それにしたってビターすぎやしないか。
葉巻はどうも苦手だった。臭いも原因の一つではあるが、胸を反らしてこれ見よがしに吸っている様子は高慢過ぎて鼻につく。だが大人の世界、こと社交界においては、どうしても葉巻を手に取らねばならないことが幾度もあるのだ。今回も嗜み程度に、と前置きしたものの、勧められるまま口にしたせいか煙が脳にまで回っているような錯覚を起こしてくらくらする。
こんな時は甘いもので口直しをするに限るのだが、夜も更けに更けたこの時間、私にとっての一番の糖分はもう夢の世界に旅立ってしまっているかもしれない。
いや、今日ばかりは眠っていることを願ってしまう。彼女は葉巻の臭いを酷く嫌っている、言い分を聞けば、あなたのにおいが消えてしまうもの、と。そんな彼女に煙を染み込ませて近付こうものならまず思いきり眉をしかめられ距離を置かれ臭いが取れるまで近寄らないでくださいと拒絶されてしまうのだ。その表情がまたかわいくもあるのだが、不快な表情を向けられても平気なほど私の心は強くはない。
いっそ香水でも振り撒こうかとも考えたが、それはそれで、どこの貴婦人と踊られてきたのですかと嫉妬の眼差しを送られるものだから、私としては熟睡を祈るしかないというわけだった。
寝室の扉を開ければ案の定、灯りは落とされていた。ほっと胸を撫で下ろし、ベッドへと足を進めていく。
月明かりに照らされたその場所では件の妻が、シーツも掛けず丸まって寝息を立てていた。きっと私が帰ってくるまで起きておくつもりだったのだろう、普段早寝な妻の努力を思うと、嬉しさで頬がゆるんでいってしまう。
眠っていますようにと願をかけたことを心の内で謝罪しつつベッドの縁にゆっくり腰掛け、上着を脱げば、嫌悪するその臭いが否応なしに漂った。やはり吸い過ぎてしまったか、しっかり洗わなければ落ちないぞ、これは。
染み込んだ煙にため息を一つ、ベッド脇の机に雑に放ったところで背中にぬくもりが降り落ちた。
「─…おかえり、なさい」
途切れながらも吐き出された声はいまにも眠りについてしまいそうだった。首に回された両手に触れれば、きゅ、と。背中に感じる体温がいつもよりあたたかいのは寝起きだからか、定かではないが、じんわりと彼女の熱が浸透していくのだけは実感できた。
「起こしてしまったかい、イデュナ」
ふるふる、首を横に振った気配。
「おきてました」
幼子みたいな口調のうそつきはかわいらしい欠伸を交えてそんなことを言ってのける。そんな言葉一つにさえいとしさが募って仕方がない私の方こそ子供なのかもしれない、こんなことで、待ってくれていたというだけで胸があたたかくなる私こそ。
首を傾げれば、随分と眠たそうにまどろんだ眸と重なる。僅かな月光で輝くそれに惹かれるように顔を近付かせて、いつものおやすみの、
「…くさい、です」
「え、」
「葉巻。吸ってきましたね」
ぱちり、瞬きのうちに眉が中心へと寄っていき、あれほど落ちてしまいそうだった眸はどこへやら、すっかり眠気も飛んだ様子で見つめてくる、不快感を隠そうともせずに。
いや吸ったことには確かに吸ったのだが、なにもこんなところでその事実に気付くことはないではないかと。言い訳しようにもさっさとシーツをまとった彼女はベッドの反対側へと移動して背を向けて寝転んでしまっていた。
「その臭いが消えるまでキスはしません」
そのたった一言で私が眠れぬ夜を過ごすことになると知っているくせに。無情にも聞こえ始めた小さな寝息に、いまだくらくらする頭を抱えたのだった。
(目の下に黒い痕を残した彼に糖分が与えられるのは次の日の朝のお話)
煙草はあなたのにおいまで消してしまうから。
2015.8.17