くちびるの宛て先。
さらさらと流れていく筆の音が心地良い。
「誰宛てかな」
「先日お会いした公爵夫人。気さくなお方でね、とっても話が面白いのよ」
「なんだ、私への手紙ではないのか」
後ろから抱きしめた格好をそのままに、妻の肩に頭を乗せる。淑やかな香水のにおいが鼻を掠めていき、ふと、視界を閉ざす。
僅かに落ちる肩に、彼女の呆れを感じた。
「書くわけないでしょ、こんなに近くにいるのに」
「君からの恋文ならいつだって募集中なのだが」
「世間話しか書いてないわよ、これ」
ため息を一つ、止めていたペンを走らせ、再び手紙作成に没頭し始めてしまった。こうなると名前を呼んでも話しかけても終わるまでは反応してくれないのは、これまでの日々で十分学んでいる。だがしかし、こうしてただ待っているだけというのもつまらない。
まずは無防備に晒されたうなじにくちびるを落とす。結婚したばかりの頃こそ、びくりと身体を震わしたり頬をりんごもかくやというほど染め上げていた彼女だが、慣れたいまとなってはちらと視線をくれさえもしない。さてどこまでその姿勢を保っていられるやら。
今度は耳たぶに触れさせ、僅かに食む。わざと音を立てて離れて、次は頬。舌でやわな肌を押せば、身体が小さく揺れた。
「ちょっと、」
振り返ったくちびるに自身のそれを重ねる。
「集中できないわ」
「暇なんだ」
二度目は少し長く、くちびるの弾力を確かめて。
「お仕事は」
「放棄してきた」
「拾ってきてください」
餌をついばむ鳥のように、戯れな触れ合いをもう一つ。
「書くのをやめたら考えなくもない」
「やめたらもう戻らないでしょ、アグナル」
「ようやく振り返ってくれた君を置いていけるわけないだろう、イデュナ」
仕方のない人、その言葉は彼女の白旗の代わり。やけに大袈裟に息をついて、頬に手を伸ばしてくる、その手首を掴んで無理やりに振り向かせた。呆れた風を装いつつもわざわざ私の好きな香りをまとってくるのだから本当、彼女は意地が悪い。
見下ろした眸が私を映し込んだまま笑みのかたちにゆるむ、ほら、隠し通せていない。
「──なら、恋文を差し上げますわ」
そうして片手で襟を掴んだ彼女は勢いよく私を引き寄せ、くちびるを奪っていった。
(随分と情熱的な恋文だな)
結婚して何年か経てば気軽にキスくらいはできるようになると思うの。
2015.10.25