鏡にとける。

「もう支度してしまうのか」  洩れた声は存外恨みがましく響いた。  鏡台の前に座ったイデュナは、すっかり化粧を施し終わった顔を鏡越しに向けてくる。つと口元に乗せた笑みの、なんと艶やかなこと。少女を残した桃色のくちびるには紅が引かれ、上品な妖艶さを纏っていた。対外的な我が王妃ももちろん美しいのだが、幼ささえ感じさせる素の妻の方が好きだと告白すれば、彼女は怒るだろうか。 「女性の身支度には時間がかかるものよ、アグナル」 「だがもう少し朝を楽しんでもいいだろうに」 「だってあなた、なかなか起きてくれないんですもの」  ガウンを羽織り、くすくす笑みをこぼす妻の真後ろで足を止める。櫛で梳き終えた彼女は、髪を結おうとちょうどまとめ上げているところだった。  白いうなじが朝日を受けて、まるできらきらと輝きを放っているようにさえ映る。今日は襟のない服を着る予定だからと、くちびるを押し留められた昨夜をふと思い出した。ならば彼女が起き出すよりも先に目覚めて存分につけてやろうと企んでいたものを。イデュナとの寝心地の良い夜に、いまばかりは恨み言をぶつけてみる。 「…っ、ちょっと、」  息を呑む音、次いで非難がましく上げられた声に、悪戯に笑ってみせた。こんなにも無防備な少女を、一体どうして衆目に晒せるというのだろう、少なくとも私には不可能だった。  浅く口づけただけの痕はきっとすぐに消えてしまうが、幸いにも当の本人には見ることが叶わない。 「消えるまでもう少し、ここにいてくれてもいいのだが」 「…嫌と言ったって外に出してくれないくせに」 「そんなことはしないよ。君が出られるならの話だがな」  もう一度首筋にくちびるを落とす。束ねていた髪を下ろした彼女は深いため息を一つ、それでも鏡に映った表情はどうしようもなく笑んでいるように見えて。  髪を梳いた指がなににも引っかかることなく滑っていく。そうしてあごを捕らえて、持ち上げた格好をそのままにくちびるを重ねた。ふふ、と。ようやく洩れた笑い声につられて頬がゆるんでいく。 「まったく。わがままな人ですね、あなたは」 「知っているくせに」 「ええ、とても、ね」  果たして私たちの朝はいつまで続くのか。いつまでも続けばいいと、願いを抱いてくちびるを合わせる。目の前の鏡はしあわせそうなふたりだけを映していた。 (ねえアグナル!もうお昼よ!) (そんなに痕をつけてどこに行こうと言うんだい?) (誰のせいだと思っているのよ!) (私以外の誰かだと困るな、とても)
 髪を結ってる姿ってかわいいよね。  2016.3.6