むかしむかしのお伽噺。

 夢を、見ていた。  むかしむかしの庭園で。めいっぱい背伸びをした男の子が、咲き誇るバラよりも赤く頬を染めて、大きくなったらお姉さんと結婚する、だなんて。指切りまでして約束を交わしたあの日は、一体いつのことだっただろうか。 「──姫様、イデュナ様!」  名を呼ぶ声と、きつく締められたコルセットにより、沈み込んでいた思考が一気に現実へと引き戻された。呼吸が苦しい、いつもより固く締め過ぎではないかしら。  鏡越しに恨めしい視線を送れば、背後からひょこりと顔を現したゲルダが眉を顰め、呆れたように息をつく。 「まったく。今度はどこに意識を飛ばしておられたのですか」 「まるでわたしがいつも呆けているみたいな言い草ね」 「その通りではございませんか」  確かに少し集中力が足りないのは認めるけれど。その通りではあるのだけれど。そんなにはっきり言わなくったっていいじゃない。なんていうわたしの反論も見越しているのだろうゲルダは更に追い打ちをかけてくる。曰く、一体いくつになれば落ち着きというものを身に着けられるのですか。曰く、早く良い縁談をまとめてお父上の心労をお減らしになられたらよいものを、云々。  さすが、わたしが生まれた頃から付き従ってくれているだけあって、容赦がまったくない。刺さる言葉たちと、ぐいぐい締め付けてくるコルセットに胸とおなかを同時に痛ませつつ、息を一つ。  わたしだって好きで独り身でいるわけではない。行き遅れと囁かれても仕方のない年齢だとは重々承知しているし、それでお父様やお母様に心配をかけている自覚だってある。あなたはいつになったらかわいい孫の顔を見せてくれるのかしら、なんていうお母様の嘆きも聞き飽きた。  けれどどうにも、出逢えないのだ。諸国の王子や公爵と言葉やダンスを交わしてきたけれど、いまいち心にはまらない。恋愛に関する書物やお伽噺によく見る、いわゆる運命の人であればきっと、胸の高鳴りを抑えられないはずなのにそれもないまま。  夢を見過ぎていることくらい、わかっている。けれどどうしても、どこかに存在しているはずの運命の人に出逢いたくて。そうしてそのたびに思い出すのは、名前さえ知らない遠い日の少年のことばかりで、 「ねえ、ゲルダ。ずっと昔に、小さな男の子が来たことはあったかしら」  想いを馳せているうちにすっかりわたしの身支度を終えたゲルダに尋ねてみる。  あれは確か、随分と前の初夏のこと。大広間で開かれていたパーティーを抜け出し裏の庭園でひとり時間を潰している時に、茂みにうずくまっているひとりの少年を発見した。どうやら広大な庭園で迷子になっていたらしい少年があんまりにも心細そうに眸を潤ませていたものだから、その小さな手を引いて城の入り口まで案内したのだ。  お姉さんってすごくきれいだね、と。入り口にたどり着いても手を離そうとしない少年は呟く。きらきら、まっすぐな眸で見上げてきて、手をぎゅっと握って。大きくなったらお姉さんとけっこんしたい、なんて。穢れのない言葉がなんだか嬉しくて、じゃあ約束ねと、小指を絡ませて。君が大きくなったら絶対、わたしを迎えに来てね。  きっともう少年でなくなってしまっただろう彼は、その一つだって覚えていないだろうけれど。  悩む仕草をしてみせたゲルダは、やがて手を鳴らし、そういえばと。 「その方でしたら、」 「失礼いたします、イデュナ様! 王子様がお見えになりました!」  ゲルダの声を遮った侍女の言葉に、ふたりして一斉に扉の方へと視線を向ける。息を切らして飛び込んできた年若い侍女は肩を上下させ、自身の後方をちらちらと窺っている。 「到着は午後だと聞いていたけれど」 「それがもう、すぐそこに、」 「失礼、お嬢さん」  ふ、と。唐突に、女性のものとは明らかに高さの違う音が割って入ってきた。瞬時に頬を染めた侍女がそっと道を開ける。  開け放したままの扉から現れたのは、すらりとした利発そうな男性だった。部屋をぐるりと見渡した彼は、やがてわたしに目を止めその笑みを深める、ようやく出逢えた、と。どこか嬉しそうな響きを含んで。 「貴女がこの国の王女様、ですか」 「ええ、…あなたは、」 「申し遅れました、私、アレンデールのアグナル王子です」  恭しく腰を折った彼のどこかに、覚えがあった。耳にしたことのないはずの声が、はじめて目にしたはずの表情が、なぜだか無性に、懐かしくもあって。  やはり覚えておられませんかと、寂しそうに眉尻を下げた彼はつと。目の前に差し出してきたのは小指。つられて小指を掲げれば、絡めて、くちびるに寄せて。  ──むかしむかしの庭園で。めいっぱい背伸びをしていた男の子と、小指にいたずらに口づける目の前の男性がふいに重なる。見上げてきていた眸は確か澄んだ黄金色で、日光に照らされた髪はきらきらと輝いていて、そうして、 「迎えに来ましたよ、──お姉さん」  まっすぐな視線が、夢に焦がれ続けたわたしを射抜いて。  高鳴る胸をもう、抑えることができなかった。 (頬を赤くあかく染めたのは、わたしの方)
 6歳差のアグナルさんとイデュナさん。  2017.3.14