そうして彼女は鼓動を駆る。
握りしめた手綱よりも、甲に重ねられた手のひらに意識が集中してしまうのは仕方のないことだった。
「その調子だよ、イデュナ」
耳元で響いた声に身体が跳ねる。馬に揺られたものだとでも思ったのか、幸いにも咎められることはなかった。
乗馬してみないかと、誘ってくれたのは後ろで共に手綱を握っているアグナルだった。あまり興味はなかったけれど、いつか君と並んで走っていきたいんだ、なんて少年みたいな眸で言われてしまえば首を縦に振らないわけがなくて。
馬を操り風のように駆ける彼の姿は何度も目にしてきた。ただ前だけを見つめる眸はまっすぐで、迷いがなくて。視線に憧れた、いつかわたしも彼になれたらと、彼を追いかけるばかりのわたしから隣で走り抜けるわたしに変われますようにと。
そうして、まずは慣れてみようと同じ馬に乗ったものの、思っていた以上に近い距離に馬に親しむどころではなかった。彼の広い胸が、たくましい腕が、ごつごつした手のひらが、身体の至るところに触れていると考えるだけで体温が上がっていく。必死に逸らそうとするのに、至近距離でささやかれてしまえば途端に思考は堂々巡りを始める。
密着した背中から、ともすれば忙しない鼓動が伝わってしまいそうだ。どうか気付かれませんようにと、ひたすら目の前だけを見つめる。
「馬上から見る景色もいいものね」
景色なんてさっぱり頭に入ってこないけれど。
「少し高い位置から見れば、同じ景色でも変わって見えるのだから不思議だよ」
「好きなんでしょ、この景色」
「ああ、」
落馬しなかったのは奇跡かもしれない、
「──目の前に君がいるから、もっと好きになってしまったよ」
晒したうなじに口づけを送られてもなんとか手綱を握りしめていられた自分を褒めてあげたかった。
たった一瞬の出来事だったのに、くちびるが触れた箇所から全身へと瞬時に熱が広がっていく。どうして今日に限って髪を結い上げてきてしまったのか、自身を責めてみたところで乗馬の邪魔になりそうだからとなんとも冷静な答えしか返ってこなくて。
わたしの動揺に気付いてさえいない彼は、相変わらず指を絡めながら機嫌よく鼻歌さえこぼしてみせる。
猛練習して早く一人で乗れるようになろう、でないと心臓が持ちそうにないから。固い決心もきっと、耳にくちびるをつけた彼には伝わっていなさそうだけれど。
(乗馬をだしに傍にいられるのは、ちょっと、うれしいけれど)
イデュナさんにもひとりで馬に乗れない時代があったはず。
2016.3.6