叶うならば最期のその瞬間まであなたの隣で。

 夫を乗せた船が海に消えてから二か月を数えようとしていた。  最初に知らせを受けたその瞬間をよく覚えている。廊下を走ることのないゲルダが血相を変えて部屋に飛び込んできて─それでも子供たちを別室に移す配慮は忘れなかったけれど─そうして息も絶え絶えに告げられた言葉に、心臓が止まるかと思った。いいえ、あの日からずっと止まったままなのかもしれない。だってこうして窓の外を見つめているいまでも、生きた心地がしないのだから。  捜索活動は続いているものの、見つかるのは船の残骸ばかりで夫の、乗組員の身体でさえ浮かんでこない。どこかへ漂着しているのか、それとも、  浮かんできた最悪の考えを、またたき一つで逃がす。まだ、この目で見るまでは信じられない、信じたくもない。 「ねえ、パパいつ帰ってくるの?」 「のー?」  疑問符を乗せて尋ねてくるエルサと、そんな姉を無邪気に真似するアナの声に、質問されたゲルダは沈んだ表情をそのままに視線を向けてきた。まぶたを閉じて、頭を振って。誤魔化すのももう限界に近いけれど、それでも幼い娘たちに真実を話すにはあまりにも酷すぎた。伝えられる側も、伝える側も。  もうすぐ帰ってこられますよと、無理に作った笑顔を張り付けて、彼女が答える。途端、ぱあと顔を輝かせたエルサが、とてとてとこちらに走り寄り、太ももあたりに抱き付いてきた。 「おみやげあるかなあ」 「どうかしらね」 「でも、おみやげより、早くパパに会いたいの!」 「…わたしもよ、エルサ」  小さな頭を撫でる。わたしも会いたい、彼に、この子たちの父親に。いまこの瞬間にも何食わぬ様子で顔を覗かせて、随分と辛気臭い表情をしているな、だなんて。  今日こそ帰ってくるはずだと、こうして毎日港を見つめているというのに、そんな気配は一向になかった。絶望だけがひたりひたりと足音を近付かせて、わたしを染めようとする。どれだけ目を背けようと、傍らにはいつだって存在している。  屈みこんで、小さな娘を抱きしめる。くすぐったそうに頬をゆるめた少女に見せる雫はまだなくて。陽が落ちていく、わたしの心みたいに。 「王妃!」  壊れんばかりの音を立てて扉が開いた。一斉に音のした方へ顔を向ければ、肩を震わせた衛兵が敬礼もそこそこに口を開く。 「──国王が、」  敬称を聞くのが先か、娘から離れたのが先か。気付けば衛兵の傍を通り過ぎ廊下を駆けていた。いまばかりはゲルダの叱責の声も届かない、もし叫んでいたとしても耳に入るはずがない、ただただ、二つの想像が浮かんでは消えていくばかり。目指している先にあるのは一体どちらの結末なのか、そればかりが。  ようやく玄関ホールへと辿り付けば、果たして見慣れた姿がそこに立っていた。旅立った日よりも幾分簡素になった服をまとった彼は、涙を流すカイをなだめているようだった。  ふと、視線を移した彼の眸がわたしを見とめ、頬を崩す、嬉しそうに。 「随分と辛気臭い表情をしているな」  その声を、顔を、姿を、どれほど求めていたか。表すには言葉が足りなくて、伝えるには感情が追い付いてこなくて。  パパ、と。わたしの傍を駆け抜けていった娘たちが父親にしがみ付いていく。抱き止められたふたりは軽々と持ち上げられ、楽しそうに声を上げていた。 「おかえりなさい、パパ!」 「ぱぱー!」 「ただいま、エルサ、アナ」  それぞれの頬に口づけを落としていく。おひげくすぐったい、などと顔をしかめられるのもいつも通り、まるで予定通りの日程で帰ってきたその時みたいに。難破したなんて話はわたしだけに教えられた嘘かのように。  けれどなおも涙をこぼすカイと安堵しているゲルダを見るに、やっぱり現実のことであったのだと、そうして彼は無事帰ってきたのだと。実感すれば途端に肩の力が抜けた。  もうベッドに戻る時間ですよと、ゲルダが娘ふたりを促す。下ろされたエルサとアナは口々におやすみなさいと告げると彼女に続いて部屋に引き返していった。  姿が見えなくなったところで、カイに一部始終を話し始める、曰く、氷山に激突し沈没したものの、偶然近くを通りかかった船に救助してもらい、やっとのことで帰国できたのだと。乗組員も全員無事とのことで、その迎えにとカイが走り去っていった。  残されたのはわたしと彼のみ。  眉を下げた彼は、少し寂しそうに微笑んだ。 「もう少し、心配してくれてると思っていたのだが」 「─…したに、決まってるでしょ」  ようやく取り出したそれが震えていた、声が、のどが、うまく機能してくれなくて。  世界がかたちを歪めていく、この二か月間一度だって浮かべたことのない涙が次から次へと溢れては頬を濡らしていく。拭うことも忘れて飛び込んだ。抱きしめようとしてくる腕を払いのけてただ、胸を叩く、あまり力のこもらないそれで。 「ばか、です、あなたは…っ、ばか…っ」 「心配かけてすまなかった」 「こわかった、のに、あなたが、かえってこないかも、って…、」 「帰ってきたよ、ちゃんと。君のところへ」  無様に転がっていくばかりのわたしの言葉をすくい上げて、声をかけられる、大丈夫だと。君を残していなくなるわけがないじゃないかと。どれだけ慰められようと止まらない雫が服に染み込んでいく。  紡げなくなった言葉を捨てて、ただ嗚咽を洩らした、それだけがわたしの絶望をとかしてくれる唯一の手段だった。  頬を撫でて、ようやく思い切り抱きしめて。においが広がる、彼の、アグナルの香りが。わたしの一番大好きなそれが。 「もう離れないよ、約束する」  落とされたものに首を振って。離れたいと言ったって、わたしが離してあげるわけがないから。どんな時にだって彼とともにあると誓ったのだから。  伝えるべき言葉がやっと音を取り戻す。 「おかえり、なさい」 「ああ、──ただいま、イデュナ」 (終わるを迎えるのなら、あなたとがいいから)
 わたしはこんなにも臆病です、あなたが思っているほど強くあれないのです。  2015.10.23