夜になく、

 ゆっくりと鍵を回せば、ノックを忘れて久しい扉は簡単に開いてくれた。静かに、音を立ててしまわないように。この部屋の主の眠りが浅いことは、わたしが一番知っているから。  僅かな隙間に身体を滑り込ませてベッドに近付けば、扉が素直にお願いを聞いてくれたおかげか、氷色の眸を持った娘は小さな寝息を立てたままだった。もう一人の娘と違って寝相の良いエルサは幼いころそのまま、窓を背にして眠っている。果たして夢の世界に落ちているのか、そこまではわからないけれど。夢を見ているのならどうか、こわい世界でありませんように、と。願うことしかできないわたしはなんて無力なのか。  床に膝を突いて、ベッドサイドに顔を預ける。昨日以来に間近で見つめる娘の表情は、窓から差し込む月の光に眩んでよく窺えなかった。太陽が昇っている間は、エルサが起きている時はこんな距離にまで近付かせてはくれないから、こうして夜も深まってきたころに寝顔を盗み見ることしかできない。  聞いてちょうだい、エルサ、今日もアナは語学をエスケープしたのよ。  声を出さずに報告するのはアナのこと。もう何年も顔を合わせていない姉妹を繋ぎ止めたくて、細かなことでも一つ一つ伝えていく。本人に届かないとわかっていても、ずっと続けてきたことをやめるなんてしたくなかった。自己満足だって知っている、自分勝手だってわかっているけれど。  報告を一通り終えて一息、右手にできた真新しい傷跡をなぞる。  つい一週間前、少しずつ抑えられるようになってきたはずのエルサの力が暴走した時に受けたものが、いまだに赤く色づいていた。幸いにも軽い凍傷で済んだけれど、軽傷だろうが重傷だろうが娘がショックを受けないはずがない。一日に一回同じ部屋でする食事が、一緒に編み物をする時間が、そうして最後にはおやすみの言葉もなくなって、自分の部屋に引きこもる時間ばかりが増えてしまった。わたしが不甲斐ないばかりに、ちゃんと守ってあげられないばかりに、自ら殻に閉じこもるよう強要させてしまって。 「ごめんなさい…ごめんなさい…、」  のどから溢れるのは謝罪ばかり。本当はこんなことを言いたいわけではないのに、ちゃんと名前を呼んで、抱きしめて、頭を撫でて、それから、 「こんなママで、ごめんなさい…っ」  あなたの眸を見つめて、愛してると伝えたいのに。どうか目を覚ましてしまいませんように、こぼれる雫に気付いてしまいませんようにと、そればかりを願って。  たとえばあなたを守れるほどの母親であれば、あなたにばかり負担をかけさせたりはしないのに、一緒に背負ってあげられるのに。眸が覗くことを恐れずその名を呼ぶことができたかもしれないのに。  今日も夜が明けていく、娘のいない朝がやってくる。 (あるいはこれは罰だとでもいうのですか、力のないわたしへの)
 エルサちゃんが十五歳くらいのときのある夜。  2015.3.5