あと一歩、
こんなにも無防備な寝顔を晒していることが珍しくて、ついじろじろと、不躾にも眺めてしまっていた。彼の規則正しい寝息がかかる位置にまで近付いているというのに、気付くどころかまつげを震わせる気配もないまま。ソファのひじ掛けに足を投げ出して眠ってしまっている。
アグナルの─そう気軽に名前を口にすることにもまだ慣れていないけれど─こんな姿を見るのははじめてのことだ。だってわたしたちが知り合って、まだ季節は一巡りもしていないから。
この国の最高権力者である彼は王位を継いだばかりで、慣れない公務に心労を重ねているのかもしれない、ベッドではなくソファで、王らしからぬ体勢で眸を閉じてしまうくらいに。
隙間に腰かけ、そ、と手を伸ばす。額を流れる髪を整えて、くまの浮かぶ目尻を拭って。
わたしは彼に安らぎを与えられているだろうか、と。ふと浮かんだ思いはずっとのどに溜まって吐き出せずにいる言葉、わたしはあなたの妻になれているかしら、なんて。優しい夫のことだからきっと眸をゆるませ、なにを当たり前のことを、そう答えてしまうのだろうけれど。
せめて夢に沈む少年みたいな彼の癒しになれたらと、そんな願いを指先に乗せて、胸に置かれた手の甲に触れる。
ふ、と。その手が掴んできたと理解したころには、体勢が崩れ腕に抱き留められていた。
「私の寝込みを襲う悪い子は誰かな?」
「…っ、起こしてしまったかしら」
「君の気配はすぐに分かるよ」
「ごめんなさい…」
「謝らないでくれ。私がこうしたかっただけだ」
ああほら、また。いつだってあなたはわたしの心をすくい上げてくれるのに、わたしはあなたになにも返すことができないまま。こうして大人しく抱きすくめられることしかできない。あなたのくまの一つでも消したいと願うのに、魔法使いでもなんでもないわたしはただ、叶わぬ祈りを呑み込むだけ。
熱を持つ目頭にぐ、と奥歯を噛み締める。泣いても彼を困らせてしまうだけだ。これ以上苦労の種を増やしたくはない。
胸に頬を預け、深呼吸を一つ、同じタイミングで落とした彼の息と重なっただけで鼓動が跳ねる。
「私はしあわせ者だ、」
頭を撫でていく心地良い熱が髪から、頬から、首筋へと伝わっていく。
ついとあごに伸びた指に促され視線を持ち上げれば、ついさっき思い描いたやさしい眸と出逢った。
「──君が傍にいてくれるんだから」
「─…それは、」
それはわたしの言葉よ、そう言いたかったのに最後まで音になってくれることはなかった。代わりに洩れ出した嗚咽を早く止めなければと、思うだけで雫が留まるはずもなくて。
日々王国のために心を尽くしているあなたの頭一つ撫でてあげられないわたしをこうして傍に置いてくれることに、あなたの名前一つ呼び慣れないわたしにこうして微笑みかけてくれることに、どうしてしあわせを感じないでいられよう、どうして苦しくならないでいられようか。
「聞いてくれ、イデュナ、お願いだから」
いとおしさを名前に変えて伝えられたらどんなにかいいのにと願うのに、想いのかけらさえ届けられない。
だというのにわたしの頭を引き寄せた彼は、頬に、目尻に、口づけを落とす。
「私はね、イデュナ、君にたくさん助けられているんだ。知っているかな」
「いいえ、そんなはずないわ、だって、」
「どうか否定しないでくれ。私があいした君を傷付けないでくれ」
ふ、と。真正面から眸を覗き合って、くちびるが近付く、しょっぱいそれはきっとわたしの味。
どこまでもやさしい彼はこれ以上の弁明を望まないのだろうけれど、それでもいつか、この言葉が届きますようにと。
「あいしているよ、イデュナ」
「──わたしも」
いつか自分から、愛がささやけますようにと。
(届かない名前は今日も、のどの奥にすべり落ちていってしまう)
まだ自信が持てないころのイデュナさん。
2016.6.6