masquerade -second night-
今夜も少し肌寒い風が吹いていた。
「風邪を引いても知りませんよ、お嬢さん」
「引きませんわ、あなたが来てくれたから」
約束していたわけでもないけれど、昨日の言葉通り彼がバルコニーへと足を運んできてくれた。昨夜と同じ深い緑の仮面を身に付け手すりにもたれた彼が視界に入った途端、ゆるんでいく頬を止められない。最初こそ一緒だった大公夫人は誰かの手を取り連れ立ってしまい、ひとり大広間に残された時の不安がようやく拭われたようだった。いくつもの誘いを受け流し向かう先に果たして求めた男性がいてくれるのか、そんな心配をする必要もなかったみたいだ。
さりげなく上着をかけられる、これを期待して薄着で来たなんて言えないけれど。身体にまとわりついていた眉をひそめるほどの臭いもすべて、香りに包まれていくような、そんな錯覚。
肩が触れるか触れないかの距離で手すりに両腕を置いた彼は、月の見えない空を仰いだ。さっきまで辺りを明るく照らしていたそれはけれど、雲に姿を隠されていた。フロアの拙い明かりでは、彼の眸の色さえ窺うことができない。
「…今夜は暗いですね」
「ああ、君の顔が見えなくて困るよ」
片手で顔を支えてこちらに視線を向けてくる。笑みを湛えたそれに同じ表情を持って応えた、自然と浮かんだそれで。
「仮面で見えないくせに」
実際顔の半分を覆っているそれは、たとえ知り合いでも判別するには時間がかかるであろうものだった。もし知人に会ったとしてもわたしであると明らかにならないようにと、それはやはり夫への罪悪からか。
風が髪を流していく。彼こそ風邪を引いてしまわないだろうかと上着を返そうとするものの、その手を押し留められた。昨夜以来の熱がまた、触れて。
「─…君は何故、ここへ」
離れて。再び彼方を見つめ始めた彼は問うた、なぜ、と。誰の手を取るでもなく、誰と酒を交わすでもなく、それでもこのマスカレードに参加したのかと。
「…思い出したかったの、愛を」
「…愛、」
「忘れてしまいそうだったから」
疑ってしまうのがいやだった、忘れてしまうのがいやだった、愛を、遠くない過去にたしかに与えられていたはずの愛を、求めなくたっていつも手の届く位置にあったそれがなくなってしまったのではないかと。命尽きるまで傍にと誓った男性はけれど戴冠後には離れている時間が増え、国の安泰のためとひと月、ふた月。伸びていく日数を数えつつ広いベッドで眠れない夜を過ごしたのは何度か、もう思い出したくもない。ひとりぼっちのベッドがこんなにも大きいだなんて知らなかった、一人寝の夜がこんなにも寒いだなんて知りたくもなかったのに。どうして、どうしてと、悪くもない彼を責めるのはもう疲れてしまった。
だというのに逃げ場にしたここには色を塗りたくられた飾りばかりがあふれていて。わかっていたことなのに余計、虚しさが募っていくばかり。様々な愛があるはずのこの場所でさえわたしの心を満たしてはくれないのだと、認めたくない事実ばかりを突きつけられる。
それまで静かに話を聞いてくれていた仮面のその人はけれどふと、息を整えたところで眸にわたしを映し込む。
「──君は、もしかして、」
「名前なんてないわ、そうでしょう?」
疑問符で続く言葉を封じ込める。彼も暗黙のルールを思い出したようで、しばらくはなにか思案するように口ひげを撫でていたもののやがてまたたきを一つ、視線を逸らしてしまった。
「…私にも、永遠を誓った相手がいるんだ」
「そうでしょうね、…あなたほど素敵な人にならきっと、素晴らしい女性が」
「ええとても。とても美しい女性だ、私にはもったいないくらい」
どこか遠くでも見透かしているようなその眸はきっと、母国に残してきたのであろうその女性を思い浮かべているのかもしれない。どこかで、彼が独り身ならと儚い願いに縋っていた自分に吐き気がしそうだった。そうであったならわたしはどうするというのか、なにをしようとしていたのか。
やさしいその眼差しがふいに細められる、ともすれば泣き出すみたいに。本当に水が張られているのか確認するにはここは暗すぎた。
「そんな女性をきっと、寂しさで殺そうとしているのだろうな、私は」
ふ、と。深緑の仮面に射抜かれる、その表情を読めるはずもなかった。彼の浮かべている表情が一体なんの感情を示しているのか、それさえも。
そうして彼が語り出したのは、想い人に対する余りあるほどの愛だった。いつまでも隣にと約束を交わした女性をひとりにさせてしまっているのだと。仕事に愛にと両方に全力を捧ぐに足りない不甲斐ない自分から目を逸らしたくて仕事に没入しすぎて、妻との時間を過ごせていないのだと。
「むしろ見捨てられて当然だ、こんな男」
「…難しく考えすぎなんですよ、あなたは」
わたしにもわからないけれど、でもきっと、正直に伝えればいいのだろう。まっすぐな気持ちがあるのなら嘘偽りなくそれをそのまま、想いを向けたその人へと。わたしにその機会はしばらく訪れないのだろうけれど、彼になら恐らく。言葉に乗せずともわかり合えると、行動に移さずとも伝わるのだと過信していたからすれ違ってしまったのだ、彼も、わたしも。
まっすぐ色を交わらせる、どこかで見た眸と同じそれと。けれどやはり思い出せなくて、代わりに熱がまた、今度は頬に重ねられた。
「…明日は雨になりそうだ」
「…また、冷えますわね」
上着を抱き寄せるその手を絡められ、気付けば胸の内へと誘われていた。ぱさりと音を立てて落ちたそれを気に留める余裕などもう残っていなくてただ、眸を閉ざし香りを追う。それだけで、急いた鼓動が元の早さを取り戻していくようだった。
もし彼の予報通りなのだとしたら、こうしてバルコニーで会うこともできなくなってしまう。この狂祭もあと一夜、それを過ぎればもう、名前も知らないこの人と会うこともないだろうし、たとえ顔を合わせたとしてもお互いを認知することはできないだろう。わたしはまた、からっぽになってしまう。愛を忘れたただの娘に成り果ててしまう。
雨のにおいを孕んだ風に身体を震わせる。今夜はどうにも冷え込んでいた。
「─…あたためましょうか、私で、よければ」
言葉が身体を伝い落ちてくる。からっぽのわたしを満たすように、心を埋めるみたいに。きっと同情でしかないことはわかりきっている、けれどそのやさしさに甘えるしか。いまのわたしはそれしか知らなかったから。
首に両腕を回して背をわずかに持ち上げる。
「──あたためて、…お願い」
なにもかもを忘れて縋り付くしか、わたしを保てる方法はなかった。
***
「そうしてわたしは、…わたしは、」
「もういい」
遮られた言葉に下げていた視線を上げる。突き放すようなそれにともすれば視界が歪んでしまいそうになったけれど、わたしに涙を流す資格などなかった。
恐る恐る映した表情は、言葉とは裏腹にわたしと同じものを浮かべているように見えた。
「もういいんだ、イデュナ。そこから先は──私が、話すから」
(保つべきわたしさえももう、見失ってしまっていたけれど)
第二夜。
2016.1.4