For you.

 余裕がなかったのだと思う、お互いに。 「っ、は、ぁ」  洩れた音は彼女のものか、それとも己の口からこぼれたのか、それさえ判別できないほどに私たちの息は混ざり合っていて。  口づけを交わす。くちびるを触れさせるというよりも、もはや呼吸を奪い合う行為に近かった。もっと深くにと、舌で歯をこじ開ければ、待ってましたとばかりに彼女のそれが絡んでくる、意思でも持っているかのように。熱を孕んだ舌にさらわれ、引き込まれ、ちゅ、と。甲高い音で吸われる。  ついには呼吸が苦しくなってきたのは彼女も同じなのか、ようやく口が離れれば、飲み込むのも忘れた雫が彼女の口元を伝って落ちる、その直前に白い指が下から上へなぞり取り、濡れた指先を舐めた。  色に溺れた眸が私を捕らえる。抜け出すことは不可能であるし、そうしようとも思わなかった。ただもっと、溺れてしまえと。  手首を掴んでぐいと引き寄せる、その反動で更に奥へと進んだようで。きつく締め付けられる感覚にくちびるを噛んだ。終わりが近いのだ、きっと。思えば随分と長い時間、こうして彼女と繋がっている気がする。最初は傾いていたはずの月明かりも、いまは頂点にいるのか差してこない。  汗が滴り、彼女の目尻を濡らした、まるで涙のように。 「ね、アグナ、ル、」  言葉を覚えたての幼子のようにたどたどしくはき出された名前とは裏腹に、イデュナの表情は闇夜にだけ見せるそれだった。私のみに向けられる、女としての表情。変わらない事実に心が震える。彼女の誘いを、愛を受けるのは世界でただひとり私だけなのだと、そんな自惚れにも似た心地。  なんだいイデュナ、と。自然、やわらかな口調でこぼれた名前とともにまた、きゅ、と、身体が持っていかれそうになるのを、またたきでやり過ごす。これ以上は歯止めが効かなくなりそうな予感に身を引こうとするも、どこか焦点の合わない彼女が許してくれなかった。 「だめ」 「だがイデュナ、」 「ほしい、の」  背に両腕が回り、きつく抱き止められる。汗に濡れたなにも纏っていない肌が心地良い。思わずまぶたを閉じれば、彼女の呼吸が、吐息が、鼓動が。自身の身体に流れ込んでくるようだった。  少し早めの心臓に任せて息を整える。 「あなたのぜんぶ。ほしいの」  だめ、と。先ほどと同じ言葉に今度は語尾を上げて尋ねられる。水面を思わせるその眸がまたたきを一つ、生理的なものだろうか、本物の雫が伝っていった。  なんて、なんてずるい人なのだろうか、彼女は。断れるはずもないというのに。いつも、いつだって、彼女に触れていたいと思っているというのに。  答えの代わりに口づけを落とした、次はやさしく、とけ合うように。  あいしてるよ、  言葉はとけたのか、それはわからなくて。 (君がほしいんだよ、私も)
 たまには余裕のない夜も。  2015.10.20