ただそれだけの言葉を、

 洩れた声は甘い響きとはほど遠いものだった。 「ひぁ、ぁ…っ」  眸は姿を隠し、眉がきつく寄せられる。抱え上げた足が強張り、それとともに締め付けがきつくなる。先端に緩く与えられた刺激に見えた先を、頭を振って追いやった。  動きを止めて頬にそ、と手を当てれば、まぶたを下ろしたまま顔をすり寄せてくる。眉間のしわが少し和らいだように見えたのはきっと、罪悪感から逃れたいがためなのかもしれない。  初めてというわけではなかった。一国の主となる者が恥をかくことがないようにと、営みについての手ほどきは受けている。しかし彼女はそうではない。清く正しく生きてきた彼女にとって、私は初めての男なのだ。そんな清廉潔白な彼女を暴いていく背徳感と、私だけが彼女のすべてを知り得るという優越感と。いまは後者の方が大きい、などと打ち明けたら彼女は怒るだろうか。  シーツをきつく握りしめている左手をなぞる。薬指に光るそれが、崩れかけていた私の理性を呼び起こした。 「もう、やめようか」  問い掛けに断言を混ぜても、彼女は首を横に振るばかり。水の張った眸を現して、それでも雫をこぼしてしまわないよう強い光を灯して。  けれど私は、イデュナを傷付けたくはないのだ。いまでなくとも、夜は何度でもやって来るのだから。そう伝えても、頑固な彼女は譲ろうとしない。いいの、わたしは大丈夫だからと。震える声でそればかり。重ねた手はこんなにおびえているというのに、いまにも泣き出しそうな表情をしているというのに、一体なにが大丈夫だというのか。弱さを決して明るみにしない彼女はいつだって、大丈夫と、懸命に笑いかけてくるのだ。  優しさに一瞬ぐらりと揺れそうになった心を必死に奮い立たせ、身を引いた。これ以上は彼女の身体に障ってしまうだろう。そうまでして私は、自分の望みを叶えたいわけではない。  けれどそれを、イデュナは許してくれなかった。  ふいに両肩を強く押され、身体が傾く。背中に当たったシーツの感触に目を開けば、頬を赤く染めたイデュナが馬乗りになっていた。次にくるであろう彼女の行動に青ざめる。 「イデュナ、やめ、」  静止の声も聞かず、彼女は一気に腰を落とした。強い痺れが背中を伝い、めまいが起こる。白く染まっていこうとする視界を振り払うべくまたたきを一つ、 「く、んん…っ」  こぼれた声に我に返れば、かたく眸を閉ざした彼女がくちびるを噛みしめていた。密着した太ももから、目に鮮やかな紅が伝い落ちている。私の腹に添えられた両手がふるふると力無く上体を支えていたものの、すぐに尽きて身体を倒してきた。  彼女の亜麻色の髪から伝う汗が頬に落ちていく。  イデュナ、と。名前をこぼせばまつげが震え、色素の薄い眸がわずかに覗いた。 「…わたし、ね、」  浮かされたような言葉がたどたどしくはき出される。しなやかな指が確かめるように私の頬を、耳を、辿っていって。 「あなたを、感じていたいの。もっと近くに」  ゆるり、微笑みを作って。  壊れてしまいそうなそれが狂おしくて、いとおしくて、気付けば桜色のくちびるを奪っていた。口の端からこぼれていこうとする息さえ呑み込んで、まるで私たちはとけて一つになっているのではないかと、そんな錯覚さえ起こしてしまいそうなほどに。  あなたは、と。くちびるを一時解放した隙に洩らした不安そうな彼女の声に見せた笑みはきっと、余裕のないものになっているだろう。 「─…私も、君をもっと感じていたい」  再び形作られた笑みを視界に収め、彼女ごと上体を起こした。つ、と。眉をひそめた気がしたが、もう止まれるはずもない。  謝罪をこめて頬に口づけ、イデュナを足の上に乗せたまま、思いきり自身を埋め込んだ。  揺り動かすたび、目の前で白い喉が反り、形にならない音を上げる。どうかその欠片たちに少しでも色が付いてくれたらとかすかな願いをこめて、熱を持った身体をかき抱いた。 「ふ、…あぐな、る。アグナル…っ」  求めるように、すがるように。落とされた名前に応えるべくくちびるを触れさせて。音にならなかった五文字をけれどたしかに受け取れば、じんわりと胸にあたたかさが降り積もっていく。  どうしてこんなにも彼女がいとおしいのか。どうしてこんなにも、彼女を愛してしまったのか。考えるほどの余裕はもはや残っていない。  ただただいとおしい我が妻を抱きしめ、耳元にくちびるを寄せて。 「私も、─────」  彼女と同じ言葉を、それ以上の想いをこめて返し。  もたらされた真っ白な終わりに身を任せた。 (あいしてる)
 はじめての夜。  2014.6.28