春はまだ遠く、
段々と近付いてくる蹄の音が合図。
顔を上げれば、見慣れたたてがみをたくわえた馬が歩みを進めていて。そのうちはっきりと見えてきた、これまた見慣れた人物に自然、頬がゆるゆると持ち上がっていく。足音に合わせてとくとく跳ね出した胸をきゅ、と押さえて。
なにかしら、この気持ち。花の香りに酔ったのか、いいえありえないわ、だってわたしは花屋の娘なんだから。
「いらっしゃいませ」
馬の背から降りたその人にいつも通りの挨拶を一つ、なにかおすすめはあるか、と。少々ぶっきらぼうに彼はそう口にした。まったく愛想のない人、なんて最初は思ったけれど、単に恥ずかしがり屋なだけなんだわと、気付いたのはつい最近のこと。
並べた花をきょろきょろ見渡す彼の頬は真っ赤な薔薇でさえ霞んでしまうくらい。きっと人と接することに慣れていないのね。
悪すぎた第一印象は薄れて、いまはただ、かわいい人だなと。男性にそんな形容詞を用いるのも失礼だから、微笑みだけに留めているけれど。
「そうですね…誰にプレゼントされる予定ですか?」
「その。…美しい、女性へ」
頭一つ分ほど高い位置にある明るい栗色の眸がまたたきを一つ、二つ。ぼ、と音を立てそうなほど頬を茹で上がらせて顔を逸らしてしまう。きっと想い人であろうその女性を思い浮かべてこんな風になってしまうんだから、本当、かわいい人。
口元にのぼった笑みを隠したくて手を当てたけれど、効果は薄いみたい。
「もう想いは伝えられたんですか?」
「いや、まだ。…正確には、伝えているのだが、気付いてくれないというか」
「鈍感な人もいるものね」
お客様相手だというのについ、砕けた口調になってしまうのは、彼が肩を落としている姿があんまりにもかわいそうだったから。
わたしの花屋に馬が突っ込んできたのはいつのことだっただろう。それからというもの、彼は毎日この店にやって来て、花束を買っていく。罪悪感をその下がった眉にありありと乗せて。けれどわたしが花の説明をしている時、彼はいつもうれしそうで。
てっきり謝罪をこめて買ってくれているのだと思っていたけれど、想い人のためだったのね。疑問はあっさり解決して、代わりになんとも言えない重しが心に圧し掛かってくる。彼にこんなにも想われている女性はしあわせね、だとか、心惹かれているのは一体どんな女性なのかしら、だとか。顔さえ知らない想い人を浮かべるたび、ずしり、ずしりと増えていく。
疲れてるのかしら、わたし。軽く頭を振って思考を逃がした。
「そうですね、じゃあ…」
接客へと切り替えて、花の一つ一つを見比べていく。花を贈られても想いに気付かない人には、直球で行くしかないわね。込められた言葉を思い出し、薄桃色の花弁をそっと撫でた。
「ブーゲンビリア、なんてどうかしら」
「…これは」
「『あなたしか見えない』」
「え、」
「花言葉よ」
一瞬輝いた彼の表情を横目に、手早く花を束ねていく。
香りを持たないこの花が、わたしは好き。だってどんな香りにも染まってくれそうだから、そんな希望を持たせてくれるから。もしこの花をプレゼントされたなら、わたしだったらうれしくて舞い上がってしまうけれど。
口下手な彼の手助けになるようにと、花言葉をつづったカードをそっと差し入れる。
「はい、どうぞ」
花束を受け取った彼はお代を払い、けれど立ち去ろうとはせずその場でじっと花を見つめている。どうしたのだろう、もしかして、花が気に入らなかっただとか。
悪い想像が駆け抜けていくと同時、ふわりと目の前に薄桃色が広がった。香りのない花のにおいが一瞬、鼻を掠めていった気がして、
「あなたしか。…あなたしか、見えないんだ」
薄桃色の花束の先に見えた頬は、赤々と染まっていた。きっと逸らしたいでしょうに、まっすぐにわたしを見つめてきていて。栗色の眸さえ、赤に侵食されているようで。
心がリズムを速めていく。とくとく、とくとく。まるでわたしのものではないみたいに、駆け出してしまう。
胸に添えた手をぎゅ、と。握りしめたら自然、微笑みが浮かんでくれた。
「完璧。あとはそれを、想いを寄せている方へ言ってあげてください」
「………え?」
たっぷり五秒、間を置いて。
そう、これは練習。わたしを想い人に見立てた、ただの予行なのよ。それにしたって完璧だわ、だってこんなにも、わたしの胸は高鳴っているんだもの。これならいくら鈍感な女性だって気付くはずだわ、彼の抱いている想いに。
「ほら、早く」
いまだ呆気に取られている彼の背を押して、馬へと急き立てる。うーとかあーとか呻いていた彼は最終的にがくりと肩を落として、馬にまたがった。緊張しているのかしら、やっぱり、かわいい人。
馬がいななきを一つ、足を進める。振り向いた彼が迷った子供みたいで、そっと手を振った。
「明日、また!」
そうして彼にしては珍しく少し張った声を残して、手綱を取り走り出す。明日、ということはまた、買いに来てくれるのかしら。それって告白が失敗する前提ってことかしら。
「…ふふ、かわいい人」
こらえきれずに想いをこぼす。
もしその言葉通り、彼が明日も来てくれるのならその時は、きちんと名前を聞こう。わたしの心を簡単に奪っていった、彼の名前を。
(けれどすぐそこに)
最初に書いた国王夫妻は若かりし日のお話でした。
2014.6.9