永遠なんてないことは知っているけれど願わずにはいられない。
ふわりと香ったにおいはいつだったか、彼女が見繕ってくれたにおいを持たない花のそれになぜだか似ている気がした。
「あっ、まだ入ってこないで…!」
焦ったように立ち上がるイデュナとは正反対に、満面の笑みを浮かべたゲルダがどうぞどうぞと手招いてくるものだから、遠慮なく部屋に足を踏み入れる。まだ、と彼女は視線から逃れようとそっぽを向いてしまったが、私の目からしてみればもう準備は完了しているように見えた。だからこそゲルダがひっそりと退席していったのだろう、その優秀な働きぶりにはいつも舌を巻いてしまう。
ヴェールを下ろし椅子の上で小さくなってしまった彼女の頬に手を添え、そっと上向かせる。淡い眸さえ、真逆であるはずの紅に染まっているように錯覚するほど、恥ずかしさに震えてしまっていた。そこまで身を固めなくとも、どちらにせよ数時間後には衆目に晒すことになるというのに。
今頃式場には私たちの親族を始め、他国の王族や懇意にしている公爵その他大勢で溢れていることだろう。その中に何人かはいるであろう年若い王子たちに、彼女の美しい姿を見せたくないという嫉妬にも似た感情ももちろんあるが、それよりもようやく私と誓いを立ててくれる彼女の姿を、存在を見止めてほしいという願いの方が強かった。
そんな心中を知られようものなら子供みたいですねと一蹴されそうだが、普段は聡いはずの彼女はいまは生憎心中を察するほどの余裕がなさそうだった。
「…あなたに見られることが一番、恥ずかしいんです」
消え入りそうにこぼされた言葉になるほどと頷く。普段の少々強気な彼女もいいが、こんな風に頬を染めてしおらしくしている様子もかわいらしい。納得した私に、なるほどじゃないですよと俯いてしまった。
理由は分かったが、目を合わせてもらえないのはいただけない。
イデュナ。
そ、と。名前を落とす。それだけ、たったのそれだけで、素直な彼女は私を捉えてくれる。焦がれてやまない眸に姿を映し込んでくれる。
なんですか、と。僅かばかり拗ねた口調で返された言葉に、こみ上げた愛しさをそのままに抱きしめた。もう二度と、離してしまわないように。
「もう、…苦しいです」
「すまない、もう少しだけ」
「…もう」
純白の手袋に包まれた腕がゆるり、背中に回され、幼子でもあやすみたいに背中を撫でられる。心地良さにまぶたを閉じれば、やはり、先ほどの香りが鼻先を掠めていく。
懐かしいそれは、私と彼女の出逢いを、これまでを思い出すには十分すぎるくらいだった。ここまで来るのに色々あったな、なんて一言では言い尽くせないほどの思い出を、記憶を、彼女とともに歩んできた過去を。
ね、アグナル。
落ちた名前が耳をくすぐる。息を一つ、あたたかな彼女の呼吸が熱を伝えてくる。
「わたしでいいんですか。本当に、わたしなんかで」
「…どうやら君は、まだ分かっていないみたいだ」
語尾を上げて投げかけられたそれはきっと彼女の胸にいつもしこりのようにあったもの。王族でない彼女はこの日までにおそらく幾度となく繰り返してきたのだろう、庶民である自分が隣にいてもいいものか、愛を受けてもいいものかと。そんなこと、答えははっきりしているというのに、それでも言葉足らずの私では安心させることすらできなくて。
のどを震わす声が、すがりつくように力がこめられた指が、揺れているであろう眸が、どうかこれ以上の不安を抱えてしまわないようにと。彼女に構わず思い切り抱きしめる。小さな身体はもう少し力を加えただけでも壊れてしまいそうなほどか細かった。
「君がいいんだ。──君じゃなきゃ、だめなんだ」
どうか、どうか私の傍にいてください。誰よりも近くに。
誓いの言葉を一足早く、変わることのない想いとともに。名残惜しいけれども身体を離せば、ぽたりと雫がこぼれて、とけて。
ヴェールを持ち上げればぼやけた眸が、それでもまっすぐと私を見つめてきた。彼女を不安にさせないようにと言葉を紡いだ私自身が、泣き出す前のように顔をゆがめてしまっている様はなんとも情けないが、同様に私も不安だったのだから仕方がない。果たして彼女とともに歩んでいけるのか、時を過ごしていけるのか、守っていけるのか。
返事は。
震えてしまった声で促せば、眩いばかりの微笑みを浮かべた私の妻はもちろん、と。その表情に、言葉に、途端に安堵が広がっていく。
やはり私はもう、彼女なしでは生きていけないようだ。彼女がいてくれなければ、こんなにもしあわせに包まれることも喜びを噛み締めることもないのだから。
「わたしも、あなたじゃなきゃだめなんです」
答えをもたらしてくれたくちびるに誓いの口づけを。
(叶うならばどうか永遠に)
不安よりもなによりも、一緒になれるしあわせを噛みしめてほしい。
2015.8.22