酔わされたのは、私の方。
どこまでも深い闇を、ランタンの灯りだけがやわらかく切り取っていた。書類を繰る音が静寂を気紛れに遮る。
あと二枚。軽く目を通し終えたら、妻の待つ寝室に戻ろう。
起きて待っているわ、なんて手を振っていたものの随分と時間がかかってしまったし、なにより部屋を後にする際、とろける目をこすっていた。きっともう一足先に夢の中だろう。あどけない寝顔でベッドに沈んでいる彼女を思い浮かべたら自然と頬がゆるみ、しぼみかけていたやる気も目覚めた。あと少しだ。
目元を押さえ、欠伸を噛み殺す、
「アグナル、」
ひたり、落ちてきた声に思わず肩が震えた。私の名を紡いだ音が、こんな肌寒い夜とは思えないほどに熱を含んでいて。妻が恋しくてついに幻聴が襲ってきたのかと一瞬耳を疑ったが、背後から回ってきた両腕は確かに現実であることを知らせていた。
頬が吸い付くように寄せられる。とけ出しそうに熱いそこが、私の頬の冷たさを奪っていく。
「イデュナ、何故ここへ、」
「だって、待ちきれなくて」
吐息とともに香ったのはアルコール。もしや酔っているのだろうか、そう考えればこの熱にも納得がいく。
そういえばイデュナが楽しみにしていたワインを今夜空けようと話していたのだった。遅くなるから次の機会にと詫びを入れたが、待ちきれずに飲んでしまったのだろう。きっとふて腐れながら杯を傾けている姿を想像すれば、存外かわいらしい。
「もう終わりました?」
尋ねる声は背後からすぐ隣へ。裸足なのか、足音は絨毯に呑み込まれていた。
狭いソファに無理に身体を押し込め、私の膝の上と肘掛けに半分ずつ、腰を下ろす。再び、今度はより距離を詰めて両腕を回してきた。
猫が近付くそれのように顔をすり寄せる。彼女の下ろされた髪が、動きに遅れて揺れ、首元をくすぐっていった。意識を逸らそうと視線を下げるも、華奢な身体を包むネグリジュが視界でひらめいてそれも上手くいかない。彼女は寒さを感じてはいないのだろうか。密着した胸も、腕も、頬も、こんなにもあつくて。
まどろみとも違う色を眸に灯したイデュナは、掲げたままの書類に視線を投げる。恐らく全体重をかけているだろうにその身は羽のように軽かった、本当に彼女は私の目の前にいるのかと疑ってしまうほど。
「あと二枚だよ」
つと、書類を奪われ、しかし目を通すでもなく床に放られる。無情にもぱさりと落ちたそれらに手を伸ばそうにも、向きを変え真正面から眸に映し込まれてしまえばそれも叶わない。
紅を落としたくちびるを、舌が這う、ワインの残り香を辿るように。
ゆっくりとまたたいたまつげが、妖しく影を落とす。
ランタンがじりじりと世界を揺らめかす。油の終わりが近いのかもしれない。もうすぐこの空間も閉ざされてしまう、そうすれば私たちも、この暗闇に取り込まれて。
「ねえ、アグナル、」
片手がふとももに伸びる、色素の薄い眸にランタンの灯火がちろちろと、最後の足掻きを残していく。慈しむように、ともすれば夜に手招くように。
喉が、鳴る、飲んでもいないアルコールが落ちていった気がして。
「──待ちきれないの、わたし」
灯りが、ふ、と、かき消えた。
(夜の帳は、降りたばかり)
次の日の朝思い出してなんてことしたのよわたしって真っ赤になってるといい。
2017.1.27