どうか君はその幸せだけを感じていて。
「木登りがしたかったわ、一緒に」
鳥のさえずりも届かない、静かな夜だった。
姉よりも夜泣きの多いアナがすやすやと、珍しく手もかからずに眠っていた。揺り籠をゆるやかに振る妻の表情はまるで、大きくなったお腹をやさしく撫でる時のそれのようで。
ベッドサイドに腰かけ、私たちの毛布に包まりこれまた妹に似通った寝顔を浮かべているエルサの頭に触れる。二人揃って留守にする時、エルサはまだ言葉も話すことの出来ない妹に付き添っていてくれるのだ。もうわたしおねえちゃんだもの、とは娘の言い分。こうして私たちが部屋に帰ってくるまでに眠ってしまうことはよくあるが。
いつの間にか成長してしまっていた長女から、よく似たその母親へと視線を戻す。話の先を促すにはこれで十分だった。
「乗馬もいいかもしれないわね。カイの目を盗んで遠くへ駆けていくの」
「女の子にだって出来るさ。君も乗りこなせているんだから」
「そうね。…そうなんだけれど」
続くことはなかったが、続くものはとうに分かっていた。
男の子を産めなくてごめんなさいと、彼女は暗に謝罪しているのだ。立派な世継ぎを産めなくてごめんなさい、期待に応えられなくてごめんなさい、と。大方今日の晩餐会で嫌味でも向けられてしまったのだろう。傍にいれば庇えたものを、気にするなとすぐ声をかけられたものを、どうして片時も離れずにいることが出来なかったのか、今更後悔しても仕方がない。
一人目の子供が─それが私たちにはない力を持っていたせいか定かではないが─母胎に大分影響を与えていたようで、医者にも、次に子供を宿せば命の危険さえ伴うだろうと告げられていた。それでも私たちはアナを授かった。エルサがこの広い城でひとりきりにならずに済んだのは紛れもなく、イデュナのお陰だった。それでどうして男児でないからと責めることが出来ようか、そんな気持ちは端から無いというのに。
伸ばそうとしたその指が妙に重たくて視線を下げれば、寝惚けているのか、エルサが人差し指を大切そうに抱えていた。自然、頬がゆるんでいく。
「私はね、イデュナ」
揺り籠が動きを止める。突然口にした名前になあにとでも返すように首を傾げた彼女に、微笑みをそのまま向けた。
「いま、とても幸せなんだ。それじゃあ駄目だろうか」
エルサのぬくもりを感じ、アナの健やかな寝息を聞き、そしてイデュナの眸に映っている。これほどの幸せが一体他のどこにあるというのだろうか。
またたきを一つ、ようやくいつもの微笑みが戻ってきていた。少し飲み過ぎちゃったかしら、なんて。
「エルサに馬の走らせ方を教えて、アナには木登りを教えるわ」
「もう少しお淑やかな方向へ育ててくれてもいいのだが」
「わたしが大人しい子にさせると思います?」
悪戯に笑んだ彼女は昔出逢った少女の面影をそのまま残しているのだ、敵うはずもない。空いた片手を上げて降参のポーズ、きっと娘たちはお転婆に成長することだろう。追いかける相手が二人も増えることにため息でもつきたいが、それよりも未来に心が躍るばかりだった。
アナの額に、エルサの頬にそれぞれおやすみなさいの口づけを落としたイデュナはそうして私の隣に腰を下ろしてくちびるを近付けてくる。
「言い忘れていたけれど、」
ぴたりと停止して。寸止めとは卑怯な、と思う間もなく、ゼロ距離にある眸がゆるんだ、泣き出しそうに。
「わたしもね、しあわせなの、すごく」
「─…知ってるよ」
雫の意味を問う代わりに口づけを。
(幸せだけを与えられたらと願うのに、)
アナちゃんが生まれてすぐ。
2015.11.7