ゴングを鳴らしたのは誰であろう君だった。

 夜の始まりは自然だった。  今日は遅くなると告げれば、なら待っていますと返され。視線を上げ、交わした眸は色を含んで細められていた。  そうは言ってくれたものの、彼女と深める夜ももう五日を数えている。さすがに先に眠りに落ちてしまうかと思ったが、寝室に帰ってみれば、予想に反してしっかりと目を覚まし、おかえりなさい、などと。かわいらしいネグリジェ姿のまま、ベッドの上で幼子のように足を崩して座っている妻に欲情しない夫など、一体どこにいるというのだろう。  服を脱ぐのもそこそこにくちびるを求める。  身体を倒すと同時、重なったくちびるから吐息がこぼれる。  夜を共にしたばかりの頃は無垢な子供のように拙い舌使いだったというのに、いまや自ら私の舌を引き入れるまでになってしまった。どこで覚えてきたのかと不安を覚えるほどのそれにけれど、全部あなたに教わったんですよと少々ふくれて答えたいつかの彼女が浮かぶ。当の私はといえばそんなこと教え込んだ記憶もないが、きっと彼女は呑み込みが早いのだろう。なにより、私の色に染まってくれている、そのことに胸を締め付けられて。  柔な双丘に手を伸ばす。指先が触れただけで怯えていた最初の夜とは打って変わって、私の指を拒むことなくやわらかに受け止めていた。  どこまででもかたちを変えていくそれに合わせて息が落ちていく、一つ、二つ、狭まっていく間隔に、彼女も確かに熱を高めているのだと。 「イデュナ、」 「いいわよ、──きて」  最後まで口にせずとも、私が限界をとうに超えていることを察してくれたらしい。呼吸と共にこぼされた許しに、性急に自身の熱を押し込んだ。  ぐ、と。詰める息。  あたたかな感触に、けれど違和感があった。いつもなら喰いちぎらんばかりに締め付けてくるものを、あと一歩の快感にまでは届かないのだ。  もしや自分本意にしてしまったからかと慌てて顔を窺ってみるも、寄った眉に苦痛は見えず。とりあえず胸を撫で下ろせば、ふと、シーツをぎゅっと握りしめた甲が目に入った。私の視線に気付いた彼女が、ふ、と。悪戯な笑みをにじませて、 「焦らされる気分はいかが?」  ──すべて彼女の策略なのだと、悟るのは簡単だった。どうにか力をこめないよう、指先に逃がしているのだ。  本当に彼女は呑み込みが早い。私を煽る術にももう、長けてしまっただなんて。  方々へ散らばった理性をかき集め、かたち作った笑みを向ける。円を描くように下腹部をなぞれば、それまで勝利を確信していたようだった彼女の表情が凍った。 「─…随分と余裕があるみたいだな」 「や、そこは…っ、」 「おしおきだよ、イデュナ」  伸びてきた手を奪い去り、囁き終わるよりも早く下腹部を押した。  擦り付けるように上の壁を突けば、ひ、と。悲鳴にも似た音が消えては、さらに高さを増した音に上書きされていく。途端に別の生き物みたいに喰いついてくるものだから、目の前にまで見えた果てを追い払うのに苦労した。私が先に落ちてしまっては意味がない。  右手をぐいぐいと押せば、もう片方で重ねていた指をかたく握りしめられる。目尻に雫さえ浮かべた彼女がいやいやと首を振るのも構わず最奥に踏み入れば、く、と真っ白なのどが反った。  一際強い刺激に堪えきれず、かたくまぶたを閉ざす。  やがて波が去った頃合いを見計らい開いてみれば、恨みがましく見上げてくる水面色の眸と出会った。 「…いじわる」 「最初に仕掛けてきたのは君だろう」 「だって、」  まだ年若い妻は淡く色づいたくちびるを尖らせ、少女の表情をそのままにぷいとそっぽを向く。 「…わたしばっかり、翻弄されてる気がしたんだもの」  ふてくされた彼女はそう言ってシーツに顔を埋めてしまう。くぐもった声が語るには、あなたはいつも余裕たっぷりだから、と。  そうしてついにはきらいよとまで言い始めてしまった背中を思いきり抱きしめる。驚いたのだろうか、繋がったままの熱にまた喰らいつかれて。 「私はいつだって、君に溺れているんだよ、イデュナ」  シーツの隙間から覗いた水面色がぱちり、またたきを一つ。  大切にしたいから、壊したくないからいつも精一杯熱情を抑えていることに、一体いつ、彼女は気付いてくれるのだろうか。  口づけを一つ、私の涙ぐましい努力を蹴散らすかのように彼女はまた、牙を剥いた。 (つまりは宣戦布告と取っていいのかな)
 やっぱりママはパパには勝てません。  2016.7.26