masquerade -first night-
「あなたにお話があります」
わたしは、罪を告白しなければならない。
「──わたしはあなたを裏切ってしまいました」
***
夜が深さを増して随分経つというのに、狭い視界にどうにも慣れそうになかった。ため息を一つ、下ろしたままの髪が夜風にさらわれていく。外出しているというのに結い上げていないという心許なさもまた、落ち着きを取り戻せない原因かもしれない。
そもそもなぜこうして名も知らぬ国のバルコニーに佇んでいるのかといえば、仲の良い大公夫人の一言がきっかけだった。
気晴らしに出掛けてみましょうよ、と。ゲルダの淹れてくれた紅茶に一息ついたタイミングで、とっておきの内緒話を打ち明けるみたいに彼女が口にした言葉がそれだった。
なんでもとある公国で開催されるマスカレードに招待されたのだけれど、ひとりで向かう理由が思いつかないから一緒に来てくれないかと、要約すればそんなところ。マスカレードと言えば、各々の仮面で顔も身分も隠し、無礼講の逢瀬を楽しむそれだと聞いたことがある。ダンスの場は得意ではないし、第一愛を誓った相手がいる身にとっては裏切りにも等しいその行事に参加できるはずもない。けれど断っても何度も誘いを入れる彼女はきっと忘れたいのだ、自分の立場を、生活を。夫であるはずの大公が女性を囲っているという噂はなにも昨日今日耳にしたわけではない。与えられなくなった愛をほんの一時でも求めているのだろう、彼女は。
半ば懇願するように口にされた四度目のそれに、首を縦に振ってしまっていた、その気持ちがいまは痛いほどよくわかったから。
外出許可を取る必要はなかった。断りを入れるべき夫は現在、外交に向かっていた。早く帰ってくると言い残してもう季節が二回も移り変わっている、寂しさを感じていないと言えば嘘になるだろう。もしかすると外交なんていうのは名目で本当は他国に懇意にしている女性でもいるのではないかと。疑いたくはないけれど、不安は拭えなかった。
ため息をもう一つ。その大公夫人は今頃、大広間でダンスを楽しんでいるのだろうけれど。せっかく仮面を身に付けているのだからすべてを忘れて興じられたらよかったのに、それでも罪悪感が剥き出しの背中を刺してくる。夫に秘密でここを訪れてしまったからか、変わらず向けられているはずの想いを疑ってしまったことか。いまはまだ、考えたくなかった。
晒されたままの肩を抱きしめる。この国はアレンデールよりもあたたかいはずなのに。
「──今夜は冷えますよ、お嬢さん」
ふわり、ぬくもりが触れた。かけられた上着に振り返るよりも早く、その人が隣に移動して同じように手すりにもたれかかった。
恰幅の良い参加者が多い中ではきっと目立つだろうすらりとした背格好の男性だった。視線に気付いたのかふと、重なった眸が大広間の明かりに照らされる。似ていると思った、色が、どこかで見た色に。それが一体どこであったかを思い出すよりも先に色が細められる。
「失礼、ご婦人と呼ぶべきでしたか」
「…いいえ。ありがとうございます、上着」
嫌な気はしなかった。さっきフロアで声をかけてきた、下心の透けて見える人たちよりはよほど爽やかで親しみやすい。
人様の物だというのに上着を引き寄せれば、香ったにおいがそれまでの後ろめたさを覆っていくようだった。いま浮かべている表情はまさにそれに責められるべきものだというのに。
「こういう場は苦手なんですか」
「ええ…ダンスが、あまり得意ではなくて。あなたは」
「付き合いで参加してはみたのですが、においが強いものは苦手なもので」
言われてみれば大広間には、お酒と煙草と香水のにおいが充満していた気がする。ここへやって来た理由の一つに、鼻につくそれらから逃れたいというのもあった。
もしやわたしも含まれているのではなんて心配は勘付かれたみたいで、大丈夫とでも言うように口角がやんわりゆるめられた。つられて微笑みを返す、顔に上ったのは夜になって初めてのこと。
そ、と。手すりから離れた手が甲に触れてくる。突然のことにびくりと震えたからか一度距離を取って、けれど窺ってきた眸にまたたきを送れば、ゆるり、指が包み込まれた。腰に回った手にぐいと引き寄せられ、間が縮められていく。上着が肩から滑り落ちてしまったというのに、手を握られていては拾うことさえ叶わない。
夫以外の男性とここまで距離を詰めたのは初めてのことだった。鼓動が急くのは緊張からか、それともそれ以外の感情からか、判別する前に足が踏み出されたので慌ててステップを刻んだ。窓から洩れ聞こえてくる音楽に合わせてターン、髪が舞う。足を蹴ってしまう気配がないのは恐らく、彼が動きをフォローしてくれているから。
僅かな明かりだけが差すこの場所は、喧騒にあふれた大広間とは世界が違うみたいだった。わたしと彼の、ふたりだけの空間。素性もなにもかも知らないはずなのになぜかこの人だけは、安心を与えてくれていた。罪悪を、背徳を、そして寂しさを打ち消してしまうような、そんな安らぎを。
「ねえ、あなたは明日も参加されるのかしら」
「辞退させていただこうかとも考えていましたが、あなたがいるのなら」
腕を辿られ、身体が近付いて。ごめんなさいと、謝罪を送る相手はもちろん姿の見えないその人へ。わたしはもう、ひとりでは生きていけなくなってしまっていたから。一時の儚いものでいい、誰からでもいい、目に見える愛をもらわなければ立ってさえいられなくなってしまったから。
腰に置いていた手を背中に回して、おずおずと身体をたぐり寄せれば、心にやさしいそのにおいが広がっていく。
「おりますわ、─…あなたが、いるのなら」
(これがわたしの、罪のはじまり)
第一夜。
2016.1.3