はじめての、
空は快晴、絶好のおつかい日和。
「アーナ」
「んん?」
「て!」
「ん!」
姉の明るい声に呼応して、まだ足を自由に使えるようになったばかりの妹が手を伸ばす。小さな手と手がはっしと繋ぎ合い、精一杯の力をこめて握りしめているようだ。パパの言い付けをきちんと守っているようだな、よしよし。
そうして廊下を進み始めた二人には、とてとてという擬音がついて回る。姉のエルサだってまだしっかり歩けるわけではない、けれど自分が妹を引っ張っていかなければと、幼い彼女の脳内はきっとそればかり。いつになくきりりと引き締まった表情からもそれは窺えた。
おつかい、と言っても、なにも城下に降るわけではない。厨房から、姉妹の大好物であるチョコレートを貰って両親の待つ部屋まで帰るという、ただそれだけのことなのだが、二人にとってはミッションにも等しい。いや、アナの方がそれを認識しているかどうか定かではないが。
「─…ねえ、さっきからなに一人でナレーションしてるんですか、アグナル」
妻の鋭い指摘が割って入るが特に気にしないものとする。呆れ返った彼女もまた、私の後ろから娘たちを盗み見ているのだから。揃いも揃って心配性なのだ、私たちは。
さてその心配の種たちと言えば、窓や廊下の清掃にあたっている侍女たちに明るく挨拶を送っている。手を止めた侍女たちの誰も彼もは幼い王女たちにつられ微笑みを浮かべていた。さすが私の娘たちだ、誰に対しても笑顔と幸せを運んでいる。
「わたしの、娘です」
背中を強く押されるがいまは置いておこう。
さて、二人は曲がり角に差し掛かった。ここが最大の関門だった。なにせ城内は広い。大人であるイデュナでさえ、この城に足を踏み入れた最初の三ヶ月ほどは右も左もわからず迷子になったくらいなのだから。
「二ヶ月です」
私が邪魔だと言わんばかりに頭を抑えられたが、致し方ない。
手を繋いだまま、エルサは戸惑っている様子だった。無理もない、子供の身からしてみれば迷宮にも思えるだろう。一つ道を間違えてしまえば、どこに行き着くのかさえわからないだろうから。いままでは私や妻、そして城仕えたちが手を引いていたが、いまはエルサこそが手を携える側。ここで助力してしまえば彼女のためにならないだろう。だから我慢しなければならないのだ、私たちも。
「ふえ、え」
不意にアナが泣き声を上げ始めた。長い道のりに疲れてしまったのか、それともおなかが空いてしまったのか。
背後の妻が辛抱ならないと飛び出していきそうになるのを抑える、まだ待とうと、二人を信じようと。
「アナ、なかないで、アナ」
慰めようと必死に手を揺するエルサの声もまた、震えていた。こんな広い城内で手助けをしてくれる大人がいないのだから当たり前だ。いつの間にか私たち夫婦の後ろに列を成している城仕えたちも、自身の仕事も忘れただ二人の行く末を見守るしかない歯痒さを噛み締めている。
姉の目から涙がこぼれそうになった、刹那、エルサがぐっと天井を見上げる。そうして再び妹を見つめたその眸には、先ほどの力強さが戻っていた。堪えたのだ、エルサは、恐怖に打ち勝ったのだ。
「あなた、ちょっと黙って」
鳩尾に肘が入るが、こんな感動的な瞬間に口をつぐんでいられるはずもない。
「こっちよ、アナ」
エルサが選び取ったのは、左だった。迷ったら左の法則を教えていてよかった。見事に正解の道を突き進む二人。見覚えでもあるのか、確信を得たように歩みが早まっていく。
行き着いた先で、涙目のシェフが二人を出迎えた。きっと彼も気が気でなかったのだろう、順々に抱きしめ終わると、予定していたよりも大量のチョコレートをエルサとアナ、それぞれに持たせていた。
こうなれば後は帰路につくばかり、娘たちが無事部屋に帰還する前に私たちも戻っておかなければ。振り返ればもう、妻の姿はなかった。
***
「パパ! ママ!」
扉を開けて第一声、チョコレートを両手いっぱいに抱えた二人は、ベッドに腰かける私たちめがけて勢いよく駆けてきた。受け取ったそれらをテーブルに置き、思いきり抱きしめる。
「エルサね、なかなかったよ、えらい?」
「ええ、とてもえらいわよ、エルサ。さすがお姉ちゃんね」
「アナも! アナもほめて!」
「よく頑張ったな、アナ」
「えへへー」
それぞれに労いの言葉をかければ、それまで泣き出しそうだった表情が嘘みたいに晴れやかになっていく。
こうして、彼女たちのはじめてのおつかいは幕を閉じたのであった。
「ねえ、やっぱりあなた少し黙っててくれる?」
(私たちにだってはじめての経験だったよ、こんなに緊張するだなんて)
はじめてのおつかいに出かけた姉妹。
2016.1.14