良薬は口に甘し。

「本当に、きれいにむく、な、君は」  しゃりしゃりと規則的に響かせていた音にかき消されてしまいほど掠れた声の発信源は目の前のベッド。すっかり住人が板についてしまった夫は、つい今しがた剥いたりんごの皮とそっくり同じ色を頬に乗せたまま、必死に酸素を取り込んでいる様子だ。  無理にしゃべらないでと再三頼んでいるのにそれでも少し眉をひそめた笑みを浮かべるものだから、体調に問題はないはずのわたしの胸が痛みに軋む。できることなら変わりたいのに、そんなことは不可能で。起き上がれないほどの熱に唸る彼の横で、せめてもの世話を焼くばかりしかできないだなんて。  丸の形状を半分、さらに半分、そうして段々と細かく刻み、一口サイズと化した果物のかけらを口の前に差し出す。子供みたいに開けたその中にやさしく置けば、やや間があってゆっくりと咀嚼、すり潰すようにあごを動かして、のどを通過したところでようやく息をついた。  わずかな量しか食べられないものの、食欲はあるみたいだから大事には至らないだろう、とはお医者様の見解。もう一つとせがむ様子を見る限り、その診断は正しいのだろうけれど、だからといって心配が尽きるわけではなかった。 「他にほしいものはあります?」  物を用意する以外にできることはあるだろうに、肝心のそれ以外が浮かばない自分の残念な頭にほとほと辟易しながらも応えを促す。すると彼は眉尻を下げ、言いにくいことでも転がしているみたいにうーとかあーとか、熱から来る唸りとは違うそれを上げた。その姿がまるでまだ青年と呼べる年齢のその人のようで、思わず笑みを一つ。  ようやく拾い上げたのか、小さく手招きしてきた彼の口元に耳を寄せて。 「ほしいんだ、─…イデュナが」  吐息とともに口にされたのはよく見知った名前で、またたきを一つ、視線を向ければ、間近にある夫の顔はおもちゃをねだる子供のようだった。  思えばこの二日間、王妃に移ってしまったら大変ですというゲルダの言葉によって、くちびる一つ触れていない。三日目になってようやく入室を許可されたものの、相変わらず距離は置いたままで。  伸ばされた指をそ、と。常にない体温に、痛むのは彼の身体ばかりではない。 「…わたしも、」  屈みこんで口づけを一つ、ほんの一瞬だけ触れ合ったくちびるは甘い果実の味がした。 「ほしかったの、あなたが」 (…見事に移ってしまったな) (…わたし、ね、ほしいものがあるの) (もしかして、わた、) (りんご) (あ、はい)
 そしていつまで経っても治らない風邪。  2016.2.20