もっとあなた色に染め上げて。
身支度を手伝ってもらう朝にはまだ、慣れない。だから化粧部屋にはゲルダ一人。これもまだ、緊張の種ではあるのだけれど。
ネグリジェを肌から滑り落とし、コルセットの紐を結んでもらうべく背中を向け髪を上げる。
「まあっ、こんな場所にも!」
「え、」
ひたり、彼女のあたたかな手が触れるそばから熱が広がっていく。羞恥に染まったって隠しきれないくらいの真っ赤な痕が残っていることは、自身の胸元を見下ろせば明らかだった。
まあまあまあ、と背後から声高に上がるそれは非難半分、喜び半分、といったところ。わたしと自身の主が仲睦まじくしているといつも、滅多に浮かべない笑顔を広げるのだ、彼女は。
だけれどいまばかりは困ったようにため息を一つ。
胸元は服で隠せるとして、首筋は嫌でも人目についてしまうから。目敏くも見咎めた侍女たちにまたどんな噂を立てられるのか、想像しただけで顔でお湯が沸かせそう。
もちろん彼女たちに悪気がないことくらい知っている。自分の恋のように話題に乗せ、頬を染め喜びの声を上げる気持ちは、同年代のわたしにだって痛いほどわかるから。けれどそれは噂される当事者でなければ、の話であって。
首筋に咲く色が見つかった時、果たして今度はどんな脚色がなされるのか。卒倒してしまいそうだから止めておいた。
「しばらくは髪を結わずにお過ごしくださいませ」
「…ごめんなさい」
「いつまで経っても手のかかる王子ですこと」
もうすっかり戴冠し終えたというのに昔の敬称のまま呼んでしまうゲルダに、ひっそりと笑みを返す。若くして即位したにも関わらず、国王としての責務を十分すぎるほど果たしている夫はけれど、どこか子供っぽさが抜けないのだ。彼女に言わせてしまえば、男性は皆そうなのですよ、とのことだけれど。
息を一つ、再び背中を向けようとしたわたしに、そういえばと、なにかを思い出した風のゲルダが衣装箪笥を漁り出す。やがて見つけ出したのは小さな小箱だった。
「これを王妃にと、」
***
「──アグナル!」
極力ボリュームは抑えて、それでも名前の主に届くようにと声を飛ばす。果たして耳に入ったみたいで、何冊かの本を抱えた目的の人は振り返り、見る間に顔を綻ばせていった。
最後の足音は彼の目の前で止めて。
「受け取ってくれたのか」
声にまで嬉しさをにじませた彼の手が手近な机に本を置き、そのまま髪をさらっていく。
揺らめく赤いリボンは、端を弄んでいるアグナル本人がくれたもの。国王が身に付けるべきベルトと同じ気品ある赤。いつかわたしにと、ずっと前から用意してくれていたのだという。それこそ、あのゲルダが忘れてしまうほど前から。
「よく似合っているよ、私が思った通りだ」
ありがとう、と。お礼を述べるよりも先に、掬われた毛先に口づけが落とされ、置き去りにしていたはずの熱が瞬時に頬に上ってくる。そうだ、彼を探し出したら最初に口にしようと考えていた言葉を忘れていた。
ば、と勢いよく顔を上げれば、またたきをこぼした彼が首を傾げる、どうして怒っているんだ、そんな風に。昨夜とは打って変わったその純粋な視線に思わず怯みそうになるものの、ぐ、と堪え。
「どうしてくれるんですか」
「だから一体なんの話なんだ」
「その、…首元に、つけたから」
「ああ。綺麗につけていただろう」
合点がいったのか、途端に爽やかな微笑みを浮かべた夫である人を思いきり張ってしまいたかった。静かな書庫だ、きっといい音がするに違いない。
それでもまた耐えて、代わりに襟元を掴んだ。身長差のせいで踵を浮かせなくてはならないことが癪だけれど。
「ははっ、苦しいよイデュナ」
「どうして笑っていられるの! ゲルダにまた見つかっちゃったのに!」
「喜んでいただろう?」
「呆れてましたよ!」
彼は最近、いいえ、はじめて出逢ったころから、わたしの言うこと成すことにプラスの感情しか向けてこないのだ。君はなにをしてもかわいいから、とは彼の言。嬉しいのだけれど、真面目に話を聞いてほしい時だってあるの。
いまだってそう。真剣に取り合おうとせず、ふと手を伸ばしたかと思えばまた、リボンに触れてくる。その道すがら掠めたうなじがまるで引っかかれたみたいに熱を帯びたことにきっと、彼は気付いてしまったはず。だからこそ、見上げた眸はこんなに意地悪く細められているわけで。
「誰かに見つかるかもしれないのに結んで、わざわざ見せに来てくれたのだろう?」
ひそり、呟かれたそれは核心に触れすぎていた。
さすがにいつもみたいに結い上げるわけにはいかないからハーフアップに、けれど早く見せたいという気持ちも相まって探していたなんて。彼と僅かでも同じ色を身に付けられたことがこんなにも嬉しい、だなんて。全部全部、知っているのだ、アグナルは。
さて、と。口を閉ざすばかりのわたしとの距離を詰めた彼が問いかける。
「君はなにを言いに来たのかな、イデュナ」
「─…わたし、」
もうとっくに両手は離したというのに、彼に抱きすくめられ踵は浮いたまま。逃れられない視線に絡め取られたわたしは、昨晩の続きを口にするしかなかった。
(だからせめて見えないところにつけてって…)
(問題ないだろう?なにせ私たちはこの国公認だからな)
(夫婦だから当たり前でしょ)
お揃いの色のリボンつけて嬉しいイデュナさん書こうとしただけなのに。
2016.4.20