おやすみ、どうかよい夢を。

「ママ!」  昔と変わらない呼称に引き止められた。振り返ると同時、二つ分の軽い衝撃が身体を包み込んでいく。右にはエルサが、左にはアナがそれぞれ抱き付いてきていて。  その背をそ、と。あたたかなふたりはまるで太陽のよう。ぽかぽかと、わたしには無いぬくもりを与えてくれる。こんなにも、心をあたためてくれる。わたしの、わたしとアグナルだけの、太陽。 「あのね、見てほしいものがあるの!」  そう囁いたエルサがわずかに距離を空け、両手をきゅ、と握り込む。ふわりと優しく開いて、空に振り上げて。そうして白い軌跡が高く舞い上がったかと思えば、天井で霧散し、きれいな結晶をこぼし始めた。  部屋を彩っていくそれらに、どうしてだか涙が止まらない。笑顔でわたしを見つめてくるふたりをもっと映していたいのに、ぽろぽろ、ぽろぽろ、視界がぼやけて。  手を伸ばす、あれだけ傍にあったぬくもりを求めて。 「…ええ、とっても、」  夢はいつも、そこで暗転する。 「イデュナ、」  わたしを引っ張り上げてくれた声は聞き慣れたそれ。  まだ微睡んでいたいのだと抵抗するまぶたをこじ開け首を巡らせれば、心配そうに覗き込んでくる夫の眸とぶつかった。目の下に残った隈はきっと、わたしと同じもの。しっかり眠れてはいないのか、あるいはわたしみたいに夢に侵されているのか。どちらもきっと、間違ってはいない。  それ以上なにも問うことはなく、肩に手が回ってくる。触れたぬくもりは、夢の中で感じたそれとまったく同じ。同じであるはずなのに、もうふたり分のそれはどこにも、見当たらなくて。  目の前のベッドで眠るふたりは、わたしにぬくもりを与えてはくれなくて。  エルサが眠りについたのは、ちょうど十年前のこと。頭に魔法を受けたアナが、どんな手段を講じても目を開かないと知った次の日の朝には、その身を凍らせてしまっていた。  心臓が止まってしまったわけではない。脈を取ればちゃんと鼓動は感じられるし、浅いけれど呼吸もある。それでも一日待てど三日経てど、その薄氷色の眸が覗くことはなかった。アナも同じで、トロールの力で魔法は取り除かれたはずなのに目を覚ますことはないまま。いまもこうして、エルサの隣で眠り続けている、十年間も。  意識は無くとも成長していく身体に呼びかけ続けた、毎朝、毎晩、それは今日の出来事であったり、夕食のメニューであったり、アグナルの失敗談であったりするのだけれど。大半は、どれだけわたしたちが愛しているかということ。どれだけわたしたちが、あなたたちの眸に映りたいかと、ただ、それだけを。 「…どんな夢を、見ているのだろうな」  ぽつり、と。呟いたのはアグナルだった。わたしの肩を抱き寄せたままの手が震えている、小さく、ちいさく。その気持ちが痛いほどわかって、手を、握りしめた。どうかひとりで震えてしまいませんように、せめてわたしたちふたりで共有できますようにと。 「─…しあわせな夢よ、きっと」  熱を持った雫が、肩にこぼれ落ちてくる。  きっとしあわせな夢に違いない、だってふたりの表情はこんなにも、嬉しそうなんですもの。そう思い込むしか、なかった。せめて夢の中ではしあわせであってほしいと、願うことしかできなかった。 (ふたりのいない朝が、またひとつ、)
 ふたりの娘がどうか、しあわせでありますように。  2017.3.14