masquerade -last night-
雨音のうるさい夜だった。一度形ばかりに大広間に顔を出してすぐ、宴に興じるフロアを後にして薄暗い廊下を歩く。突き当たりの右手に見える部屋の扉を三回ノック、それが私であるという合図。どうぞと、ほどなく聞こえたくぐもった声にノブを回した。
雨に支配された室内にはもちろん月明かりなど差しておらず、蝋燭の光だけが頼みだった。ベッドの手前に佇んでいた女性は間違いなく昨日一昨日と言葉を交わしたその人。迎えの挨拶はなく、ただ背を向けて立ち尽くしている。
扉を閉めて一歩、近付けば彼女はおもむろに、首の後ろで結ばれていたリボンを解いた。支えを失ったネグリジェが身体を滑り落ちていく、音は雨に打ち消された。揺らめく光に照らされた剥き出しの背中が艶めかしく映り込んでくる。自身を抱きしめるように腕を組んだ彼女の肩越しから、視線を送られた、氷色の仮面の奥に潜んだその色を。
「明かり。…消してくださるかしら」
悲しみしか含んでいないそれを見ていられなくて、言われるままに蝋燭に蓋をする。途端、暗闇がその全容を現すように、室内に闇が広がっていった。意識を澄まして辿らなければならないほど、彼女は気配を殺しているようで、ようやく見つけたその背を思いきりかき抱く。体温のないその身体は僅かならず震えていた。
いまならまだ引き返せると、そう諭すのが一番正しいのかもしれない、紳士として、男として。罪悪を抱えたまま身を委ねるよりも拒絶した方が君のためなのだと。分かっていながら言葉にできないのは、彼女の決意が揺らぐことはないとどこかで感じていたから。愛を欲する心がほんの一時でも満たされることを知っていたからだ。そうして彼女のためなどと並べ立てている私もまた、求めてやまなかった、仮面の内に隠れた少女自身を。
そのままの体勢で雪崩れ込むようにベッドに身を倒していく。二人分の体重を受け止めたシーツが少しばかりの呻き声を上げた。
指の間をすり抜けていく髪の合間からうなじにくちびるを落として。ふるり、震えた身体は見ないふりをした。次は右肩、肩甲骨、腰へと口づけを降らせる。きつく長く、触れさせていながらも痕を残すなんて真似はしない、彼女を追い込みたくはなかったから。それとは真逆の行動を取っていながら、なんて身勝手な想い。この夜のことをどうか一夜の迷い事として忘却の彼方へ捨て去られないようにと。
持ち上げた腕を舌で辿りながら、自身のシャツを乱暴に剥いでいく。手の甲にくちびるの音を残して、指の間をきつく吸えば雨音に紛れて小さく声が洩れた。のどを痛いくらいに反らし、もう声を洩らすまいともう片方の指を噛みしめてしまっている。
背中の窪みに沿って空いた指を下へ下へと撫でていけば、肉付きの薄い尻が猫のようにふるふると持ち上げられていく、まだ形にならない快楽を追いかけるみたいに。そうして足の間に身体を忍ばせて開くよう促せば、おずおずと膝をずらしていった。
奥まりにゆるり、指を宛がえば、ひ、と。僅かな悲鳴とともに背中が波打つ。まだ潤いが十分ではないそこは人差し指を受け入れるだけで精一杯のように思えた。まずは浅い部分をやさしく擦る、ぬくもりに包まれれば緊張でもするみたいに身体に力が込められ、外気にさらせば求めるように切なく声が落ちた。
そうして何度か繰り返してみれば、ようやくするりと中指が入り込んでいった。少し奥の壁を掠めれば、快楽を逃すようにシーツをきつく握りしめる。もはや皺だらけになったそれから目を離し、もう一本、今度は薬指を。予告もなしに深く差し込めば、下半身が余計高く上がっていった。奥がいいのだと。圧迫感に苦しむことはないのかと尋ねた私に彼女は、頬を染め顔を背けながらもそう答えたことがある。あなたを一番感じることができるから、と。
かき回すように指を動かすたび、雨の打ち付ける音しかしないはずの室内にぴちゃぴちゃと濡れそぼった音が紛れ込む、その水音が響くたび指を締め落とさんとばかりきつくなるものだから、限界が近いのだと勘付くには十分だった。
名残惜しいが指を引き抜き、待ちきれずにいた自身をズボンから取り出した。私ももう、堪えられそうになかったから。ひたり、押し付ければ、怯えるように腰を引かれる。たとえ彼女が後悔していたとしても、今更後戻りすることなど不可能だった。
押し拡げるように、ともすれば蹂躙にも似た動きで腰を進めていけば、口元に宛がっていた指が離れて、
「っ、あ、やぁ、」
ぽろぽろ、こぼれていく、声が。突き上げに合わせて絶え絶えに、息を吸うことも忘れただ音と一緒に吐き出してしまっていた。暴走しそうになる自分を抑え一旦動きを留め、背に張り付いた髪を横に流してやる。荒い呼吸とともに小刻みに震えている身体はなにも快楽の余韻のせいばかりではない気がしていた。そうではあるがしかし確認するにはここは暗すぎた。
またたきを一つ、身につけたままだった仮面を床に投げ捨てる。乾いた音に反応してびくり、跳ねた身体を気にせず自身を引き抜き、彼女を上向かせた。突然のことに抵抗もできなかったのか、案外簡単に仰向けになった彼女と視線が合うことはなかった、眸を閉ざしてしまっていたから。外すことのなかった仮面を取り去っても、手で顔を覆うばかりで水面色の眸を覗かせてくれることはない。あるいは私を映したくはないのだろう、見も知らぬ男をその眸にとかし込まず、ただまぶたの裏にひとりだけを浮かべて。
初めてこの女性を目にした時からなんとなく察してはいた、どこかで出逢ったことのある少女だと。確信したのは二日目の夜、寂しいのだと洩らした心の内は、揺れていた水面色は確かに、忘れたことなど片時もない我が妻のものだった。
「…お願い、」
ひとりきりは辛いのだと、ひとりではもう生きていけないのだと。私には、自身の夫には一度だってこぼしたことのない弱音を吐いて、頼りなくも眸を揺らして。いつも送り出してくれる彼女は一度だって、寂しいなどと口にしたことはないのに。
「──めちゃくちゃにして」
嗚咽交じりに向けられた声よりも先に、思いきり埋め込んでいた。片足を肩に担ぎ上げ先ほどよりも奥へ、深くへと。まるで食いちぎろうとでもするみたいに締め付けてくる快感を、頭を振ることでやり過ごし、声を上げる間もないほど擦り上げても、彼女の音はやまない。私の、夫の前では恥ずかしいからとただひたすらに押し殺すそれを淫らに放って。
「あ、あぐな、ん、あぐ、なる…、あぐな、る…っ」
恐らく無意識なのだろう、こぼす名前はまぶたの裏のその人ばかり。ここに存在してはいけない夫を呼んで、目の前の男に被せようとでもしているのだろうか。顔から離した片手をこちらに伸ばしてくる、縋る場所を求めるように。手首を掴みぐいと乱暴に引いて、無理やりに首に腕を回させた。目を覆ったままの手も引き剥がし指を絡め取った、握ればあるいは体温が伝わるのではないかと、私自身を感じてもらえるのではないかと、淡い期待を夢見て。
片手で腰を捉えて打ち付ける、それでも見えない眸に湧いた寂しさを乗せてくちびるを近付けたものの、気配を察したのか顔を逸らされてしまった。
「くちびる、は、…んぁ、だめ、っなのぉ…」
彼女が一体どこを見ているのか、誰を見つめているのかもう、分からなかった。素性も知らぬ男に成り済ますには分からないふりをするしかなかった。それだけしか、自分を傷付けない術を知らなかったから。手を出したのは私の方だというのに、優しさで偽った仮面を被ったのは誰であろう私自身だというのに。
動きに耐えかねたのか、首筋に鋭い痛みが走る、眉をひそめている余裕はなかった。
「やだぁ…っ、あぐなる、や、ぁあ、」
「…っ、もう、」
深奥を穿てば、彼女の背中が大きく反るのと同時、引き込まれてしまいそうな錯覚に目の前がちかちかとまたたいた。それでもなんとか散り散りになった理性を掻き集め腰を引き抜き、快楽に任せてすべてを吐き出す。
「────、」
断末魔のように落とされた音もやはり、変わりはなくて。
***
「─…あなたが、仮面の、人…?」
「…すまない、あの時の私にはどうしても、明かせなかった」
目の前の水面色が揺らめく。わななくくちびるは確かに、あの日男を受け入れなかったそれと同じものだった。
しばらく震えるだけで言葉を紡ぐことのなかったくちびるが引き結ばれ、そうしてまた開く。
「…ごめん、なさい」
「いいや、謝るべきは私の方だ」
すべては私の不甲斐なさが原因だった。彼女をひとりきりにさせてしまったがために、彼女の寂しさを募らせてしまったがために、今回のような行動を起こさせてしまった。そうして彼女の心に付け込んで、自らの願いを果たそうとしてしまった。責めるべきは彼女ではなく紛れもなく、私の方でしかない。どうして放っておいたのか、どうして直接愛を伝えてくれなかったのか。どんな言葉でも、浴びせられる準備はできていた。
それだというのに誰よりも優しい妻は、雫をその眸からこぼしながらも強い光を持って私を見つめてきていた。ばかですか、と。震える語尾はけれど荒く。
「そうやってひとりで抱えて、ひとりで解決しようとして。…わたしにすべてを見せてくれてもいいのに」
胸を叩かれた、一度、二度、痛い、とても、心が、愛がとても、痛かった。
「─…ひとりぼっちに、しないでよ…っ」
遂には拳を落とし泣き出してしまった彼女をただ抱きしめた、あの夜とは違う、今度こそ彼女の夫として、アグナルとして。
初めから伝えておけばよかったのだ、彼女への気持ちを。言葉なんて探さなくてもいい、ただ心のままに、愛しているのだと。
身体を離し額を合わせればようやく、水面色が私をとかし込む。息を一つ、そ、と。くちびるを重ねたのは随分と久しぶりな気がした。そうして距離を置き一番に紡ぐべき言葉はもう分かっていた、あの夜口にできなかったそれを、今夜は眸に映して。
「──あいしているよ、イデュナ。あいしてるんだ」
「…わたしも、あいしてるわ、アグナル」
ただ、それだけでよかった。
(そうして仮面を脱ぎ捨てた私たちは今宵も、夜に沈む)
第三夜。
2016.1.5