなるだろう。考える前にくしゃりと内で握りつぶす。ささやかであろうといま、わたしたちはしあわせなの。たとえお母さまでも邪魔はさせない。
捨ててしまおうと思った、本ともども。粗大ごみに紛れて捨ててしまえばお姉さまの目に留まることなく離すことができる。
わたしの密かな企みを、だけどこの本が許さなかった。おかしなことだとわかってるけど、それ以外にしっくりとくる表現が見つからない。手離させまいとする意志に介入され、気付けば本を手に取り、ふたりの姉がくつろいでる居間へと足を運んでいた。
お母さまのものかしら。わたしの言葉にお姉さまが振り返る。表紙の埃を払う。見たこともない文字だ、きっとお姉さまにも判読できないはず。安堵すれば急に身体が軽くなった気がして、すぐ上の姉さまの目の前に腰かけ紅茶を飲み干した。
お母さまの所有物かもしれないとはいえ、あまりに古すぎるからか、大して興味なさそうにページをめくって──顔色が変わった、ように、映った。
捨てちゃってもいいわよね、お姉さま。知らず懇願するみたいな口調で話しかけてた。お願いだからいいと言って。こめた祈りもむなしく、お姉さまは首を横に振る。これは私が預かるわ、と。
それからのお姉さまは、まるでなにかに憑りつかれたみたいだった。
まず家にいる時間が減った。しょっちゅう遊びに出ているわたしならともかく、必要以上に外出しなかったお姉さまが、わたしよりも遅く帰宅することが常になった。日に日に色を増す深海色がそのうちわたしたちを映さなくなった。ついには食事どき以外はほとんど見かけなくなった。
きっとあの本のせいだ。わたしがあの本を渡してしまったばかりに、お姉さまはおかしくなってしまったんだわ。事の重さに苛まれ、ろくに眠れなかった。
取り上げてしまおう、そう思いついたのは明け方のこと。そうして自室を抜け出し、お姉さまの部屋に足を運ぶ道中、ひとの気配がしたキッチンを覗いてみれば、昨夜までの険はどこへやら、上機嫌を絵に描いたようなお姉さまがいたというわけで。
なにに憑かれ、なにに引き戻されたのかはわからない。わからないけど、お姉さまが以前と変わらず笑ってくれるならそれでよかった。
朝日が差しこむ。今日は心置きなく遊べそうだ。
「コーヒー淹れたんだけど、あんたも飲む?」
「やぁねお姉さま、わたしコーヒーなんて苦いもの、飲んだことないわよ」
答えれば、お姉さまは不思議な顔でわらった。
***
3.
「死ぬかと思ったわ…」
「姉さまったら大げさねえ」
雑に置かれた濡れタオルさえ心地よい。額に手を運ぶ。充分に絞りきれていないのか、水分が手の甲に移る。呆れながらも介抱してくれている妹にあれこれ文句を言える立場ではないけれど、それにしたってぞんざいすぎないだろうか。久しぶりの陽射しに参る姉をもう少し気遣ってくれてもいいのではないだろうか。
心に溜まる不平不満など露知らず、私の寝転ぶソファの肘掛けに行儀悪くも腰かけた妹が大きく息をつく。ため息をつきたいのはこっちの方だ。
大人しく看病されるのも癪だからそろそろ上体を起こそうかと試みるものの、身体はまだ言うことを聞いてくれない。無理しないほうがいいわよ。宥めすかすような妹の声に覚える苛立ち。聞き分けのない子供を含めるような物言いはやめてちょうだい、そう告げようとしてまぶたを開いた先、けれどまっすぐ射抜いてくる濁りのない浅瀬色の眸に、文句なんて向けられるはずもなかった。
「引きこもってばかりの姉さまがどうして外に出たの」
「─…別に。ただの気晴らしよ」
嘘を、ついてしまった、だって妹にまで余計な心配はかけたくなかったから。
ここ数ヶ月、不穏にまとわりついていた姉の陰が消え去ったからといって、すべてが元通りになったわけではなかった。連日の外出は相も変わらず続いているし、行き先をそれとなく尋ねてみたって暖簾に腕押し、糠に釘。最近とみに見せるあの不思議な笑みとともにのらりくらりとかわされてしまうのだ。
こうなれば自身で突き止めるしかない。勇んで外に飛び出したものの、なにせ日中は大概家にこもってばかりなものだから、陽のもとに身を晒すのは本当に久々のこと。
日光を忘れた身体に、夏も盛りの陽射しが降り注ぐ。扉を抜けて一歩目ですでに頭が茹だっていた私がまともに尾行できるはずもなく、あえなく姉の背を見失ったのをいいことにすぐ路地裏の日陰に逃げこんだ。
視界がぐわりと歪む。立っていられなくてしゃがみ込み、視界を閉ざすことで眩暈と吐き気を必死にやり過ごす。ああ、外の世界がこんなに厳しいだなんて。
ふいに響いた鳴き声はすぐ足下から。ぐるなあ、ともう一度。ゆるりと開いた眸に、黒いかたまりがひとつふたつみっつ。ここはどうやら彼らの居城らしい。甘えるようにすり寄る猫たちに、ごはんなんて持ってないわよと呟きながらも少しだけ救われている私がいて。ようやく震えの収まった指を伸ばす。鼻先でつつくみたいににおいを嗅いだのち、頬をこすりつけてきた彼らに頬をゆるませて。
あら、あんただったの。
──背筋が、ぞわり、粟立った。
姉の声だと、認識したのは声をかけられて随分経ったころ。正体に思い至ってもなお動けない私の視界に影が差しこむ。身の毛がよだつほどの美しい笑みに見下ろされ息も忘れた。
だめよ、こんな真似。優しく諭すような口調はけれど弁解も反論も許してくれない。深海よりもまだ昏い眸に射竦められ、呼吸がつかめない、言葉が泡と消えていく。
呆然と見上げることしかできない私を気にも留めず、踵を返した姉は再び陽の下へと歩みを進めていく。黒いかたまりたちが姉の影を追う。まとわりついた息苦しさが失せ、咳きこむように息を吐き出した。
それからどう家に戻ったのかは思い出せない。気付けばソファに寝転ぶ私を、珍しく早い時間に帰宅した妹が心配を表情に乗せて覗きこんできていたのだ。
「─…そ。姉さまがいいならいいのよ、べつに」
苦しい言い訳に納得したのかしていないのか、水を手渡してくれた妹はそうしてぷいとソファを離れる。私より幾分大きな背丈が、けれど今ばかりはひどく小さく映る。
「ひとりで抱えないでね。姉さまも、お姉さまも」
***
4.
お姉さまの突然の来訪に、その場に居合わせただれよりもわたしが一番驚いた。
「おねえちゃんがふたりいる」
だれかが戸惑いを言葉にする。無理もない、だってわたしとお姉さまは黙っていれば瓜二つなんだから。仕草と表情と言動が違えばここまで別人になり得るのね、とはすぐ上の姉さまの口癖。どう聞いてもけなし文句のそれに言い返せたことはない。
籐のかごを引っ提げて現れたお姉さまが浮かべるのはやっぱりわたしとは異なる笑み。だけど見慣れたどれとも重ならない表情に、咄嗟に声をかけることができなかった。
一言でいえば異様、だった。たしかにお姉さまなのに、わたしが見間違うはずも偽物であるはずもないのに、どこかが、なにかが違う。そんな漠然とした違和感に、言葉が、身体が、思考が縛られてるような感覚。
「へえ、いつもこんな場所に来てるのね、あんた」
お姉さまが物珍しさを視線にこめて見渡す。距離を取るみたいに一歩一歩と後ずさるこどもたちがわたしを盾にした。あら、と丸まったのはお姉さまの眸。その表情がようやくわたしの知ってるお姉さまと重なって、ほ、と息をついた。
「どうしたのお姉さま。いままで広場になんて来たことなかったのに」
「この近くでちょっと用事があったから。あんたがだれと会ってるのか気になってね」
非の打ちどころのない笑顔が、わたしの背後を覗きこむ。背中で一斉にかたまる気配。ぎゅう、と指やスカートの裾に縋られ思わず握り返してた。こわがるこどもたちを宥めようとか、そういうわけじゃない。異質な雰囲気を、だれであろう実のお姉さまに感じている自分が信じられないだけだった。そのうちだれかが甲でもつねってこれは夢だと教えてくれるかもしれない、そんなことさえ考えてた。
知らず現実逃避するわたしを逃すまいとでもするように、足に、腕に、胴に、こどものものではないなにかがまとわりつく。じわりじわりと酸素が失われていくのに、呼吸どころかまばたきさえ許されない気がして。
対してお姉さまはひとり陽気に、持参したかごを漁っていく。ひとつ、またひとつと取り出した包みは、いつもお姉さまがわたしに持たせてくれるお菓子と同じ。
「ザクロはすきかしら」
焼き立てのパイのにおいが鼻先を掠める。おなかを鳴らしたひとりが、わたしの背を離れふらふら誘われていった。包みから覗く色は恐ろしいほど純な赤。受け取ったその子がひとくち含み、おいしい、と顔を輝かせる。続くようにひとりずつ包みを手にした彼らは、やがて無心で頬張り始めた。もはや手にしたそれしか見えてないこどもたちはまるでなにかに憑りつかれているふうにも見える。
ひたり、目の前に差し出された包みに顔を上げる。
「ほら、あんたの分」
微動だにしないお姉さまの表情。受け取ってしまったのは果たしてわたしの意思なのかももうわからず、ただ促されるまま包みを開いた。毒々しいほど鮮やかな色彩が目に刺さる。たしかにおいしそうなにおいはする。いつもお姉さまが作って持たせてくれる、甘くてとろけるパイのにおい。なのになにかが違う、どこかがおかしい、だけどどこが。
もっとちょうだい。だれかが次をねだれば、こどもたちが我先にかごを持つお姉さまを取り囲んだ。お姉さまがかごに視線を移す、その一瞬に、さっき渡されたそれを後ろの噴水にこっそり落とす。
ふ、と。再び持ち上げられた眸がわたしを見据えた。深海よりもまだ深い色。いつもは慕わしさしか感じないそれにぞわりと、背筋を走る怖気。
「やっぱりお姉さまのパイが世界でいちばんね」
平静を装いようやく告げたうそに返ってきたのは、底の窺えない表情。
かごが空になったところでじゃあねと手を振ったお姉さまがまた、街の喧騒に紛れていく。その後ろをこどもたちがついていった途端、のどの重みが消えたようだった。
額の汗を拭いながら移した視線の先、噴水の底で、あかいあかいパイが腐って消えた。
***
5.
酸素を取り入れようと開いた口からごぽりと泡が転がり落ちていく。
海に沈んでいるのだろう、と思う。なにせ光が見当たらないせいで、自分がいま目を開けているのか閉じているのかさえ判別つかない。
息が苦しい。いつもであれば水中でも呼吸が妨げられることはないはずなのに。
なぜ自分はこんな場所にいるのだろう。掠れる意識を繋ぎ止めるように疑問が降って湧く。記憶の最後に残っているのは桟橋。凪いだ海を前にしていた。誤って落ちたのだろうか、いや違う、唄をうたって、こみ上げるように、突き動かされるように流れ出たあのうた、波が蠢いて私を呑みこんで、そうだ、カモメが、
──お前はなにも考えずともよい。
背を這う声にぞくりと粟立つ。私と同じ声が鼓膜を侵して思考を根こそぎ奪い去る。
──ただ身を任せていればよい、すべてうまくいく。
水が喉の奥へと流れこんでくる。息ができない。腕が、足が、なにかにまとわりつかれている。嘲笑うかのような音が遠のいていく。ああ妹たちは、あの子たちは、きっと私を探している、どうか見つけないで、呑まれてしまうから、ああどうか。
必死に伸ばした指がなにかに絡め取られる。氷のように冷たいそれにほんのわずかな希望さえ凍らされ、ふつりと、『私』がまた、沈んでいった。
***
6.
たとえば酔い潰れた部屋の主に説教垂れつつ担ぎ入れたとき、あるいは眠れない夜の話し相手になったとき。なにかと理由をつけてはここに足を向けていた。
あるべきものがあるべき場所に収まっている姉の部屋がすきだった。姉のやわらかな香りの染みついた部屋がすきだった。同じ構造なのに、寝る空間さえ見当たらないほど散らかっている妹の部屋や、本で埋め尽くされている私の部屋とは大違い。そんなふうなことをつい洩らしたとき、姉は楽しそうに笑っていた、あなたってば本当に私がすきなのねえ、だなんて。その笑みもほんの数ヶ月前に見たきり、いまではもうどんな眸の色をしていたのかさえ霞んで見えない、まるで姉の姿が段々と隠されていくように。
頭を振る。ほんのわずかな希望を確信に変えるために訪れたというのに。
姉の不在を突いた侵入だった。いつの間にか取り付けられていた鍵をこじ開け、身体を滑りこませればつん、と。鼻をつくのは海のにおい。生命あふれる潮の香りなどではない、深海よりもまだ底の底、命の気配がまるでないそれのにおいだと思った。
棚にきちんと収められた本。ぴたりと閉じたカーテン。皺ひとつないシーツ。奇妙なほど整った部屋には生活感がまるで窺えない。ここにはだれもいないのか、そんなはずはない、姉が、あのひとが暮らしているはずなのに。私たちと同じように食べて眠って息をしているはずなのに。
けれどはたと思い至る、最近あのひとがなにか口にしている姿を見かけただろうかと。弱いくせに酒を嗜む姉の晩酌に付き合ったのはいつのことだっただろうかと。つい昨夜も夕時前にふらりと消えそのまま戻らなかったあのひとはどこで眠っているのだろうか。
あれはいつのことだったか、妹のためにとパイを焼いていた朝のこと。
末の妹にとことん甘い姉がおやつを持たせるのは日常茶飯事ではあるけれど、料理にも編み物にも最近とんと手をつけなくなった姉が台所に立っているのも珍しい。わずかに弾む足取りのまま近付き、かかとを浮かせ覗きこむ。
『もうすぐ、』
真っ赤なザクロ、まるで血のような。
鮮やかな色に呼吸さえ奪われる私に気付いた姉が振り返りもせずひと声、ぞわりと、全身の毛を逆撫でされたみたいに寒気が走る感覚は初めてではない。ふ、と動きに合わせて香りが舞う、ああそうだ、この部屋と同じ死の気配をまとっていたのだ。海の底をそのまま攫ったかのような眸が私を絡め取ったせいで、続く言葉はまるで記憶に残っていない。たしか聞き慣れない言語だった。私も妹も、この街のだれも発したことのないそれ。姉の声であることは間違いないのに、まるで別のなにかが姉の喉を借りて話しているみたいに違和感ばかり。
ただの記憶にさえ囚われそうになり、慌てて頭を振る。落ち着きをなくした鼓動が足を急かす。つま先につたう絨毯の感触まで気持ち悪い。姉が特にこだわって選んだそれの肌触りがすきだったはずなのに。
眩暈に侵された視界に、見覚えのある表紙が留まった。三人で大掃除に取りかかったあの日、妹が納屋で見つけたという古びた本だ。まだそばに置いていたとは。
埃の払われた表紙に伸ばした指がどうしようもなく震える。いくらかページを繰ったところでやはり解すことはできない。ここに答えはないのだろうかと閉じかけたとき、はらり、床に舞った一枚の紙。書きつけられた筆跡には見覚えしかない、姉の文字だ。
詩の一節にも見えるそれが、記憶の隅に引っかかる。そうだ、もう顔さえおぼろな母が子守唄としてうたってくれていた。海に焦がれでもするかのような歌詞。だれかを、なにかを求めているような。そういえば母はなんと言ってうたい聞かせていただろうか。
ふ、と。海のにおいが、真っ赤な色が、深海から覗く眸が、姉の変貌が、母の願いが。意図せず繋がっていく。ばかな考えだと笑い飛ばしたかった、なのに震えが止まらない、縋りつくべき姉の姿もいまはない。
希望がたしかな絶望に塗り替えられていく。のろいにも似た母の祈りを今更思い出す。
ああ、姉は、あのひとは、あれは。
***
7.
ただの人間であるはずなのに、においは、雰囲気は、正しく異形そのものだった。
お姉さまの足跡をたどり始めてすでに半日が経っていた。実の姉の所在を探るなんて褒められたことじゃないけど、もはやなりふり構っていられない。だってあの実直なお姉さまが連日家を空けるだなんて、行方を案じないほうがどうかしてる。
陽が昇っても戻らない姉の姿に、鼓動が急かすまま街に繰り出す。
はじめに向かったのは市場。この時間ならせり売りの声が行き交ってるはずのそこは静寂に包まれてた。魚屋も果物売りも精肉所も、店主どころか売り子の気配さえない。肌を刺す異様な空気に鳥肌が立つ。夏の盛りを過ぎたばかりなのに、こんなにも寒気がひどいのはどうしてだろう。
次に足を運んだのは路地裏。陽のかげるそこはいつもなら街のこどもたちのたまり場になってるはずなのに、今日はひとっこひとり見当たらない。知らず身震いしてしまうのはなにも陽が差さないせいじゃない。
広場へ進む足がおぼつかない。どうして。疑問ばかりが頭をめぐる。どうしてだれの姿も見えないの、どうしてひとの気配がしないの、どうしてこんなに冷たいの、まるでわたしの知らない土地みたいに、海の底の底みたいに。答えを知ってるはずのお姉さまはどこにも見当たらない。お姉さま、ねえ、お姉さま。
歩き回っているうちに陽が天頂から傾く。
わたしの心の叫びに応えるように見えた背中は姉そのひと。だけどその周りをぐるり囲っていた人だかりは、それらは、街の住人たちの姿をかたどったなにかだった。
ぞわ、と。感じ取った気配に思わず物陰に身を隠す。お姉さまを中心に広場に集った各々がまとう見慣れない衣装。血を思わせる赤を、宵を切り取った紫を、水底を映した青を。嬉しそうに、誇らしそうに着飾るそれらの雰囲気がどこかわたしたち姉妹に似ているようでいて、だけど決定的ななにかを異にしてる。
もうすぐ。ひしめき合いながら口々にこぼれる歓喜。もうすぐかのひとが。
一段高い場所でそれらを眺めまわしていたお姉さまが、ふ、と。深淵色の眸がたしかにわたしを捉えた。つと、笑みのかたちに細められる。背中を這う怖気に駆け出した。見てはいけないものを見てしまった。知ってはいけないものを知ってしまった。心音に世界を蝕まれる。夜が近い。早く、はやく姉さまのもとへ。きっと家で待ってくれてるすぐ上の姉さまに縋ったってどうにもならないことはわかってる、だけどだれかに寄らなければどうにかなりそうだった。だってあそこにいたお姉さまは、わたしを射抜いた眸は、酷薄に笑んだそれは、わたしの知ってるやさしいお姉さまなんかじゃない、べつのなにかでしかない、あれは、あれは。
家路をたどりながら思い出すのは、あの日拾った手紙だった。
納屋で見つけた古い本から滑り落ちた一枚の紙。お母さまがお姉さまへ宛てた文面。結局捨てることもできなくて、あるときついに目を通してしまった。
曰く、どうかこの本にたどりついてほしいと。どうか子守唄としてうたい聞かせてたあの唄を思い出してほしいと。そうしてどうかわたしの、わたしたちの悲願を、あのおかたを、と。
意味がわからなかったお母さまの言葉が、さっきの光景と結びついていく。書きつけられてたあれは願いなんかじゃない、のろいだったんだ。自分が叶えられなかったものをお姉さまに押しつけて縛りつけて、だからお姉さまは、あのひとは。
ようやく帰りついた家は、お姉さまの部屋だけ明かりが灯ってるようだった。まろびながら目指したそこの扉は開け放たれたまま。勢いよく飛びこんで最初に見えたのは、床にくずおれた姉さまの姿。
「あねさまっ、」
わたしの呼びかけに肩を震わせたそのひとが視線を向ける。水面色の眸がどうしようもなく揺れてる。その腕が抱えるのは見覚えのある本と一枚の紙。お姉様が。姉さまのくちびるが震える。お姉様は、あれは。
「わるい子たちだこと」
***
8.
「あなたは、だれ」
妹を背に庇いようやく絞り出した声はけれどどうしようもなく震えていた。私の問いを受けたそのひとがく、と。なにがおかしいのか、くちびるの端を悪戯に引き上げる。深淵を覗いたような眸に射抜かれ、胃の腑がせり上がるのも何度目か。
「あんたたちったら、ちょっと留守にしてた間に姉の顔も忘れてしまったの」
「お姉さまはわたしたちのこと、そんなふうに呼んだりしないわ」
「あなたはだれ。お姉様はどこ」
妹の加勢に今一度、意を決して繰り返す。姿かたちは姉そのものであっても、気配が、仕草が、表情が、私の知る姉とはまるで異なる。では何者だというのか。もはやひとつしか残されていない解をけれど聞き出さなければならない。あのひとを取り戻すために。
深淵色の眸が不愉快を露わに影を帯びる。姉と同じ声で紡がれた聞き慣れない言語が呪詛のようにまとわりつき喉を絞め上げる。部屋の空気が身体に圧し掛かる。思わず膝を折った私を見下ろす深淵色の眸が笑みのかたちに細められた、まるで憐れむように。
「お前も惑わされておけばよかったものを」
腹の底を這う低い声。おおよそ姉の声帯から発されているとは思えない音にまばたきさえ許されずただ深淵の縁で跪くばかり。
あのかたさえいらっしゃれば──ともすれば歯の根も合わない状況だというのに思い出すのはいつかの母の言葉。あのかたってだれ。無邪気な問いがもうだれが発したものかも覚えていないのに、私たちではなく遠く海の底を透かしていた母の眸だけはいまも鮮明に記憶している。
そうだ、あのひとは本ばかり読んでいた。代々受け継がれてきたのだという古い本。私たちに夜な夜なうたい聞かせていた子守唄も、もとはその本の一節だったのだという。あのかたってだれ。答えはついに与えられなかったように思う。けれどいまその解が、海底深くで眠っていたそれが目の前で、姉の顔に狂気をにじませていた。
「この女は幸せ者よ」
ほっそりとした指が、自身の胸元を突く。
「有り難くも余の依代となって悠久の時を過ごせるのだからな」
「…どう、して、どうしてお姉様が、」
くつくつと鳴る喉が嘲笑う。お前だってとうに気付いているだろうに、と。酷薄な眸はすべてを見透かしている。姉はきっと、母が子守唄としていた不完全なそれをすでに正していたのだろう。姉の歌声はひとの惑いを誘うほど、古の血が色濃く受け継がれている。恐らくはそこがかの者のお眼鏡にかなってしまったのだ。
「叶うなら憎きダニエラの意識を奪い、あの女が愛していたこの港を己が手で闇に塗りこめるつもりだったのだが、あいつはとうの昔に朽ちてしまった。つまらん女よ」
苦々しく吐き出された言葉に理解が追いついても納得できるはずもない。悠久の時、とそれは言った。まさか永遠にこのままだというのだろうか。なによりも大切な姉を、未来永劫失ってしまったのだろうか、私は。
深海を思わせる色をまとった爪が、私の顎を持ち上げる。
「なにをそんなに絶望している」
姉の顔で、姉の声で、姉の身体で。不気味に嗤う、まるで違ういきもののように。
「日陰で生きることを強いられてきたお前たちがようやく報われる日が来るのだぞ」
影を踏まずに歩くことができる者たちを憎みもした、恨みもした、ああけれど、姉がいて妹がいて、姉の焼いたパイをたべて、妹と他愛のない口喧嘩をして。それだけで、ただそれだけで私は、この港を嫌いにならずに済んだ、このままの暮らしがずっと続くものだと、漫然とそう思っていたのに。
「もうすぐ太陽の季節が去り、闇の時節が訪れる」
なにもかもを呑みこむ深淵の眸に突き落とされてもう、息もできない。
「闇に与するか、陽にその身を焼かれるか。憐れな海の子よ、お前はどちらに生きる」
***
9.
「─…僭越ながら、」
ようやくわたしに気付いたようにぐるりと向けられた眸はまるで深淵を覗きこんでるみたいに底が窺えなかった。視線から解放された姉さまが苦しそうに咳きこむ。その背をさすることもできずただ、お姉さまの色だったものに真正面から相対する。
星の隠れた夜とも、光の差さない海とも違う、まったくの闇に突き落とされた感覚。
「申してみよ」
お姉さまの顔なのに、お姉さまの声なのに、お姉さまの身体なのに。不気味に歪められた口の端に背筋が凍る、ああ、まるで違ういきものみたい。
「…貴女さまの依代に相応しい者がおります。半端者の姉よりも、もっと」
つ、と興味深そうに眉が持ち上げられる。この港に息づくだれも彼もにとっての親愛なる友人であり、この世界のすべてを司る者。この世の光であり、すべてを照らすもの。
唾を呑みこむことも許されず、気付けばその者の名を紡いでいた。聞き遂げたそれがまたおかしそうに嗤う、だけどどうしようもなく眸ににじむのは明らかな憎悪。
「よもやその名を再び耳にすることになろうとは」
姉さまの身体を跨いだそれがわたしを見下ろす。長い爪があごをかすかに引っ掻く。皮膚が引き攣る。悲鳴さえどこかへ転がっていった。
「そんなにもこの女が大事か。己が手を穢してでも」
覚悟を、問うていた。お姉さまのためにこれまでのなにもかもを投げ打てるのかと。そんなこと、聞かれずとも決まってる。この港ひとつ差し出せばいいのなら、この地に棲まうすべてと引き換えにお姉さまを取り戻すことができるのなら。破滅を謳う魔女にでもなんにでもなってやる。
無言を肯定と捉えたそれは満足そうに深淵色をゆるめる。ふ、と。これはお姉さまのにおい。ならばもう暫し眠るとしよう。落ちた声がどこか遠くで響く。お姉さまが戻りつつあるんだと、直感が告げる。ふらりと傾いだ身体を、ようやく立ち上がったわたしと姉さまのふたりでどうにか支えた、刹那、見開かれた深淵が愚かな女ふたりを映す。
──失敗は許されぬ。
言葉はそれきり。力を失ったまぶたがゆるりと深淵を隠す。恐る恐るお姉さまの胸元に耳を当てた姉さまがやがて安堵を吐息にとかした。どちらからともなく手を伸ばし、震える指を重ね合わせる。誘われるまま姉さまと同じ体勢を取って、とくり、たしかな音に身を任せる。ああ、お姉さまの音、お姉さまのにおい。
ぎゅう、と。握りしめたのはきっと、わたしと姉さま、同時だった。
「…わたしたちで成功させなくちゃ、絶対に」
***
10.
夢を、見ていた。
もうはるか昔の記憶。まだ妹たちの顔さえ知らなかったころ。お母様から手渡されたパン屑を高く掲げる。手のひらに群がるカモメたち。弾む心をそのままに振り返れば、相好を崩したお母様が私の目線に合わせてしゃがみこんだ。
元気だったころのお母様。仄暗い深海に呑まれる前のお母様。大好きだったお母様。頬と額に走る群青色の鱗がきれいなひとだった。後に知ったことだけれど、人目につく位置に海の気配を色濃く継いだお母様は、港の人間から奇異の目で見られていたという。理不尽に虐げられ、愛した夫にも捨てられ、どれだけ生きづらかったことだろう、どれだけ私たちを心の支えにしていたことだろう。
すっかり平らげられた手のひらに笑みを深めたお母様が、新たなパン屑を差し出す。幼い私を喜ばせるため、自身の少ない食料を分け与えてくれていたのだと、これも後々気付いたこと。
やわらかな声が私の名を紡ぐ。カモメはね、溺れたひとを助けてくれるのよ。声が、波音が、カモメの鳴き声が遠ざかっていく。なぜこの話をいま夢に見たのだろうかと、答えはすぐに浮かんだ。お母様はきっと溺れていたのだ。もうずっと、底の窺えない海に囚われてしまっていたのだ。ねえお母様、あなたが望むのなら私は──、
波が引くように景色が遠ざかり、代わりにぬくもりが降ってきた。覚えのある温度に重いまぶたを押し開ける。差した光から察するに朝、だろうか。体感がおかしい。長い間眠っていた気がするけれど、一体どれほど夢に沈んでいたのか。
「お姉、さま…?」
探るような声は左側から。視線を移した先の像がぼやけている。まばたきを二度三度、ようやく焦点を結んだ眸が捉えたのは涙を湛えた末の妹。どうしたの。声をかけようとして、けれど乾ききった喉が咳をこぼす。
「無理をしないで、お姉様」
心配を乗せた声は右側から。咳きこみながらも声をたどるのと、ベッドサイドの椅子に腰かけた次妹が手を伸ばすのは同時だった。手の甲をさする指が震えている。澄んだ水面色であるはずの眸が痛々しいほど充血していた、まるで泣き濡れたあとみたいに。
「心配したのよ、お姉様、風邪で何日も眠っていたんだから」
「そうよお姉さま、もう起きないんじゃないかってハラハラしたわ」
ふたりが矢継ぎ早に話しかけてくる。疑問も返事も許されない雰囲気だった。どうかなにも聞いてくれるなと懇願する二対の眸。まぶたを閉じて、開いて。疑念は胸のうちに閉じこめた。妹たちが望むなら、私はそれを叶えるまでだ。
背を支えられながら上体を起こす。お姉さま、と。恐る恐る切り出したのは末の子。
「わたしたちに隠してること、あるでしょ」
ひたと見据えてくる浅瀬色の眸はもう真実を知っている様子だった。私が眠っている間にあの本を読んでしまったのだろうか。かのひとに関する伝承を。
この港が現在の名を冠するよりも昔、この地を治めていたそのひとは歌声によって力を得ていたのだという。ならば古より伝わりしその唄を紐解けば、かのひとが蘇り再び海の者のための世になるのではないかと。日陰でしか生きられない妹たちが陽のもとで息をすることができるのではないか、と。
「あのね、お姉さまが眠ってるうちに話したの、姉さまと」
「三人で事を進めたらきっと上手くいく、って」
だから、と。末の子よりも長い時間を私と過ごしてきた妹が息を継ぐ。
「─…ひとりでいかないで」
息を、つく。方法を知り得たとして、妹たちを巻きこむ気はなかった。海の底に眠るそれの実態が計り知れない上、なにかしらの犠牲も伴うかもしれない。けれど縋りつく眸を拒む術を、私は持ち合わせていなかった。
窓の外、広大な空を舞うカモメに願う、ああどうか、おぼれゆく私たちをすくって。
(こぼれていく、くずれていく、いままでのすべてが、私たちのしあわせが、)
深淵への蓋を開けてしまった憐れな姉妹の行き着く先にどうか少しでも幸あらんことを。
2020.11.1