沈むなら、君に。

 習慣とは恐ろしいものである。 「─…まだ、朝か…」  珍しく片付けるべき仕事を陽が沈むまでに終わらせさて明日は昼まで惰眠を貪るかと意気揚々と眠りに就いたというのに、鳥の声に誘われて視界を開いてみればいつもとなんら変わりない陽気が窓から差し込んでいた。眸を閉ざしたって夢の世界に戻れないことは、経験から知っている、残念なことに。  ため息を一つ、せめて横になっているだけでも疲れは取れるだろう。年齢を重ねてからというもの、やけに身体の節々が痛む気がしてならない。二児の父であるとはいえ、まだまだ現役であるはずなのに。  ちらと左隣を窺って。ただそれだけで、疲労感もなにもかも吹き飛んでいくようだった。次いでゆるんでいく頬を見咎められようものならだらしない表情ですねなどと苦く笑われるだろうが、そんな彼女は私の腕を枕に夢の中、水面色の眸を塞いでいる。いまならどれだけ妻を刻み付けようと文句を言われることはなかった。  起こしてしまわないよう寝返りを打つ。僅かに身じろいだものの覚醒する気配を見せないのをいいことに、まずは顔に落ちた髪を一房、すくい取って口づける。花を思わせる香りに包み込まれ、頬はますます締まりがなくなっていくばかり。  そうして一房ずつ後ろへ流していき、姿を現したうなじにもう一つ。いっそきつく吸ってしまおうかとも考えたが、ここに痕を残せばいたく怒られるので止めておこう。一日は短いのだ、そんな中で彼女に拗ねてもらうのは得策ではない。ふくれた顔でさえかわいらしさを感じずにはいられないことも事実ではあるのだが。  のどを辿って、頬にくちびるを落とし、最後にまぶたへ。ふるり、長いまつげを震わせてかすかに持ち上がった。見えているのかいないのか、水面色を頑なに閉じ込めたまま小さな欠伸が一つこぼれていく。 「うう、ん…、もう、あさ…?」 「そうだね、まだ朝だ」 「…おはよう…?」 「おはよう、イデュナ」 「…おやす、」  別れの挨拶を紡ぐよりも先に沈み込んでしまったみたいで、尻切れになった語尾を残してまた眠りに誘われていってしまった。小さな子供よろしくねむっている彼女もなんとも愛らしい、愛らしいのだがしかし、きっちり目が覚めてしまった状態で一人取り残されてしまうのも面白くない。  両手で頬を包み込めば、見る見るうちに眉が寄っていく、それはもう不機嫌を露わにして。 「むぁ…つめたい」 「すまないが目覚めてくれないだろうか」 「やだ、ねむたい…」  やわらかな頬をくにくにと触っていれば、そのうち手が重ねられ無理やりに引き剥がされた。ようやく眸が覗いたものの、その色は睡魔と小さな怒りに彩られている。じとりと見据えられ、ため息を一つこぼされた。こうなってしまえばもう彼女も眠ることができないだろう。道連れにしてしまったことは大変申し訳ないがこればかりはどうしようもない、なにせ一日は短いのだから。  体勢を入れ替え覆い被さる恰好になれば、ますます頬はふくらんでいくばかり。 「まだ朝ですよ」 「もう朝なんだよ、イデュナ」 「不健全」 「ただの運動だ、とても健康的だよ」  それでも尖らせるそのくちびるをついばめばようやく、頬がとけて笑みが広がっていく、仕方ないですね、なんて。人一倍私に甘い彼女が許してくれないはずはないのだから。  手を伸ばした彼女が腰の位置まで下がっていた毛布を引っ張り上げる、それを合図に、くちびるを落とした。  一日はまだ、始まったばかり。 (君に触れられるのなら身体の痛みくらい耐えられるさ)
 たまの休みにもゆっくり眠ったりしない夫妻いてもいいと思う。  2016.1.9