"Gotcha!"

「イデュナ?」  もう何度目かわからない名前を口にしても、返事がもたらされることはなかった。肩を落として閉めた扉はこれでいくつになっただろう、数えるよりも先に次なる場所へと足を進める。  といっても、もう心当たりは全部当たってしまっていた。お気に入りである窓辺の長椅子にも、いまの季節踏み入れるには少しばかり遠慮しておきたい温室にも、そうして私たちの寝室にさえも、探し求めている妻の姿は見当たらない。  当てもなく早めていた足を、けれどふと止めて。 「…もしかすると、」  ***  角を曲がった途端、風にあおられた香りが全身を包み込んだ。決してむせ返るような下品なにおいを持たない花たちの名前は一体なんだっただろう、毎年尋ねているはずなのにちっとも覚えることができないのは恐らく、喜々として教えてくれる彼女の方が私にとって魅力的すぎて、視線も思考もすべて奪い去ってしまうからだろう。  そうして、いままさに。  咲き誇る満開の花々の中心に佇む彼女から、目を離せずにいた。淡い色合いの真ん中に立つ彼女さえ、ともすれば風に揺られて消えてしまいそうなほど儚げに見えて。  眸を、閉ざす。 「──あら、アグナル!」  ようやく呼ばれた名前につられて視界を開けば、いつの間にか振り返っていたイデュナが頬に微笑みを乗せていた。ああ、消えてしまわなかった。当然のことであるはずなのになぜだか落ちてきた安堵に胸を撫で下ろして。  距離を詰めていく、そのたびに揺れる花弁が存在を主張するように香りを舞わせる。 「探したよ、イデュナ」 「ごめんなさい。それで、用事って」 「まさにこれだよ」  手を伸ばせば届く位置にまで迫ったところで足を止め、両腕を広げてみせる。  城の東側、陽が一番当たるこの場所に咲く花たちを目に焼き付けようと、私たちは毎年揃ってここを訪れていた。種を撒いたのは私だったか、それとも少女の頃の彼女か。どちらか覚えてはいないが、いつか生まれる子供たちにも見せれますようにと無邪気に祈る少女は鮮明に思い出すことができる。  あれから何度、花開いたこの色を見てきただろう。初めは妻とふたりきりだったそれが娘がひとり増え、ふたりになって。果たして少女の願い通りになったのだ。  少女の面影を残したままの妻は笑う、一番乗りしちゃいました、と。変わらぬ無邪気さを一ふるい。 「ここは変わらないわね。─…わたしたちは随分と変わってしまったのに」 「変わらないさ。いつだって私は、君を追いかけてばかりだから」 「あら、昔のわたしは落ち着きがなかったって言いたいのかしら」 「現在進行形に直してもらえるとありがたいね」  水面色の眸が悪戯に光る。それは心外ね、とでも言いたそうに。 「言っておくけど、わたしだってあなたを探していたんだから」  肩を竦めるその言葉が正しいのであれば、私たちは目的地を同じくしていたのにすれ違っていたことになるのだろうか。寝室を覗いて、温室に足を踏み入れて、そうしてここならば会えるかもしれないと。彼女もきっと、そう行き着いたのかもしれない。 「会えないかもしれない、なんて。ありえないことまで、考えちゃって」  ふいに、寂しさをにじませて。毎年同じ日に、先にふたりだけで見ようと約束していたのだ。互いの小指を結んで契った子供みたいなそれを、けれど一度も破ったことはなくて。だというのに見つからなかったことをきっと不安に思ったのだろう。忘れたのかと思いました、なんて。それは私の胸の内にもあった想い。  さくり、それまで成りを潜めていた足跡が動きを見せる。寂しさを押し殺したかと思えば、悪戯な色を顔いっぱいに広げた彼女はそうして、体当たりよろしく思いきりぶつかってきた。突然のことに受け止めるので精一杯、背中は地面に一直線。土が柔らかかったことだけがせめてもの救いだろうか。  まだ若いと大臣に言われてはいても、そろそろ疲れが翌日にまで残り始める年齢だ、きっとしたたかに打ち付けた背も明日になって痛み出すのだろうな。  そんなことを頭の隅で考えている合間に、がば、とイデュナが身を起こす。その眸にはあの頃の澄んだ色があって。  見下ろされるのもたまにはいいものだと、早くも痛みを感じ始めた思考を逸らすべく考え始めたのはそんなこと。 「捕まえたわよ、ようやく」 「どこにも逃げた覚えはないが」 「そうね、」  だって、 「どこにも逃がすつもりはないもの」  ひそやかに囁かれた言葉は風に乗り、私の耳にだけやさしく届いた。 (ところでこの花はなんという名前だったかな) (アイリスよ。来年からは覚えていてくださる?) (…いや、難しいな。君の方があんまりにも可憐だから) (それを人は歳って呼ぶのよ、アグナル)
 アイリス畑でつかまえて。  2016.4.19